―――そして、今日もまた、雨が降っている。

玖隆は黒のスーツ姿で、傘もささずに佇んでいた。

遠くから鐘の音が聞こえてくる。

たった二年の間に、二度も同じ音を聞いた。

一度目は二年前、二度目は一年前。

降り注ぐ雨粒が、スーツの両肩を濡らし、髪を伝ってポタポタ落ちる。

どこまでが自分のもので、どこからがそうじゃないのか、解らない雫が幾つも筋を作り、頬を伝っていく。

湿って張り付いた前髪のせいで、傍からは双眸を窺い知れない。

けれど不意に空を仰いで、青白く染まった唇が、小さな言葉を一粒漏らした。

Diva

願いにも似た、その声は、けれど雨音に簡単にかき消されてしまった。

 

*****

 

「ああ、マリアか?」

直通回路越しに話しかけた女史の声は随分上機嫌だった様に思う。

「報告書読んだわ、お疲れ様、いつもながら貴方の仕事振りだけは賞賛に値するわね」

「人柄も、と言ってくれよ、これでも滅多に見かけないいい男の自覚があるつもりだぜ」

「そうね、まあ、あと5年経ったら、考慮に入れてあげましょう」

「相変わらずつれない」

「貴方は褒めると増徴するもの、これくらいが丁度いいのよ、それより」

そして、ウフフ、と忍び笑いが受信口から漏れてくる。

「何だ?」

「早く戻っていらっしゃい、貴方、凄い事が起きてるわよ」

「は?凄い事?」

「いいから、今日だけは協会への顔見せや報告も見逃してあげる、だから真っ直ぐ家に帰るのよ?妻子持ちなんだから、寄り道なんてしないこと、いいわね?」

「オイオイ、子供はこれからだぜ」

返答も無く、通信は切れた。

玖隆は首を傾げながら、それでも、女史の言葉が気懸かりで、言われた通り家に直帰した。

出迎えてくれたアンナは、お帰りなさいと微笑んだ後で、僅かに頬を染めて、そっと報告してくれたのだった。

「あの、私―――妊娠、しているの」

 

*****

 

それからの日々は、本当に、あらゆる全てが満ち足りていた。

玖隆は何でもできそうだったし、実際何でもできてしまった。

かつて抱いていた罪悪感や後悔、贖罪の思いも、アンナの胎内で生命が順調に育まれていくうちに、いつしか払拭されていた。

ただ、ひたすら、愛しいという想いだけ。

子供が生まれるまで、仕事の依頼は控えめにして欲しいと頼んだとき、マリアですら多少渋りながらも最後には承諾してくれた。

アーサーも、ロバートも、父も、母も、マリアの祖父も、皆が喜んでくれた。

まるで夢のような、心安らぐ日々。

玖隆とアンナは毎日未来の事ばかり話して過ごした。

かつて感じ得なかった出来事が怒涛の如く押し寄せてきて、戸惑い以上の幸せを噛み締めていた。

けれど―――安定期に入った頃からアンナは少しずつ体調を崩す事が多くなり、それでも、心配して傍にい続けようとする玖隆に「大丈夫」と気丈な笑顔でためらいなく送り出してくれた。

子供を身篭り、彼女も変わった。

強く真っ直ぐな想いに支えられて、玖隆も胸を過ぎる不安を消し去ることができた。

今がいつまでも、それこそ永遠に続いていくような、そんな気すらしていたのに。

 

*****

 

「晃」

静かな声に、振り返る。

傘をさした男性の姿が視界に映った。

濡れた前髪の間から、光の加減のせいでなく、変色した真紅の瞳が僅かに覗いている。

「風邪を引いてしまうよ」

玖隆はゆっくり首を動かして、再び濁った色の空を見上げた。

花で埋められた、小さな、小さな長方形の空間。

横たわる姿はまるで眠っているようだった。

艶やかな黒髪は二年の間に背の中ほどまで伸びていた。

氷の様な唇や、傷跡にも、繰り返しキスを落した。

鐘の音が聞こえる。

一度目はベルガー教授の葬儀のときに聞いたものだ。

二度目は、アンナとの結婚式の日に聞いた。

そして今、三度目の鐘の音は―――

視界に傘の裏側が覆いかぶさってくる。

再び緩慢な動作で首を動かした玖隆は、目の前の風景を、何の感慨もないような表情で眺めていた。

視界に広がる曇り空の霧がかった薄暗い風景。

乳白色の海に浮かぶ、四角い墓標。

 

ANNA-********* 1984-2008

 

産後の肥立ちが悪く、あっけない終焉だった。

アンナが逝った日、玖隆はようやく依頼を終えて、帰路を辿っていた最中だった。

「晃」

アル、と小さな声が雨音に交じって響く。

「俺は、また大切な人を看取ることができなかった」

煙る景色の中、墓石の表面に、細かい雨粒が、幾つも、幾つも、あたっては弾ける。

「最悪だな、俺は、運命の女神に嫌われているのかな?」

「そんな事はない」

そんな事はないよと、温かな掌が玖隆の腕をしっかりと掴んだ。

「運命は、いつだって君とともにある、だからそんなことを言うものじゃない」

「けど」

ハハッと軽く笑いが漏れる。

前髪から滴った雨の粒があたりに散った。

「大切なものができるたび、別れが訪れる、こんな事あとどれくらい繰り返されるんだ」

「晃」

「全て背負って歩き続けるには重過ぎるよ、アル、それでも俺は前に進まないといけないのか?それが俺の運命だとでも言うのか」

雨の音が響く。

「そうだ」

男の声が、静かに響く。

「君の人生に、諦めは許されていない、それに君はもう君だけの君じゃない、だから君は歩みを止めてはいけない」

「けど、今は」

何かがこぼれた。

雨より暖かい。

これは、何だろうか。

「―――歩けそうも、ない」

「それなら休めばいい」

僅かにこちらを振り返った眼差しに、男は優しく微笑みかける。

「留まることは許されない、何故なら君は生きているから、そして多くの愛を受け取って、多くの想いを受け継いできたのだから、全てを背負って歩み続けることは君の責務だ、だけど常に前進しなくちゃいけないわけじゃない、僕らは誰も、君に自己犠牲など望んではいない」

視界が雨で濁っている。

けれど、流れ落ちていくものは、それだけじゃない。

「晃、何千キロも休み無しで飛び続ける渡り鳥であってもね、必ず休息を取るんだよ」

強張っていた双肩が僅かに緩んだ。

「休む事と、留まる事は違う、疲れが癒えたら、また飛び立てばいい」

「アル」

「君の翼は強靭だ、僕と迦奈が紡いだ、とっておきの贈り物だからね、だから君は、いずれ必ず、また飛べるはずだ」

それまでは、休みなさい。

玖隆は静かに項垂れた。

鐘の音が聞こえている。

声を押し殺して、ひっそりと吐き出す感情を、男は気付かないフリで見守ってくれているようだった。

低く垂れ込めた雲の合間を、翼を広げた鳥の影が、縫うようにスウッと通り過ぎていった。

 

続く