シャツにパンツ、靴下まできちんと穿いて、玖隆は階段を下りていく。

足元には勿論スリッパだ。

可愛い娘にだらしない格好は見せられない、どれほど忙しく、どれほど疲労困憊を極めていようが、それだけは徹底している。

あまり構ってやれない父親の、せめてもの教育指導だ。

階下に近づくにつれて、香ばしい香りが立ち上ってきた。

キッチンからは二人分の声が漏れている。

「亜莉亜、皿を取ってくれ」

「はい」

「そろそろ昼だ、流石にお父さんも目を覚ますだろう、飯だって呼んできてくれ」

「はい、ママ」

なんて悪趣味だろうと思う。

更に悪いのは、この呼称を、二人が好んで使っていることだ、全くもって性質が悪い。

(けど、アンナはそういうタイプじゃなかったからなあ、ってことは、まさか、俺に似たのか?)

ブルブルと首を振る。

廊下にひょこっと覗いた顔と、唐突に視線が合った。

「あッ、パパ!」

「おはよう、亜莉亜」

「おはようございます」

礼儀正しくぺこりと会釈をする、愛娘の姿を見て、何て良い子だろうと玖隆は惚れ惚れとする。

「お、降りてきたか」

そのすぐ後ろから同じ様にひょこっと顔を覗かせた、エプロン着用の自称『ママ』

「あのなあ、甲太郎」

玖隆は顔をしかめて、階段を下りながら、後頭部をポリポリと掻いた。

「言ってるだろう、亜莉亜に、妙な認識を植えつけるな」

「別にいいだろう、嘘ってわけでもないんだから」

「嘘だよ、感じの悪い嘘だ」

「フン、なんとでも言ってろ、おっと」

ベーコンがこげると言いながら、すぐまた引っ込んでしまう。

「ヒゲ、剃ってこいよ、顔も洗ってこい、そうしたら飯だ」

声だけ聞こえた。

「ついでにおはよう!」

玖隆はため息を漏らす。

「パパ?」

ふと見ると、亜莉亜がじっとこちらを見詰めていた。

「パパは、甲太郎の事、嫌い?」

「まさか」

心配そうな表情に、ニコリと微笑みかけて、優しく髪を撫でてやる。

「じゃあ、好き?」

「一応はね」

「ママって呼ぶのはダメなんですか?」

「亜莉亜、君のママは世界に1人きりだよ」

「それは、わかっています」

少し黙ってから、フリルのワンピースを着た黒髪の美少女は、ドン、と父親の足を小突く。

容赦のない一撃をまともに食らって、父は多少よろめいてしまった。

「ジョークの一つも言えないと、立派なレディになれないって、パパが言ったんですよッ」

「あ、亜莉亜?」

「亜莉亜―ッ、電話だ、悪い、ママは手が離せない!」

「はーい!」

台所からの呼びかけに、亜莉亜は軽やかに返事をして、そのまま駆けて行ってしまった。

さらりと指の間を抜けていった黒髪を目で追って、残された玖隆が呆然と立ち尽くしていると、玄関からチャイムの音が響く。

「誰だよ」

ぼやきながら錠を開き、ノブを回すと、立っていたのはブロンドの美女だった。

まぶしい胸元を強調するような、実にセクシーな赤のワンピースを着て、髪をかきあげつつフフッと笑う。

「ご機嫌よう、晃、休暇は満喫している?」

「マリア」

「あらいやだ、起きてから鏡を見たの、貴方」

「どうして君がここにいるんだ」

「私も休暇なの、楽しそうだったから、遊びに来たわ」

「は?」

「パパッ」

廊下に飛び出してきた亜莉亜が、駆け寄ってくると、マリアを見上げてニコリと微笑み、お辞儀する。

「いらっしゃいませ、マリアさん」

「お久しぶりね、亜莉亜ちゃん」

「はい」

振り返って、パパ、とシャツの裾を引っ張られた。

「お電話、コンラートさんからです」

「コンラート?」

(休暇中は連絡してくるなって、あれほど念を押しておいたのに、何てことだ)

