誰もが寝静まっている暗闇の中を、二人は並んで歩いている。
隣を行く晃の様子を時折伺って、甲太郎はふと目線の高さが同じ程度になっていることに気付いた。
「おい、晃」
「うん?」
「お前、身長何センチだったか?」
「176、甲太郎より1センチ上」
「ふうん」
「何だよ」
振り返った晃が、ちょっと怪訝な顔をしてからアッと声を洩らす。
「お前、もしかして、ちょっと伸びた?」
「さて、どうだかなあ、ちゃんと測ったわけじゃねえから」
「でも、前より目の位置が近い気がする」
「元々1センチの差じゃ大した違いじゃないだろ」
「くそう」
「何だよ」
急に不機嫌になるので、少しだけ気になって顔を覗き込んだ。
「俺の親父は2メートル以上あるんだ」
「へえ」
「母さんは大体170くらい、なのに、どうして俺とお前の身長が近いんだ」
「これから伸びるんだろ」
甲太郎は笑う。
でも、本音を言えば晃にはこれ以上背が高くなって欲しくない。
やっぱり、どうしても、たとえ1センチであっても、自分より小さい方がどことなく嬉しい。
男ならそういうものだ。
晃がしきりに気にするので、甲太郎は話題を切り替えた。
「そういえばお前、仕事抜けてきたって」
「ああ、うん」
「大丈夫なのか?」
「あんまり」
オイオイと突っ込むと、でもちゃんと許可は取ってきたからと苦笑いで付け足された。
「こっちからの移動が結構急だったからさ、忘れ物したって申請したら、あっさり許可が下りたんだ」
「適当な理由つけやがって」
「違うよ、本当に忘れたんだって」
何を、と聞こうとした途端、指先を鼻の頭に突きつけられる。
「お前」
「は?」
晃は笑う。
「お前と初日の出、見るの忘れた」
甲太郎の頬に、微かに朱が差した。
「―――何言ってんだ、馬鹿野郎」
「俺さ、まさか年内に仕事が終わるとは思ってなかったんだ」
本当に何を言っているんだ、こいつは。
晃は、優秀な宝捜し屋だ。その気になればもっと早くに作業終了していたに違いない。
視線が含むものに感づいたのか、晃は困ったように星空を見上げた。
「最初、依頼受けたときにはさ、一ヶ月くらいで終わらせてやろうと思ってた、実際俺にはまだまだ経験が足りないし、一箇所に長く留まるのもあんまり好きじゃないから」
俺、性格が根無し草なんだよね。
闇の中で白い吐息がふわりと広がっていく。
「でも、天香通ってるうちにさ、この学校で卒業式とか、うっかり出れたら楽しいかもなあって、そんなこと考えるようになっちゃって」
甲太郎はコンクリートの路面に目を向けた。
俺も、同じ事をいつも考えていた。
こいつはいずれいなくなってしまう。
それでも、もしかしたら、まだ、もう少しと、何度そんな事を夢想したか知れない。
けれど別れの時はちゃんと訪れて、晃は甲太郎達が天香学園を去るよりずっと早くにいなくなってしまった。
夜風が少しだけ肌寒いようだった。
「―――年内が限界だったんだ、協会の方からも催促のメールが来てたから」
「そう、だったのか」
「おう」
俺も色々大変なんだよと、そんなこと微塵も感じていないような声で嘯いて、笑う。
「だからさ、俺の願いは儚くも泡沫の夢と消えたわけですが」
気配がして、振り返れば、晃は真っ直ぐに甲太郎を見ていた。
「でもな、最後の我侭くらいは勘弁してもらおうと思って」
「最後?」
「ああ、前人未到の天香遺跡探索依頼を、見事やり遂げた優秀なハンターのおねだり、それくらい許されるだろう?」
路地のいくつかを曲がって、ちゃんと道を覚えながら歩けよと晃に言われたとおり、甲太郎は記憶力をフル稼働させながら歩いている。
すでに一時間くらい経過しただろうか。
辺りは住宅街を抜けて、少し閑散とした場所へ移りつつあった。
薄闇の中で、さっきから坂道が続いていた。
「俺、甲太郎と初日の出見たかったんだ」
晃が鼻をすする。
甲太郎も寒さで全身が強ばっていた。
けれど、不思議と眠気は感じない。こんな時刻に叩き起こされたというのに、意識だけはひどく覚醒していた。
「今年最初の朝日を見たかったんだ、なあ、知ってるか?」
「何をだ」
「初日の出を一緒に見ると、その人と不思議な縁が生まれるんだと」
「知らねえな」
「やっぱりそうか」
「一体何なんだ、それは、どこの国の言い伝えだ」
「違うよ、教えてくれたのは俺のばあちゃんだ」
なら俺が知るはずないじゃないかと言うと、晃は楽しそうに笑う。
「まあ、俺も占いとか迷信みたいなものってあんまり信用してないし、それはいいんだけどさ」
「なら、何だよ」
「うん」
控えめに聞こえてくる、小さな声。
「そうなんだけどさ」
柵を越えると、急に景色に緑が多くなった。
