「Good morning!Honey」
朝の目覚めはいつでも素早く訪れる。
あかりの場合うとうとまどろむような事はあまり無くて(もちろん、眠りに落ちるときはそんな感じなのだけれども)窓から朝日が差し込む時間帯になると、正確な体内時計がぱちりと瞳を開かせる。
仄暗いグリーンの瞳に写るのは、男の体。
直後に少し不機嫌になったのは、片方の腕が腰を抱くようにして彼女を抱きしめていたから。
あかり自身も裸で、そしてここは天香学園高校の男子寮のベッドの中で、足を絡ませながら、同衾している相手はまだスウスウと安らかな寝息を立てている。
「重い」
小さく呟くと、少し上にある顔を睨みつける。
薄い唇の、案外整った顔をした男は、いつも眠そうな、それでいて時々驚くほど鋭い光を帯びる双眸を深く閉じて、夢の中で遊び呆けているようだった。
昼間ずっと寝ているところから察するに、こいつの夜は明け方から訪れるんじゃないかと、どうでもいい事を考えてあかりは溜息を吐いていた。
あんまり気持ちよさそうに寝ているので、段々憎らしくなってくる。
昨晩の気だるさや、中で吐き出されたものがまだ残っている感じがして、こちらは非常に寝覚めが悪いというのに。
大体―――用が済んだらすぐ帰れと、あれほど繰り返し言っても、どうしてこいつは起きると必ず隣にまだいてグウグウ眠っているのか。
ベッドの中からごそごそと腕を出して、あかりは筋の通った形のいい鼻梁を指先で思い切りつまみあげてやった。
ウウッとくぐもった声が漏れて、眉が寄り、不快気に歪められた表情の瞳がうっすら開く。
「玖隆」
甲太郎は溜息混じりに呟いた。
「起こしてくれるのはまあいいが、こういうやり方は好きじゃない」
「誰が起こしてやったのよ、このスケベ」
「あのなあ、この状況はそういうレベルの話じゃないだろ」
ハア、と疲れた顔などするものだから、あかりはますます強く鼻をつまんでやった。
痛いと不機嫌に言って、手首を捕まえて引き剥がしながら、グッと近づいてきた顔が無理やり唇を奪う。
足を強く絡みつけられて、おとなしくなすがままにされながら、緩々と離れた視線がまだ眠たそうに瞬きを繰り返していた。
「よお、おはよう、玖隆」
「おはよう」
むすっとして答えると、甲太郎はフッと笑いながら手を離す。
直後に起き上がったあかりの姿を視線が追いかけていた。
はらりと落ちた上掛けの下から、彼女の白い裸体が露になった。
まだ成長途中のあかりの肢体は全体的に肉が無く、どこもかしこも華奢で、胸元はおわん型の小さなふくらみが二つ、臀部の肉も薄くて、これでさらしを巻いて男子生徒の制服を着たら、少しばかり童顔の可愛らしい美少年にしか見えない。
実際、あんな偶然でもなければ、甲太郎もきっと気づかなかっただろうと思う。
こいつが、何がどういう理由で男としてここに潜入しているのか、理由なんかは知らないけれど。
(けど)
誰も知らない彼女の秘密。
男子寮の中に女がいることも、そいつがクラスメイトの一人に夜毎抱かれている事も、知っているのは俺ただ一人きり。
腕の中で体温を重ねながら甘い声で鳴き、切なくよがる姿を見る度、強い独占欲に酔いしれる。
彼女の本職―――トレジャーハンターとして、遺跡に潜るたび、必ず増える傷跡。
その新しい痣のありかを探し出して、指先や舌でなぞる特権も、全部俺だけのもの。
幼い肢体に見合わない、あちこち盛り上がったり変色したり、引き攣れたりしている醜い傷跡の一つに指先を伸ばしてなぞると、振り返ったあかりが少しだけ複雑そうな顔をしていた。
「何?」
「いや、新しいの出来てるな、ココ、この間のか?」
「ん、細掃にやられた」
庇いきれなかったのだと、甲太郎は少しだけ悔しい気持ちを噛み締める。
遺跡探索の時は、仕事というのもあるのだけれど、実際今はそんな事あまり関係なくついてまわっているから、怪我をする瞬間の様子は傍で見ていた。
時折、体が動かないのは呪いと使命のせいだ。
興味ない、関係ないと突っぱねたくても、そうできない事情が甲太郎にはある。
他の古い傷跡もあちこち触っていると、あかりは小さく溜息を漏らした。
「気持ち悪いでしょ、あたし、傷だらけだもん」
「そんな事ないさ」
柔らかで指に良く馴染む肌は、心地よくあっても嫌悪するようなものではない。
女だから、こういう痕はやはり気になるのだろうけれど、甲太郎はその一つ一つを数えながら、キスを落とすのが好きだった。
えぐれているなら感触をなぞり、隆起しているなら唇で含んで、そうやって彼女の過去を確かめるのは楽しい。
まだ新しい傷口は、爪を立てたら出血してしまいそうで、甲太郎は興味ない素振りでフイと手を離した。
