「恋愛偏差値」

 

「失礼します」

聞き覚えのある声で、鎌治はベッドから起き上がっていた。

カーテンの向こう側を歩く影。

「ルイ先生、いないのか」

窺っていると、隙間から指が覗いて、カーテンがスッと開かれた。

「あれ」

「あっちゃん」

声の主はやはり、晃だった。

鎌治と目が合った途端人懐っこく笑ってくる。

彼の、こういう表情を見るたび、胸の奥がほんわりと暖かい色に染まる。

「どうした、また具合悪いのか」

「うん、でも、ちょっと目眩がしただけだから、平気だよ」

「そうか」

原因は、昨晩遅くまで作曲活動にいそしんでいたから。

最近はピアノとそれにばかりにかまけている気がする。

何とか君に似合う曲を作りたくてと、心の中で呟いた。

「寝不足は体に悪いぞ、早く寝ないと」

君がそれを言うのかと、鎌治は思わず笑ってしまった。

毎晩、八千穂さんの言う所の怪しげな格好をして遺跡に潜っているのは誰だっけ?

晃は辺りをきょろきょろと見回していた。

誰を探しているのと聞こうとして、思わず口ごもってしまう。

「―――あっちゃん」

「うん?」

「今日は、その、どうしたの?」

ああ。

晃は笑う。

「あいつ、こっちじゃないみたいだな」

やっぱりという思いと一緒に、何だか少し落胆している自分がいる。

そんな事確認するまでも無いじゃないか。

彼がここに来る理由なんて、それくらいしか考えられない。

保健室同盟の片割れの、指定のベッドに今人影は無い。

なら屋上かなと呟いて、晃がこっちを振り返った。

「悪いな、邪魔して」

「いや、平気だよ」

「かっちゃんも体、気をつけろよ、あんまり作曲に夢中になりすぎないようにな」

どうして気づいたんだろうと、鎌治の瞳が見開かれる。

「ビンゴ」

晃が笑った。

それは卑怯だ。

「じゃあ、俺行くよ、またな」

そのままくるりと背を向けて、片手をヒラヒラと振られた。

歩いていく姿に、なんとなく、だけどひどく強烈に、気持ちのどこかが揺れていた。

揺れは体に伝わった。

胸から肩、肩から肘、肘から腕に。

そのまま長い腕をにゅうと伸ばして、晃の腕を捕まえる。

晃が驚いたように振り返った。

鎌治は、自分が何をしているのかよくわからないような気分だった。

そのままベッドまで強引に引き戻して、バランスを崩した彼の体がシーツの上に倒れこむ。

勢いに任せて起き上がって、押さえ込むように伸し掛かって、晃の顔を覗き込んだ。

綺麗な、暗翠色の目が驚いたように丸く瞠っている。

それが不意に伺うような気配に変わった。

上半身だけ起き上がった鎌治が、上になったまま息を呑む。

「あ、あっちゃん」

「鎌治」

ごくん。

喉が鳴る。

心臓の音が凄く早い。

すぐ目の前に見慣れた顔がある。

それは、傍にいても、凄く遠い彼の事。

でも今は普段よりずっと近くにあるような気がする。

瞳の奥を覗き込むと、彼も同じようにしているようだった。

穏やかな日差しが差し込んでくる。

保健室の中は小春日和の温かさで満ちている。

「ええと」

震える唇が、間の抜けた声を洩らした。

思わず引き止めてしまったけれど。

こんなことになってしまったけれど。

「その」

これから―――どうしよう。

頭に血が上りすぎて、耳鳴りまでしてくるようだ。

真っ赤に染まった鎌治の困り顔を、晃はじっと見詰めている。

不意に、そっと身じろぎをして、押さえていた両腕を解かれていた。

なす術もなく見送る彼の下から抜け出して、ベッドの脇に腰を下ろす。

鎌治も起き上がって、ペタリとその場に座り込んでいた。

掌が思い切り汗ばんでいる。まだ顔が熱くて、心臓は口から飛び出しそうだった。

呆然としている彼に、晃がクスッと笑顔を浮かべる。

「しょうがないなあ」

そのまま両手を突いて、身体をこちらへ寄せてきた。

ビクリと縮こまった鎌治の前髪に、そっと指が触れる。

「カッちゃんはまだ、偏差値が足りないよ」

「え?」

呟いた瞬間。

―――キスを。

晃がスッと下がった。

鎌治は、片方の頬を押さえたまま硬直していた。

目の前がくらくらして、治ったはずのめまいが蘇ってくるようだった。

「じゃあね」

ベッドから降りて、今度こそ出て行ってしまう。

カーテンが閉じるまで、息もできなかった。

「はァ」

保健室のドアが閉まる音がして、鎌治はそのままベッドに倒れこんだ。

横向きになって、小さく身体を折り畳みながら、まだ残っている頬の感触を指先でなぞる。

 

「今のは卑怯だよ、あっちゃん」

 

多分晃がこれから会いに行こうとしている彼より、僕のほうが偏差値が低い。

でも経験なら積めばいいと思うし、僕らの間にそれほど大きな差があるとも思えなかった。

「もうちょっとだけ、頑張ってみようかな。」

呟いた声は、ぬるい気配に溶ける。

柔らかな光りに満ちた室内で、瞼を閉じるとそこにはやはり差し込む日差しのような姿ばかり思い出されてしまうようで、どうにも困ってしまった。

鼓動の音は、さっきよりもっとずっと早くて、体中が熱を帯びているようだ。

火照った頬に指先で触れて、最後にもう一度だけ、鎌治は甘く緩い溜息を漏らしたのだった。

 

(了)