ここには建設予定跡地か何かだろうか。
半端な開拓の末に放置されたような広場のあちこちに、枯れ木や雑草が無造作に茂っている。
「でもさ」
落ちていた角材をぴょんと飛び越えて、振り返った晃はどこか照れ臭そうな笑顔を浮かべた。
「好きな人ができると、そういうの、ちょっと気になっちゃうだろ?」
角材の手前で甲太郎は足を止める。
「バカ」
フッと笑って手を伸ばすと、星明りを受けてつやつや光る黒髪にそっと触れた。
指先に馴染む、よく知った感触だ。
表面をポンポンと数回叩いて、お互いクスリと微笑んでいた。
晃がくるりと背中を向けてまた歩き出すので、甲太郎も後に続いた。
緩やかな上り坂をもうしばらくだけ歩いて、前を行く足取りが不意に止まった。
「着いた」
見回すと、そこは少し開けた小高い丘のような場所だった。
場所が奥詰まっているせいだろうか、辺りに人影は見当たらない。
日の出スポットと呼ぶにはおこがましいような、雑然とした一角で、並んでビルの合間の空を見上げた。
晃がポケットから方位磁針を取り出して、方角を確認すると、こっちのほうだと指さした。
「この辺りの衛星地図とか取り寄せて、結構必死に探したんだぜ」
「へえ」
「天香からそんなに遠くなくて、人のいない場所、条件にぴったりビンゴだろう?」
確かに、こんな場所に新年早々来る奴なんていないだろう。
散乱した角材や鉄パイプ、壊れかけたプレハブ、鉄筋だけの赤錆た残骸。
不良が溜まっていないだけましだ。
本当によく探し出したものだなと、甲太郎は半ば呆れ気味に笑っていた。
「もうすぐ時間なんだけど」
しきりに時刻を確認している。
寒くて、ジャケットの肩が少しだけ寄り添った。
まだ足りない腕で抱き寄せると、振り返った晃がクスッと小さく微笑み返す。
「何だよ」
「寒い」
額を近づけて、キスがしたいと思った。
唇が重なり合う直前、不意に差し込む光に、視界の端が鮮やかに染められる。
「あっ」
晃はくるりと空を見上げた。
ビルの合間、そこから見える地平線に、日の出の兆が見え始めていた。
漆黒の裾は最初綺麗な紫色から青、水色、白、そして橙へと変わっていく。
突然閃光が煌めいて、瞳を眇めて見つめていると、やがて黄金の日輪が厳かに姿を現し始めた。
今年最初の輝きだ。
世界中が見る間に色付いていく。
これまで眺めたどの朝日より美しくて、思わず溜息が漏れていた。
「綺麗だな」
きゅっと肩をつかまれる。
見れば、甲太郎が苦笑していた。
「ここで外されるとは、思わなかったぜ」
残念そうな顔と声に、晃も困り顔でゴメンと微笑み返す。
「でも、目的はあっちじゃないか」
「それはお前の話だろう」
「甲太郎は俺と一緒に初日の出見たく無かったのか?」
「違う」
ただ、今は別のものが欲しいんだと、唇に白い吐息がそっと触れた。
太陽はぐんぐんと天への道を駆け上っている。
晃は瞳を閉じながら、甲太郎に囁きかけた。
「初日の出を浴びながら願い事をすると、叶うらしいよ?」
「わかった」
ゆっくり結び合う。
黄金色に縁取られた二つのシルエットは、今年最初のキスを交わした。
今日からまた、新しい日々が始まる。
明日も、明後日も、その先も、ずっと。
解けない縁が続いていく。
それはこれまでの日々を繋げて紡いだ黄金色の糸だろう。
晃の祖母が彼に教えた古臭い言い伝えの類でも、信じていいような気がしていた。
甘い感触を楽しんで、瞳を覗き込み、鼻先を近づけると、幸せな気分がふつふつと沸き起こってくる。
笑う晃の頬の上で金色の光が踊っていた。
甲太郎も笑っている。
年齢にふさわしい、若々しい明るい笑顔で。
すっかり君臨した天空の覇者が、二人を包み込む輝きを地上に投げかけていた。
「あの場所からこんなに遠く離れて、お前と笑い合う日が来るなんてな」
檻の中から抜け出して、どことも知れないような場所で、こうして初日の出を眺めている。
心許せる人と一緒に。
数ヶ月前には想像すらしていなかったことだ。
「晃」
日差しを受けてキラキラ輝く、綺麗に澄んだ深い瞳。
今ここにいないはずなのに、わざわざこんなことのために戻ってきて、俺なんかに会いに来てくれて。
馬鹿だと思うけれど、この上なく愛しい。
多分生涯最高の、愛すべき人。
もう一度キスをして、それから何度もキスをして、最後は堪らず声に出して笑い合ってしまった。
過去最高の一年の幕開けだ。
生まれ変わることなんてできなかったけれど、俺は確かに変わる事ができた。
変われる自分を知った。
きっかけをくれたのは晃だ。
何もない俺の中に、何でもないような顔をして入り込んで、気付けば多くのもので満たしてくれた。
