あれから約一年。

関東圏の大学に進路を決めて、アルバイトをしながら、がむしゃらに勉強した。

高校の授業ではこんなにもたくさんの事を教えていたのかと、改めて頭が痛くなるような思いがしたけれど、嘆いても、苦しんでも、どのみち時間は同じように過ぎるから、それなら足掻いた方がいいと、何度も自分に言い聞かせて、努力した。

ここからは、たった一人で歩き始めた道のりだ。

俺はまだたくさんの人の力を必要としているけれど、でも俺の望みを叶えられるのは、俺しかいない。

(そうだよな、晃?)

指輪に口付ける。

勉強の合間に、仕事の合間に、何度も空を見上げて、足りないときは、隠れてこっそり思い出にキスをするのが癖になっていた。

ラベンダーのアロマも、いつの間にか必要なくなってしまっていた。

日々が忙しすぎたからだろうか?

ふと思い出して探してみたけれど、馴染みのホルダは部屋のどこにも見つけられなかった。

バイト先の悪い先輩から煙草と酒を教わって、気晴らしに嗜むようにはなったけれど、女関係の遊びだけはどうしても気が乗らなくて断り続けた。

「フィアンセがいるんです」

あるときしつこく誘われて、煩わしさにリングを見せつつそう断ったら、今日日珍しくストイックな青年だと感心されてしまい、困惑したこともある。

(まあ、フィアンセといっても、男なんだが)

興味を持った相手の質問を、皆守はのらりくらりと煙に巻いた。

このリングにまつわる、俺の決意や、想いを知ったら、彼等はどう思うだろうか。

遙か遠い空の下、今も、きっと、望みのために世界を駆け巡っているだろう、玖隆の姿。

たった三ヶ月交流を持っただけの男の存在が、いまや人生の指針そのものになっていると知ったら、馬鹿だと笑われるだろうか。

(間違いないだろうな)

勝手な解釈や、妙な偏見すら抱かれるだろう。

そんなことは我慢できない。

周囲の思惑や視線などより―――玖隆との出来事は、例えどれほど些細なものであったとしても、誰とも共有したくないし、どんな想像も許さない。

玖隆は『思い出』が秘宝ほど価値あるもののように言っていた。

(俺にとっても、それは同じだ、あいつとの記憶は、何もかも俺が独占する)

呆れるほどの執着心と欲心に、当人が聞いたら苦笑するだろう。

皆守だって馬鹿だと思うし、どうかしているとも思う。

(けれど)

 

あの日、あの場所で聞いた玖隆の言葉が、脳裏にこびりついて離れない。

居場所はここだと囁いて、強く抱きしめてくれた腕の感触が、忘れられない。

 

目を閉じるだけで、リングを唇に押し当てるだけで、蘇る温もりに心を絡め取られてしまう。

けれど、それは、かつてのような重く苦しいものでなく、甘美な高揚感だ。

皆守はそのたび、決意を新たにさせた。

(俺は、必ず、俺の居場所に、再びたどり着いてみせる)

 

そうして、季節が明けて、春―――

 

「受かったよ」

電話口で簡単に報告を済ませて、コトコト煮えている鍋の方へ戻っていく。

一年間、多忙すぎて誰とも連絡をせずにいたら、昔の仲間達とはほとんど音信不通になってしまった。

皆も忙しくしているのだろう。

両親からも祝福されず、皆守は一人、カレーを煮込んでいた。

合格発表日の三日前から仕込んでおいた、本格派インドカリーだ。

食材も、少し奮発していいものを買い揃えた。

サフランを突っ込んだタイ米がもうすぐ炊き上がる事を、電子炊飯器のモニタ表示で確認して、皿の用意に取り掛かる。

一皿取り出して、もう一皿取り出そうとして、少し考えて、勿体無いのでやめにした。

代わりに、金のリングに口付けをする。

再び戻って、鍋の淵に引っ掛けておいたお玉でカリーをぐるりとかき混ぜて、少しすくって味をみる。

進学先は語学系の短期大学で、本場の講師を招いて英語圏の勉強を特に重点的におこなっていると謳っていたから、資料請求して、散々検討して、決めた。

今、俺に必要なのは、とりあえず海外でも1人で暮らせるだけの英語力だ。

(他の事は空いた時間に自力でも学べる)

先の予定は、もう決めてあるから―――とにかく、そこへ行くためだけに、必死だったなと思いを馳せる。

今日は、貼り出された合格者発表の一覧の中に自分の受験番号を確認するためだけに外に出て、悲喜交々の大騒ぎの中、一人マフラーを鼻まで引き上げて踵を返し、途中コンビニエンスストアでヨーグルトだけ買って帰ってきた。

ラッシーに使うヨーグルトだ。

マンゴーの果汁を混ぜるととても美味しいのだけど、時期でない今は美味しくないし、何より高級品だから、ただのプレーンラッシーを作る。

牛乳で溶いて、適当量の砂糖を入れて、氷を入れたグラスに注いだ。

カリーの出来も申し分ない。

タイミングよく電子炊飯器から軽快な電子音が鳴り響いた。

「さて」

 

一人前だけ盛り付けて、テーブルの上に用意されたうまそうなカリーを眺めながら、皆守は思う。

なあ晃、お前も、今日ばっかりは、勘付いて祝ってくれよ、と。

 

「あんまり夢みたいな事ばかり言ってちゃ、笑われちまうな」

もう一度リングに口付けをして、半ば無意識に天井を見上げていた。

地球上である限り、この空も、彼の空も、繋がっている。

(天井だって、蓋を取ったら、空だぜ)

くだらない屁理屈に首を振って、笑いかけた口の中に、スプーンですくったカリーを素早く突っ込んだ。

 

まだ、ここからが始発点。

彼らの距離は、いまだ果てしなく―――遠い。

 

続く