まさか私用でかかってくるはずもないから、恐らく仕事の話だろう。

がっくり肩を落とす晃の傍で、女同士の会話に花が咲きはじめていた。

更に、マリアの背後から増えた新しい顔を見て、益々晃はうんざりと表情を曇らせる。

「久しぶりだね、晃、それに、亜莉亜」

「アーサー!」

「また少し背が伸びたかな、亜莉亜、会うたび綺麗になっているから、目のやり場に困るよ」

「娘に色目を使うな」

目を三角にしている父親を見て、アーサーは苦笑いを浮かべる。

「パパ、お電話」

「分かってる、今行くよ」

「そうだわ、晃」

「なんだよ」

「博士もいらっしゃるそうね、ご夫人同伴で」

「んな!」

軽くショックを受けている玖隆に、パパ、知らなかったんですかと、娘の声が追い討ちをかけた。

「朝早く電話があったのですよ、でも、そういえばパパは、寝てましたね」

「あら、だからまだ髭も剃っていないのね、いやねえ、昼まで寝ていたの、貴方?」

「休暇中なんだから、いいだろ」

とぼとぼと歩き出す、玖隆の背後で、三人の歓談する声が聞こえる。

角を曲がって、電話を取りに向かう途中、晃、と声をかけられた。

「あいつらが来るとまでは聞いてないぞ」

キッチンから顔を覗かせて、皆守がエプロンで手を拭いながら近づいてくる。

「そうだろうよ、俺だって、まさか二人揃ってご来訪とは想定外だよ」

「チッ、たく、これじゃ8人分で足りなくなっちまうだろうが」

「―――ちょっと待て、一人増えてないか?」

「ああ、あいつも来るぜ」

「誰だ」

「ジョン、俺が呼んだ」

マルドゥーク神殿探索の一件以来、二人は親しく交流を続けているようだ。

おかげで玖隆も、将来有望なハンターとの繋がりができた。

もっとも、まだ同じ仕事に当たった事はないけれど。

皆守は、驚いている玖隆の肩をポンポンと叩いて、どこか含みのある優しげな笑みを浮かべた。

「いいじゃないか、賑やかで、お互い久々の休暇なんだ、いっそ派手にパーティーと行こうじゃないか」

「お前な」

「これでも気遣ってやっているんだぜ、俺なんか、お前を起こさないように、今朝は1人でベッドを出て、朝からずっと料理の支度だ、安心しろ、ちゃんと米も焚いたから」

「ちょ、ちょっと待て、お前、また人が寝ている間に勝手に隣に入ってたのか!」

「いいだろ、寒かったんだよ、大体、部屋が別なんて今更変だぜ、俺とお前は」

「待て、待てッ、おかしなことを口走るな、亜莉亜が聞いたら」

「気にしないさ、それより、カレーもあるんだ、久々に腕を振るったんだぜ、しかも、奮発して五種類、凄いだろう?」

「あのな」

「晃」

不意に、抱き寄せられて。

「これ以上賑やかになる前に」

強引に唇を重ね合わせ―――

「っあ!お、おいッ」

「おはようのキス、済ませておかないとな」

「ふッ、お、お前、いい加減に!」

「ホラ、電話、待たせ過ぎじゃないのか」

「くううううう!」

皆守は一体誰に似てしまったんだろう。

専属バディといっても、玖隆から依頼のない時は、専ら水代とともに秘宝の調査や研究に明け暮れているそうだから、自然と感化されたのか。

(それでも、最近は益々酷いぞ!)

生来の気質が、より傍若無人を極めつつあるように思う。

玖隆は何とも言えない気分のまま、受話器を取って呼びかけた。

Hello

ずっと待たされていたコンラートは、非常に彼らしい反応で、しつこいくらいの嫌味を浴びせかけてくる。

「わ、悪かったよ、はい、スイマセンでした、分かってます、ハイ、ハイ、だから、俺が全部悪かった!それで―――うん、うん、は?ちょっと待て、俺は休暇中だぞ、何だって?」

(冗談じゃない!)

