相変わらず世界は広い。

あまりにも広大で、目指す背中がどこにあるのか、皆目見当もつかない。

「こーうーちゃん」

だらりと圧し掛かってきた腕を振り解くようにして、皆守は例題集とにらみ合っていた。

「ねえねえ、甲ちゃん」

「何だよ」

「エッチしたいよお、しようよエッチ、ねえー」

鼻声でねだる女に、うるさい、今勉強中だと、すげなく追い払えば、不満げな彼女はそれでもまだ諦めきれない様子で、皆守のズボンのチャックを開き、ジッパーを下ろして、中に手を突っ込んできた。

「おい」

「あーんやだー!全然固くなってないッ」

「だから、言ってるだろうが、邪魔をするな」

「エッチしてくれない甲ちゃんなんて、つまんない」

「俺はどうせつまらない男だよ、お前だって知ってるだろう」

音を立てて唇に吸い付き、緩く微笑みかけてくる、彼女とは肉体関係が前提の付き合いをしている。

短期大学進学を果たして、それでも日々は相変わらず忙しく、皆守はいつの間にか二年生になっていた。

勉強とアルバイトの合間に、密かに筋肉トレーニングのような事も毎日欠かさず行っている。

(我ながらいじらしいほど一途だな)

それもこれも全部お前のためなんだぞと、けれどリングに口付ける回数は、以前より大分減っていた。

女とは、大学に通い始めてから知り合った。

噂の絶えない多情な女。

ズボンから手を引き抜いて、うつぶせに寝転がり、つまらなそうにテレビを見ている。

皆守は、何故か一方的に気に入られて、気の向いたとき、ふらっと、まるで猫のように遊びに来る女を、初め疎ましく思っていた。

けれど彼女の見かけによらず情が深い事、そして、内面に潜む孤独な何かに気付いてしまってからは、構われる事も、さほど嫌でなくなった。

圧し掛かってくる彼女を、気が向いたとき、欲しいだけ奪い合って体の付き合いを楽しむ。

女は今の関係に非常に満足しているらしい。

何故俺なのか、の問いかけに、格好いいからと即答した女は、次いで小声で「ちょっと似てる気がしたの、あたしたち」と呟いて、そんな女との関係は皆守にも多少の気晴らしと慰みをもたらしてくれる。

常に一人きり、がむしゃらに頑張れるほど、まだ強くはなれないから。

「ねェ甲ちゃん」

女は学内でも特に有能な生徒で、特に言語方面には恐ろしいほどの才能を見せ付けている。

最初、付き合いが始まったとき、そちら方面で何かメリットがあるかもしれないと思ったりもしたのだが、彼女は他人といるとき一切の勉学的話題を嫌い、結局はただの都合のいい、快楽の相手でしかない。

今だって、寝転がったり、絡んだり、はっきり言ってジャマなだけだ。

「ん?」

「学校、決まった?」

テレビにはクイズ番組が映っていた。

最近流行の知力を測定される、アレだ。

IQ220の問題を睨みつけながら、女はひどく退屈そうな顔をしている。

「まあ、一応な」

「ふうん」

「それだけかよ」

「だってあたし、甲ちゃんがどこに行こうと興味ないもん」

振り返った皆守に、くるりとこちらを見ながら、あたし甲ちゃんの*****にしか興味ないと言ってニッコリ笑った。

うんざりしながらこめかみをシャープペンシルの尻で掻いて、皆守は再び参考書と睨み合う。

「ねえ、甲ちゃん」

「気が散る、話しかけるな」

「甲ちゃんはもういっこの指輪を持っている人に逢いたくて、留学するんでしょ?」

ふと手を止めて、もう一度振り返った。

誰にも話すつもりのなかった話を、女にだけ、ほんの少し、聞かせてやったことがある。

その時は左手薬指のリングの片割れを持つ人間が、今は海外の、しかもどこにいるかもわからなくて、けれど何としてでも見つけ出したいから、探すために行動しているのだと―――その時女は全く気のないそぶりで「ふうん」と唸っただけだった。