ベッドから降りたあかりは、軽く残留物の処理をすると、落ちていた服やら下着やらを適当に拾って体につけて、流しで顔を洗い始めた。
職業の性なのか、生来の性格なのか、彼女の動作は結構乱雑で、女らしい色気など殆ど感じられないというのに、傍にいるといい匂いがして、つい構いたくなってしまう。
甲太郎自身、その謎は未だに解けていない。
甲太郎も起き上がると、後頭部をボリボリ掻きながら、僅かに鬱血している下肢を持て余しつつ、とりあえず下着だけは身に付けた。
寒い、と身体を震わせて、エアコンのリモコンを探し出すと、スイッチを入れる。
顔を洗い終えたあかりは、冷蔵庫の中を覗き込んでいた。
「皆守」
「ん?」
「ご飯、食べるんでしょ」
どうせ、と付け加えて、相変わらず不本意そうにドアの影からこちらを見る様子に、つい口元が緩んでしまう。
「おう」
「何笑ってんの、言っとくけど、朝っぱらからカレーなんて食べないんだからね」
あかりは何か取り出して、調理を始めたようだった。
甲太郎はエアコンが部屋を暖めてくれるまで、とりあえずもう一度ベッドの中に潜り込んで待機する事に決めた。
さっきまで二人分の温もりがあった場所は、今はひとり分の体温しかなくて少しだけ侘しい。
なんとなく、つまらなくて、亀のように首だけ出して働く彼女の様子を見ていた。
暫らくしていい匂いが部屋に立ち込め始める。
あかりはスープを作っているらしい。
卵を焼いて、パンを焼いて、手際良くクルクルと動き回っているうちにどんどん料理の載った皿が増えていく。
「皆守、テーブル」
「ん」
まだ眠い目をこすりながら、ズルリとベッドから抜け出すと、小春日和のような室温になっていた。
服を着て、簡易テーブルを引っ張り出すと足を立てる。
そこに皿が乗せられた。
甲太郎はフラフラと箸を用意したり、料理を運んだりして、適当な所で勝手に作業完了とみなして、テーブルの傍で胡坐をかく。
アロマのパイプを手に取って、紙巻を差し込むと火をつけて、フウと一服した。
最後にスープの入った皿を用意して、テーブルの上に立派な朝食の支度が整った。
あかりが天香学園を訪れてからこちら、甲太郎はこうして毎朝ちゃんとした食事のご相伴に預かっている。
「朝ごはんだけはちゃんと食べなさいって、母さんの教えなの」
連日マミーズのカレーか、レトルトのカレーしか食べていなかった身としては、本音を言えば―――かなりありがたい。これでカレーだったら文句なしなのだけれど、カレー以外の物だって、あかりはとてもおいしく作ってしまうから、問題ない。
もっとも、彼女自身はいつでも非常に不本意そうに甲太郎と卓を囲むから、まかり間違ってもそんなこと、口に出して言えるはずもないのだけれど。
ヘタに感謝の言葉を述べれば、甲太郎を疎ましく思っているあかりはもう二度と食事など用意してはくれなくなるだろう。
スープはポトフだった。タマネギが山の様に入っている。
黙々と食べていると、あかりは食事の合間に細かく世話を焼いてくれた。
皿が空になるとおかわりをついで、調味料を取ったり、他の皿を回してくれたり。
動作は明らかに無意識だ。ついでのつもりでしてくれているのか。
「皆守、学校どうするの?」
「行く」
「じゃあ食べたらすぐ出てって、長居しないで」
「なら、行かねえ」
「何それ、わけわかんない、あのねえ、行っても行かなくてもどっちでもどうでもいいから、とにかく早く出てって、用事済んでるでしょ?」
「フン、お前、俺の事何だと思ってるんだよ」
「性欲の権化」
「何だと」
「ホントの事でしょ、何よ、口止めって、割に合わないんだから」
甲太郎はムッとして、ポトフを貪るように食べ始めた。
あかりも怒ったような顔でフレンチトーストにかじりついている。
「おい」
「何よ」
「―――おかわり」
「自分で取ってきなさいよ、バカ」
皿を受け取って、キッチンに歩いていくので、甲太郎は少しだけ機嫌を直していた。
受け取ったポトフは三杯目、これを食べたらもう満腹だ。フレンチトーストも、チーズ入りのスクランブルエッグも、こんがり焼けたソーセージも非常に美味しかった。
あかりは空いた皿を片付けて、ポットでお湯を沸かし始めていた。
食後には必ず紅茶を淹れる。甲太郎にはコーヒー。やはり特別意識してやっている様子は無い。
食べ終わって充足感を満喫していると、出てきたコーヒーは薄いアメリカンだった。
飲みながら、アロマを楽しみつつ、目の前ではあかりが紅茶を吹いては少し飲む動作を繰り返している。
猫舌なのだ。
