「Hinter Szene」
温室内は湿り気を帯びた空気で満たされている。
青々と茂る大型植物の陰で、男は女と向かい合っていた。
「なるほど、では君は、重要機関のエージェントというわけか」
「ウフフ、ええ、そういうことにしておいて頂けるかしら」
お互い余裕の笑みを浮かべて、気配には僅かの隙も無い。
だが、殺伐とした気配ではなく、むしろ艶めいた、男女間に発生する心地よい緊張感だ。
男も、女も、それはけして嫌いではない。
傍目に見れば談笑めいた和やかな雰囲気で、会話は続いている。
「貴方にお願いがあるの」
「なんなりと」
「私の片棒を担いでくれないかしら?」
「それは―――どういう話かな」
「私の可愛がっている子猫がいるのだけれど」
「ほう」
「雄猫が一匹、その子にとても懐いていてね」
「ほほえましい事だな、だが、僕にとっては多少不快でもある」
「ウフフ、けれど、子猫の方もまんざらでもないようなのよ、以前は顔を合わせれば噛み付いていたみたいだけれど、最近はよくじゃれあっている姿を見かけるわ」
「憎々しい限りだ」
「そんなことを言わないで、彼にとっては、ようやく訪れた転機なのだから」
「僕には関係の無いことだけれどね」
フッと微笑んで、男は「それで?」と女に訊いた。
「僕は何をすればいい?―――あの子のためなのだろう、それは」
「勿論よ」
女の赤い唇が、ヒュッとつりあがる。
「それほど難しい話じゃないわ、ほんのちょっと、お芝居に付き合ってくれるだけでいいの」
「芝居、ね」
「そうよ、私も大切な人を騙す事になるわ、けれど、子猫も同じくらい大切だから」
「君は情の深い女性なんだな、とても素敵だよ」
「ありがとう」
「無粋で申し訳ないが、僕への見返りは、何かあるのかな?」
「ウフフ、それは、子猫ちゃんの笑顔よ」
「なるほど、了解した、商談成立だ、それでは共に最高の舞台を作ろうじゃないか」
「素敵なお芝居が楽しめそうね」
「ああ、僕も俄然、楽しみになってきた」
―――温室の外から、鐘の音が鳴り響いた。
「それじゃあ、詳しい話は、また後で」
女は踵を返して去っていく。
仄かに漂う残り香に、男は時間を確認して「10時か」と呟いていた。
*****
「では、その男は件の『宝探し屋』を連れ戻しに来たのだと、そういう訳なのだな?」
「はい」
「利害の一致により、我等に手を貸す、と」
「そうです」
「成る程―――それで?」
「はッ」
「その男、俺の信に値する者であるのか」
「―――僭越ながら、信不信そのものは問題では無いと思います、要は如何に我らの役に立つか否か、その一点のみかと」
「フン、だが、そのためだけに権限委任するのは、やり過ぎではないのか?」
「御力で縛り付けておけば、有事の際に如何様なる手も打てましょう」
「成る程、ただの委任ではなく、楔でもあるというわけか」
「差し出がましい事を申し上げました、失礼をお許しください」
「よい、お前の言に従おう」
「はッ、御心のままに」
立ち上がった女は薄暗い部屋を出て行く。
女がいなくなった後、窓辺に立った影は、外の景色を眺めながら、静かに薄い笑みを浮かべていた。
*****
「そういうわけだから、あの子、もうすぐここから居なくなっちゃうわよ」
目の前の反応に、女は内心ほくそえんでいたけれど、勿論そんな様子は微塵も表さずに隠す。
猫は、愕然と立ち尽くしている。
あとほんの少し―――
「けれど」
一つだけ、あの子を引き留めておく方法があるの。
無論猫は話に乗ってくるだろう。
女は自分もあの子を失いたくないから、特別に頼んで条件を提示してもらったのだと、もっともらしく演技した。
普段の猫になら間違いなく見破られていたはず。
けれど、子猫に関して、猫はまるで冷静でなくなってしまうから。
(利用させてもらうわよ)
女は嫣然と微笑む。
子猫を捕まえる手段と、猫にその協力を要請する。
案の定の展開―――けれど、女は更に先を読んでいた。
(作戦は失敗するでしょうね)
そうでなければ意味が無い。
それ以上に、猫は本当の意味で子猫を愛していない事になる。
この芝居の要の部分だ。
(頑張りなさい、彼も、貴方の行動を見て、最後の判断を下すと言っていたのだから)
迷いを孕んだ足取りで去っていく猫の姿を、じっと見送る。
「さあ、お芝居の始まりよ」
女の声は軽やかだった。
「みんな上手に演じられるかしら?」
誰もいなくなった景色に、こっそり開幕のベルを鳴らして。
女は、懐から取り出した香炉を、ゆっくりと振り始めた―――