「R-style 27」
「あら、一人なの?」
蝶番の軋む音と共に、ふわりと漂う薫香。
屋上の柵に凭れてぼんやり空を眺めていた甲太郎は振り向かないままで答える。
「何だ、その言い草は」
「残念だわ、晃君がいるかと思ったのに」
「どうしてそう思う」
「貴方、いつも彼と一緒じゃない」
「どういう認識だ、それは」
振り返った先、そこに立っていた双樹咲重は、風に髪を遊ばせながら面白そうにクスクスと笑う。
甲太郎は煩わしそうに背中を柵に預けて、両肘をかけながら、手に持ったパイプの煙を揺らした。
「で?」
「せっかちね、用があるのはそっちじゃない」
はい、これ。
滑らかな白い手が、小さな紙袋を差し出してくる。
受け取って中を覗くとラベンダーの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「ストックくらい自分でちゃんと用意しておきなさいよ、必要なものなのでしょう?」
「ああ、悪いな」
「貸しよ」
「そのうち返す」
今朝方、紙巻用のラベンダーの粉末が殆ど残っていないことに気付いて、甲太郎は咲重に連絡を取った。
抱香師である彼女の部屋には常に数百種類以上の様々な香りの原料が置いてある。
最初にアロマを与えてくれたのが彼女だった。
あの温室で立ち尽くしていた自分に、何も言わずに差し出してくれたのだった。
けれど甲太郎は、それ以上貸しを作るのが嫌で、以来紙巻き用のハーブは自分で取り寄せている。
今朝は緊急事態だった。
まさか、自分でもこんなに減っているとは思わなかった。
最近は以前より消費ペースが上がっている気がする。
理由は―――大体見当がついている。
甲太郎は紙袋を制服のポケットにしまった。
「ねえ、皆守?」
咲重はもう用が済んでいるというのに、相変わらず意味深な視線を投げかけてくる。
パイプを口に咥えなおして、無感動な瞳がそれを眺めていた。
「あなた、いつもより香りが強いわね」
「フン」
ばれたか。
まあ、この女なら、それくらい気付くのはたやすいだろう。
「ねえ、どうしてなの?」
「さてな」
「それは、貴方にとって赦しの象徴みたいなものなのでしょう?」
甲太郎は答えない。
ただ、咲重を見つめる瞳の温度が急速に冷めていく。
赤い唇に、不意に艶かしい笑みが浮かびあがった。
「ねえ、皆守」
ラベンダーとは違う、芳香が香る。
「私なら、あなたの望みを叶えることもできるのよ?」
同じように温度の無い眼が甲太郎を怪しく見つめている。
真冬の乾いた風が、二人のシャツやスカーフを揺らしながら抜けていく。
空には雲一つ無く、嫌になるほど青が広がっているというのに、どうしてこうも暗いのだろう。
大気はまるで氷のようだ。
「どういう意味だ」
これを。
咲重は再び、今度は小さな瓶を取り出して、目の前で揺らして見せた。
「これは人の中枢神経に働きかけて、幾つかの効用をもたらす香りよ」
といっても、匂い自体は殆ど知覚できないものなのだけれど。
妖艶に微笑む。
「晃君専用に調香したの、彼にしか効かないし、彼に対して効果は絶大」
瓶の中には液体が入っているようだった。
ガラスの栓できっちり蓋を閉めて、表面が反射してキラキラと光の帯を引く。
「これを、常に彼の傍に置いておけば、あなたの願いは叶う」
「俺の願いだと」
「そうよ」
「何の話だ」
ウフフ。
「この香りを嗅げば―――」
赤い唇の端が、上弦の月のようにスッと釣り上った。
「彼は、自分が何者であったかを忘れてしまう」
甲太郎はギョッと目を剥いた。
それは、つまり。
「彼は宝捜し屋じゃなくなるわ」
咲重の指先で、小瓶は急に存在感を誇示し始めるようだった。
中で、色のわからない液体がゆらゆら揺れる。
「玖隆晃はただの高校生になる」
微笑んでいるのは口元だけで、咲重の目は笑っていない。
「この天香学園でただ暮らすだけの、羊の群れの一人になる」
風がまた髪を撫でていく。
冷たい感触は、背筋をわずかに粟立たせた。
「彼は―――どこへも行かなくなる」
言外に含む一言。
「この香りがある限り、ずっとね、そしてあなたが望むなら、私は定期的にあなたにそれを与えてあげる」
その、パイプの中身のように。
甲太郎は息を呑んだ。
小瓶の中には闇が詰まっているようだった。
それはこの胸の奥深く潜む、そして、日々膨らんでいく、灰暗い思いと同じように―――
唐突にキラリと目を刺して、それは瓶の内側が陽光を反射したせいだった。
直後に浮かぶ、晃の姿。
