夷澤凍也は、人目を避けて歩いていた。
自分としては全く問題ないけれど、この状況は、周囲の目には好奇として受け取られかねない。
両腕で抱きかかえた、華奢な肢体。
玖隆あきらは、胸元に顔を寄せるようにして、すやすやと安らかな寝息を漏らしている。
(こんなになるまで、無理して)
無理。
そう形容するのが最も相応しいだろう。
男子生徒のはずなのに、可憐な容姿と少女のような雰囲気を醸し出す、彼に荒事は似合わない。
けれど玖隆は重火器を巧みに扱い、刀剣を振るい、自身よりずっと頑強な相手をことごとく打ち倒してきた。
特別な力を持つわけでもない、ごく普通の少年。
肉体と頭脳を最大限に活用して戦う、小さな巨人。
(凄い人だよな)
改めて嘆息しながら、睫の長い寝顔に魅入られてしまう。
夷澤は慌てて首を振った。
「きょ、今日のところは、ちゃんと部屋までつれて帰ってあげますよ」
―――繰り返し蘇ってくるのは、僅か数時間前に触れ合ったばかりの唇の感触。
喉の奥に流れ込んで、多少飲んでしまった唾液さえ、あまりに甘美で、今も腹の底を熱く疼かせている。
それは、正気を取り戻すには十分すぎるほどの衝撃だった。
玖隆からすればどうという事もない行為だったのかもしれないけれど、自分にすれば初めての、しかも、片恋の相手から授けられた艶かしい接触。
全身が震えだしてしまいそうだ。
閉じられた瞼や、柔らかな感触、まるで羽根のように軽い体、吐息は芳しく、立ち上る香りは麝香のように、夷澤の中の雄を刺激して止まない。
それでも、本能を理性で打ち負かしつつ歩いていると、途中、「おい」と低い声が彼を呼び止めていた。
「皆守先輩」
近づいてくる姿は、一瞬影と見紛う程に暗かった。
照明が暗いわけではない。
漆黒の双眸が夷澤を見下ろす。
彼の表情の険しさに、どこか嫌悪を感じて、夷澤は体を硬くした。
「それは、どうした」
「あんたには関係ないでしょう」
「言え」
「俺、急いでるんで」
「言え」
低温の響きに、背筋がぞっと寒くなる。
夷澤は渋々と、現状に至るまでの流れを、かいつまんで説明した。
(この人は)
全て聞き終えた皆守は、そのまま両腕を差し出してくる。
「よこせ」
拒否を許さない、絶対的な気配を滲ませる雰囲気と声色。
「大丈夫ですよ、俺がちゃんと」
「黙れ」
「皆守先輩、玖隆先輩は疲れてるんです、あんたの勝手で」
強引に割り込んできた両腕が、夷澤の元から玖隆を奪い取ろうとする。
「ちょ、ちょっと」
「う、んん?」
二人の間で玖隆が辛そうに身じろぎをした。
「せ、先輩!」
(この)
夷澤はキッと皆守を睨み上げる。
「いい加減にしてください、先輩、嫌がっているじゃないですか!」
「―――だからどうした」
「は?」
「これは、俺のものだ、俺がどう扱おうと、俺の勝手だろう」
「なっ」
呆然とした瞬間、玖隆の体はあっけなく奪取されてしまう。
そのまますぐ踵を返すと、皆守は薄暗い廊下を黙々と歩き去っていく。
「先輩!」
傲慢な独裁者は振り返らない。
「くそッ」
舌打ちをして、足元を蹴りつけた。
(何が、俺のもの、だ)
出くわしてから、立ち去るまで、徹頭徹尾皆守は淡々としていた。
有無を言わせぬ言動で、無理矢理玖隆を連れ去ってしまった。
皆守甲太郎という男は、まるで得体が知れない。
彼があからさまに漂わせていた、冷気も、殺気も、全て夷澤に向けられていたものだ。
玖隆を見つめる瞳の奥には、混沌と熱情が同居しているように思えた。
「どうかしてるぜ」
まるで精神病者のように―――
薄気味悪い姿を思い出して、全身が総毛立つ。
(あのまま手渡さなかったら、あの男は一体どうしたんだろうな)
何かすっぽり抜けてしまったような空虚感を漂わせる両腕をだらりと下げると、夷澤は、ため息をひとつだけ漏らして、来た方角に向き直っていた。
(まあ、ヤツが運ぶっていうなら、それで構わないさ)
玖隆のためという大義名分で、胸の傷を縫い合わせて、静まり返った廊下を歩く。
この唇に残っている感触と温度、それだけは、皆守も奪えないだろうと、儚い想いを噛み締めながら。