以前、キスしたとき、火傷しているのを知っていてわざと舌を絡めてやったら、思い切り殴られた事など思い出していた。
衝撃で危うく舌を噛んでしまいそうになって、直後に激しく言い争ったんだっけか。
いつもこんな風だなと思う。
くつろぎのひと時。
向かい合って食後の一服を楽しむ姿は、端から見ればどのように映るのだろうか。
「―――あきら」
ちらりとこちらを見た視線が、カップの向こう側から何?と答える。
名前を呼んでみたのに、何も言われなかったので、甲太郎はまた少し気分がよくなっていた。
「昼はカレーが食いたい」
「マミーズに行ったら?」
「インドカリーが食いたい、マミーズは欧風カレーだ」
「じゃ、自分で作りなさいよ、得意なんでしょ、カレー」
「面倒臭い」
「じゃあ諦めなさいよ」
「作ってくれ」
「何でよ」
「俺が食いたいから」
「皆守の食欲とあたしは関係ありません」
「ある」
「言っとくけどねえ、秘密の共有に関して、口止め料はもうたっぷり支払ってるんだから、これ以上皆守に何かしてあげる理由も義務も無いんだからね」
「お前の作ったカレーが食べたいんだ、それじゃ理由にならないのかよ」
ムッとしながら口走った一言に、あかりはちょっとだけ驚いたようだった。
「はあ?」
甲太郎はアメリカンの残りをぐいと飲み込むと、そのまま立ち上がってプイッとそっぽを向いた。
「―――もういい」
そのままズンズン歩き出すと、ノブを回し、扉を開いた瞬間、背後から呆れた声が呼びかけてくる。
「もー、じゃあお昼にここね、ちゃんと来なさいよ、チキンでいいの?」
「おう」
「ハイハイ、わかりました、ったくもう」
「肉は少なくていいから、タマネギを多めにしてくれ」
「了解、ったく、早く出てけ、バカッ」
バタンとドアが閉じて、甲太郎は早朝の廊下を歩き出した。
朝錬のある運動部所属の生徒たちとすれ違うときに、綻びかけた口元を咥えたパイプで誤魔化しながら。
あかりも、ドアの表面を暫らく睨みつけて、やれやれとテーブルの片付けに取り掛かっていた。
目の前でひとり分だけ用意して食べるのも何だかなあと思って、仕方なく(皆守の居る朝は)一緒に朝食を取っているのだけれど、もしかしたらそのせいで妙な家族意識めいたものが生まれつつあるのかもしれない。
「うー、そんな事ありえないわよ、気持ち悪い」
鳥肌の立った身体をわざとらしくさすりながら、流しで皿を洗い始めた。
さっさと済ませて、昼のカレーの仕込みに取り掛かりつつ、見上げた時計の示す時刻に溜息を漏らす。
「学校遅れちゃうなあ、2時限目には間に合うようにしないと」
甲太郎のいなくなった部屋の、温度だけまだぬるい。
以前無理やり押し付けられた寸胴の中に材料を入れて、沸騰させてから蓋をして、火を消して、自分の支度に取り掛かる。
さらしを巻いて、シャツを重ね着して、靴下を履いて、制服に着替えた。
鏡を覗いてぴんぴんはねた髪を手櫛と水で整える。
軽く掃除をして、汚れたシーツを引き剥がして、下着もまとめて洗濯用の特大のネットに突っ込んだ。
朝のうちにランドリーで回していけば、昼帰ってきたときに取り込めるだろう。
ここに来てから洗濯が忙しくて仕方ない。調理も、大体いつでも二人分だし、本当に厄介だと思う。
「でも、元をただせば自業自得なのか、あーあ」
溜息とともに鞄を持って、部屋を出るともう1時限目も終わりごろの時刻だ。
甲太郎はどうしただろうか。
あの後おとなしく自室に戻って、ちゃんと登校したのだろうか。
サボりと、出席と―――
「確率半々ってとこか、まあ、どうでもいいけど」
朝の日差しを浴びながら、それでもあかりは今日も元気に歩いて行く。
太陽だけは毎朝同じ眩しい光を投げてくれるから、それを受け取って、夜には月や星の明りに照らされて、暗闇の中だって、明るくても、とりあえずいつでもやる気だけは漲っている。
体の中に太陽が住んでいるみたいだ。
甲太郎は―――
(いっつも寝てるから、あいつの中にはネムリダケが生えてるか、月が住んでるんだろう)
寮を出て、通学路の途中にある空き地で、一時間くらい前に部屋から追い出した姿がごろんとねっころがっているのを見つけて、唖然と足を止める。
「うわー、バカが寝てる」
何でこんな所にまだ居るのかとか、一体何をしているのかとか(寝ているのだろうけれど)色々一瞬考えたけれど、あかりは軽く溜息をついて、そして―――ちょっとだけ、笑っていた。
「ネムリダケが生えてる」
皆守、と呼びかけると、枯れた雑草の上にむっくりと起き上がった姿は、眠そうに目をこすっていた。
時間帯は午前、太陽はまだ空の途中。
天香学園の朝は、いつもよりゆっくりと過ぎていく。