折角の休日が、いよいよ増えた客人で、大騒ぎのパーティーになってしまう。

けれど久々の休暇ですっかり浮かれている様子のコンラートは、お構いなしにプランを繰り出してくる。

(勘弁してくれ)

玖隆は頭を抱え込んだ。

(パーティーは結構だが、俺はたまの休日は、娘と相棒の三人でゆっくり過ごしたいんだ!)

背後の声も大分白熱してきたようだ。

コンラートは、そちらは楽しそうですね、と言い、それじゃよろしくお願いします、と言った。

「ちょ、ちょっと待ってくれ、勝手に決めないでくれないか、俺は休暇を楽しみたいんだ、待て、待て、ロバート?とんでもない、連れてくるんじゃないぞ、いいか、コッ」

話の途中で、電話は切れた。

「コンラートッ」

空しい叫び声は、無慈悲な機械音の向こうに届く事はない。

ダイニングはすっかり、調理中の皆守まで巻き込んで、大騒ぎになっている。

ため息をついて、受話器を戻した。

(こんな)

振り返って、視界の先で笑いあう笑顔たちを眺めながら、そっと瞳を細くする。

こんな日が、来るなんて。

 

玖隆は変わらず世界中の空を飛び続けている。

遠い約束を果たすため、自らの存在意義を示すため。

思い出に縛られて、過去の記憶をなぞり続けているわけじゃないけれど、他の生き方など考えられない。

翼が折れる、その瞬間まで、羽ばたきを止めるつもりはない。

そうして一人きり、闇夜を抜け、彼方を目指す。

過ぎ去っていく記憶はいつも優しくて、けれどその全てに裏切られてきたように思う。

しかし、違った。

置き去りにしてきたものの一つが、実は後からついてきていた。

自らの可能性をチップに変えて、持てる総てを確約のない明日に賭けて。

未熟な翼を鍛え上げ、気づけば追いつき、今はついに共に飛ぶようにまでなった。

娘や仲間達に混ざって笑っている、見違えるような彼の姿。

(捕まえたのは、俺の方だったのか)

何度も摘み取られてきた願いが、形を変えて、そこにあった。

今度こそ、ようやく、本当の意味で信じられる。

ささやかだけれどかけがえのない幸福。

―――そのようなものは、今この瞬間を指して呼称するのかもしれない。

「人生は、誰かと共に歩む方が何倍も楽しい、か」

翼は一対で一つ、群で飛ぶのは渡り鳥の常だろう。

一羽で渡る鳥などいない。

女神達の微笑が、すぐ傍に感じられるようだった。

数多の思い出とつなぎ合ったリングを襟元から取り出して、そっと唇に押し当てる。

過去と今と、そして未来が、繋がった瞬間だった。

顔を上げると皆守だけが、玖隆の様子に気付いて、こちらを見ていた。

掛け値なしの笑顔が返ってくる。

(相変わらず、手を焼かせられるばかりだけれどな)

目を瞑り、少し俯いて、肩をすくめながら、冗談めかせて首を振った。

「まあ、楽しいかどうかでいえば、今は文句なしの満点だ」

パパ、と呼びかけられて、玖隆は顔を上げた。

たくさんの人たちの、暖かな想いに迎えられて―――

今、ゆっくりと踏み出していく。

彼の元へ。

彼らの元へ。

辺りに満ちている優しい気配とカレーの匂い。

これだけは変わっていないんだなと、少しだけ、笑みがこぼれた。

 

一つきりの翼でもがくように飛んでいた二羽の鳥。

その姿が重なり合い、今、一つの言葉を紡ぎだす。

重なったリングに刻まれた文字は記憶、そして、思い出。

2人ならばどこまでもいける、そう信じている。

同じ速さで飛ぶ二羽の渡り鳥。

消せない過去と、数多の思い出を抱いて、抜けるような青と、漆黒の空の向こう、まだ見ぬ明日の、その先へ。

 

無人の寝室で、階下の笑い声だけが響いていた。

柔らかな風に乗って、開いたままの窓から抜ける。

淡い緑色のカーテンの向こう、緩々となびくその先に、つがいで飛ぶ鳥の影が、ゆっくりと彼方へ遠ざかっていくのだった。

 

To be next future―――