自発的にリングの話題に触れてきたのは、今が初めてだ。

女は、今度は振り返らない。

テレビはお笑い番組にチャンネルが変わっていた。

「一つ聞きたいんだけど」

「何だ」

「その指輪の人に、もし他に好きな人ができていて、その人と幸せに暮らしていたら、甲ちゃんどうするつもり?」

コメディアンの笑い声がすっかり水気を失って、部屋の中に乾いた音を響かせている。

赤いペディギュアの塗られた女の足が、パタパタと揺れて、細い背中は相変わらず暇そうだった。

皆守は、握っていたシャープペンシルを、静かに机の上に置いた。

「そうだな」

―――考えていなかったわけじゃない。

確かに、玖隆とは何の約束もしていないし、今自分が何をしているのか、玖隆が知っているはずもない。

皆守の想いだって、どうせ知らないだろう。

彼の『仕事』はあの日に全て終わっているのだから。

「確かに、そういう可能性も、あるだろうな」

「でも逢いに行くんだ」

「そうだ」

「甲ちゃんって可愛いよね」

少しだけ楽しそうな笑い声が上がった。

女は、リングの話を誰にも口外しようとしない。

特に義理堅い人間でもないから、ただ単に話す気がないだけなのだろうけれど、この手の話を深刻に捉えず聞き流してくれる性質は、女の最たる美点だと思っている。

「望めばね、叶わないものは、何もないんだって」

―――どこかで聞いたことのあるセリフだ。

「むかーしそんなことを言ってくれた人がいてね、まあ、それは確かにそうなのかもしれないんだけど、でもそれって誰でも実行できるものじゃないよね」

言うは安し、生むは難し。

女はまたチャンネルを変える。

今度は何かのドラマだ、中年女性が髪を振り乱して走っている。

「欲しがるばっかりで、何にもしない人のほうが、実際多い世の中なんだよ」

「説教か?」

「甲ちゃんにはそれだけ価値があるって、褒めてあげてるの」

皆守の指先が、無意識に、左手薬指のリングに触れていた。

「俺に、価値だと?」

唇の端が僅かに吊り上る。

「まだ何の結果も出せていない俺に、価値など、あるものか」

「価値は与えられるものじゃないよ」

女はリモコンのスイッチを押す。

「唯一認識のみが、世界を形成する」

チャンネルが変わった、鯨が泳いでいる。

「面白いテレビが何もやってない、甲ちゃんもエッチしてくれないし、つまんない」

女の爪先が軽く皆守の脇腹を蹴り飛ばした。

「あたしも留学しよっかな」

「―――何しに行くんだ」

「運命の恋人探しに」

言ってろ、と呟いて、皆守は再び例題集に向き直り、シャープペンシルの尻を叩く。

「ねえ、甲ちゃん」

「何だよ」

「その指輪の人に、もし運命の人が現れていたとしても、今の甲ちゃんの努力は、無駄じゃないよ」

もう一度振り返ると、女はニュースを見ていた。

「たくさん勉強しなさい、若人」

すっくと立ち上がる。

そのまま、手早く身支度を整えると、皆守の背後に回り、カクンと膝を突き出して背中にぶつけてきた。

不満げな口調とは裏腹に、女は特に何の感慨も無い表情をしている。

「エッチしてくれないなら、帰る」

「ああ、じゃあな」

「今度チョコレート味のゴム持ってくるから、遊んでね」

「カレー味っていうのは無いのか?」

「あたしがしゃぶるんだよ、チョコ味がいい」

「なるほどな」

じゃあねと笑って、女はさっさと出て行った。

閉まったドアに施錠して、戻ってきた皆守は、音声の煩わしいテレビを消した。

その時、伸ばした左手の薬指に嵌められたリングに視線を落として、無音になった部屋の中で、じっと見詰める。

「価値、か」

―――玖隆の背中に届くほどの価値を、俺は自分に見出せるのだろうか。

世界は認識する事で形成されると女は言っていた。

その認識の形状を、皆守はいまだ見極められずにいる。

努力しているから、短期大学の語学学科でそれなりに成果を出せているし、おかげで三年から海外の大学へ留学するための申請書もあっさり受理された。

資金面ではとりあえず、生活は働いて自力で賄うからと、必死で両親を説得して許可を取り付けた。

そのために貯金もしていたし、学費さえ払ってもらえれば、大学卒業までは何とか乗り越えられるだろう。

けれど。

(留学して、勉強して、それで、あいつに届くのか?)

わからない。

玖隆が今、どうしているのかすら、皆守にはわからない。

「わからないな」

何一つ確立されていない、曖昧な地平線で、このリングに託された想いに全てを賭けるのは、もしかしたら愚かしい事なのかもしれない。

(それでも、俺は)

リングに唇を押し付ける。

「今の努力は、無駄じゃない、か」

呟いて、フッと笑い、再び腰を下ろした。

シャープペンシルを握りなおし、今度こそ、例題集に取り掛かる。

今はまだ何も見えてこなくても、走り続けることしかできない。

あれから随分経つというのに、まるで色あせない姿が、記憶の中で笑っていた。

 

続く