刃のように鋭い、それでいて温かな、優しい、心地よい、確かな存在。
手を伸ばせば、多分全部受けれてくれるだろう、深くて情に溢れた眼差し。
「双樹―――」
風が吹いた。
パイプを口元から離す。
ふわりと漂ったラベンダーが鼻腔をくすぐる。
彼女の向こうに見える、空の色が目に染みた。息苦しいほど青すぎる蒼だ。
「ふざけた真似を、するな」
咲重はアラと呟いて目を丸くする。
「何故?」
「そんなこと、俺は望んじゃいない」
「無理しなくてもいいのよ」
「たちの悪い冗談はやめろ、本気で怒るぞ」
氷の眼差しで貫かれて、咲重の足がわずかに下がった。
相変わらず感情の篭らない無機質な瞳。
けれどその奥ではマグマのように激しい情念が渦巻いている。
以前の彼には無かったものだ。
情熱も、激情も、アロマを与えた頃には全て枯渇していた。
すでに何も無い彼から、これ以上のものを奪っていこうとする冷酷な神の御手。
それはかつて咲重の中からも全てを奪っていこうとした。
痛ましい姿を見ていられなくて、咲重は甲太郎にアロマを手渡した。
自分とは違って、縋るものの何も無い彼に。
私達はよく似ている。
いや、あの墓にかかわる人間は、皆どこか似通っている。
甲太郎はすぐにラベンダーの香りを手放せなくなり、その理由は単純に精神の安息を求めてというわけでないことも薄々知っていた。
彼から漂う香りは、日に日に強くなる。
けれど、本当に切望するものからは、彼はいまだ赦されてはいない。
咲重はフイと視線を外して、小瓶の中を覗くと、微かに笑ってそれを胸元にしまった。
「ウフフ、残念だわ、あなたならきっと喜ぶと思ったのに」
それは嘘だ。
私はちゃんとわかっていた。
皆守甲太郎は、きっとこの小瓶を受け取りはしない。
―――たとえ、本心ではどれほど請い願っていても。
もっとも何故そうしてしまうのか、甲太郎自身は絶対に認めはしないだろう。
厄介な男だと微笑んだ。
厄介でない男が、この世にいるかどうかは別として。
「あなたは今の晃君が好きなのだものね」
甲太郎はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「私も、晃君がただの高校生になってしまうなんて、つまらなくて嫌だわ」
「ならそんなものを作るな」
「これはただの水よ」
何、と甲太郎が目を剥いて再びこちらを振り返った。
咲重は声を上げて笑う。
「馬鹿ね、幾ら私でも、そんな野暮なもの作るはず無いじゃない」
「おっ、お前なあ!」
「あら、怒った?晃君のことになると急にムキになるのね」
「―――クソッ」
後頭部をガリガリと掻き毟って、すっかり機嫌を損ねた甲太郎は背中を向けてしまった。
イライラを隠そうともしないので、何だかおかしくてまた笑ってしまう。
こんな態度も取れるようになったのか。
以前なら、突き放されて終わりだったろうに。
「ねえ、皆守?」
「用が済んだらさっさと帰れ」
「あら、どこへ?」
「知るか」
フウと溜息をついて、わかったわよと柔らかな声が風に響く。
「じゃあね、ちゃんと貸しは返してね」
「ああ」
「それと、ここは寒いわ、貴方も早く帰りなさい」
「どこへだよ」
ヒールの音が遠ざかっていく。
蝶番がきしむ音がした。
ふわり。薫香と、微かに笑う声。
「自分で考えなさい、皆守甲太郎、あなたなら、もうわかっているんでしょう?」
声は随分遠くから聞こえて、扉が閉じた。
甲太郎はアロマを燻らせながら空を見上げる。
確かに屋上を吹く風は肌寒かった。
広がる景色もすっかり冬模様だ。
「俺は、赦しなんか望んじゃいない」
今こうしていても、すでに罪を重ねているのだから。
「開放なんて望んじゃいない、そんなものは、過ぎた代物だ」
空の蒼の向こうには、近頃いつも傍にある、見慣れた背中が浮かぶようだった。
手を伸ばしかけて、俯いて、ラベンダーの香りの中にうずくまる。
どのみち、願いが叶うわけも無い。
「あんなもんは、いらねえんだよ」
きりりと胸の奥が痛んだ。
覚えのある感情は、あの時墓地に捧げたはずだった。
甲太郎の口元に自嘲気味な笑みが浮かんで、消える。
「鳥は飛ぶから鳥なんだ、飛べなくなったら、お終いだろう?」
いつか羽ばたいていく。
その時までに、またこの痛みに慣れなくてはならない。
「皮肉なもんだな」
東京の空に不似合いな、渡り鳥の姿が一つ二つ飛び去っていくのが見えた。
こんなに遠くては、縋る術も無い。
甲太郎はそっと目を閉じて、世界の全てを謝絶した。
(了)