もう一度強く抱きしめて、肩口に顔を寄せると、胸いっぱいに香りを吸い込んでいく。
アロマよりずっと心地よくて、歓喜に体が震えてしまいそうだった。
晃がそっと胸を押し返して、わずかに距離を取ると、丁寧に頭を下げられた。
「改めまして、明けましておめでとうございます」
「ああ、そうだったな」
おめでとうと甲太郎も軽く会釈を返す。
「今年も一年、よろしくな」
「ああ、俺のほうこそ、よろしく」
「うん」
もう一度朝日を見上げて、感慨深げな顔をした。
隣で甲太郎も同じ景色を見上げる。
多少の時差はあっても、世界は同じように明けているのだろう。
何もかもが日の光に照らされて新しく塗り替えられていく。
お前も、俺も。
晃は不意に腕時計を覗いて、瞳の色を暗くした。
「じゃあ」
急に片手を上げて、寂しそうに微笑みかける。
「俺、行かないと」
甲太郎の表情からも途端に覇気が消えた。
彼らしくもない不安げな顔で、持っていたパイプをだらりと下げる。
「―――もう、行っちまうのか?」
動揺を露骨にさらけ出して、激しい落胆を隠そうともしない。
普段、クールに振舞っている癖にと、晃はちょっとだけ困ったような顔をして見せた。
多分これが彼の本性なのだろう。
そんな姿を置いていきたく無かった。けれど。
「言っただろ?無理して抜けてきたって―――もう、空港に行かないと」
「―――そうか」
甲太郎はわずかに顔を背けた。
火の消えたパイプを咥えなおして、オイルライターを取り出すと、伸びてきた手がそれを奪い取った。
晃が点火して差し出してくる。
火の先端に紙巻の先で触れると、紙の焦げる匂いと一緒にふわりとラベンダーの香りが漂った。
「甲太郎」
顔を上げると、今度はパイプを取られてしまう。
キスをされながら、甲太郎は伸ばした両腕で晃をしっかり捕まえていた。
今度こそ、本当に、暫く会えなくなる。
どれくらいの期間か想像もつかないし、こいつもきっと約束なんてできないだろう。
だから今、忘れないように、この温もりを、吐息を、鼓動を、全部俺の中に焼き付けておこう。
いつか再び出会う、その日が来る事を信じて。
手放しがたいこの手を、最大限の勇気と覚悟を持って離そう。
それが、俺の想いの証だから。
パイプを口に返しながら、晃は寂しく微笑んでいた。
けれど、すぐにギュッと目を閉じて、いつもの笑顔を浮かべて見せた。
するりと腕から抜け出して、背後にピョンと飛んで下がる。
「じゃあな!」
「ああ」
また一歩下がる。
「帰り道、わかるだろ?」
「大丈夫だ、心配するな、今からだったら寮則破ったのバレないうちに戻れる」
「そっか、なら安心だな」
「ああ」
お前こそと、甲太郎は呼びかけた。
「空港までの道、間違えて迷うんじゃねえぞ」
「そんなことあるわけ無いだろ!俺に限って!」
また一歩。
少しずつ離れていく。
二人の距離が開いていく。
「じゃあな!」
「ああ、またな」
「浮気するなよ、それから、カレー以外のものも食べろよ」
「大和みたいなこと言ってんじゃねえ、それに、それこそ余計な心配だ、お前こそフラフラするんじゃねえぞ」
「しないよ、バカ!」
「バカはどっちだ」
「お前がバカなんだよ!」
「なら、お前だってバカだろうがッ」
晃はすっかり遠くなって、丘の向こうの下り坂の途中、急に手を高く上げると、振り回しながら大声で叫んでいた。
「またな、甲太郎!愛してるッ、ぜー!」
こんな朝っぱらから、本当に非常識な奴だと苦笑して、甲太郎も片手を上げる。
「バカなこと言ってんじゃねえ、早く行けッ―――卒業式までには、帰って来いよ!」
晃は笑顔で手を振るだけだった。
くるりと向けられる背中。
そのまま真っ直ぐに、振り返らずに去っていく。
どんどん小さくなる後姿を見送りながら、パイプの端を噛み締めて、甲太郎はいつまでも立ち尽くしていた。
木立や建物の陰に隠れて、背中はすぐに見えなくなってしまった。
空では太陽が輝き、辺りはすっかり朝の気配に塗り替えられている。
大あくびが一つ、漏れた。
「これじゃ、どう考えても朝帰りだな」
苦笑しながら、それでも反省文一枚で済むことだと、甲太郎もくるりと背中を向ける。
遠く、遥かに。
わずかに痛む胸を抱えて、それでも俺は前に進まなきゃいけない。
この空も、どの空も、確かにお前に繋がっているから。
見上げればいつだって同じ景色だ。お前もそう思うだろう。
そんな時、確かに俺達はすぐ傍にいる。だから少しの間、お別れだ。
土の下で霜がパキパキと音を立てて、降り注ぐ日差しは暖かい。
新年の、清々しい空気が、排ガスまみれの東京の空を今だけ綺麗な青に染めてくれているようだった。
(了)