R-style 28

 

「さて、帰ろうか」

穴の上のほうは真っ暗で何も見えない。

そこから垂れる、蜘蛛の糸。

あーちゃんが片手で握って、腰のベルトと金具に巻きつけて、壁伝いに登攀していく。

こんな時いつもとても頼もしく思う。

彼の、強くて長い両腕が、しっかりロープを握って昇っていく。

そのうち姿がすっかり見えなくなって、上から声だけ聞こえてきた。

「おぅい、まずはやっちーからね、腰にロープを巻きつけて、引き上げるから!」

私は急いでロープを腰に巻きつける。

しっかり縛って、ちょっと引いて合図をして、そのまま、しがみついてズルズルと引き上げられていく。

段々暗い切れ込みの向こうにキラキラ光るものが見えてきた。

あれは何?

あれは、お星様。キラキラ、キラキラ、とても綺麗。

そして縁から覗く姿。

私を見つけて、ニッコリ微笑んで、すぐ引き上げるからねと言ってくれる。

作業の邪魔にならないように、おとなしく、お行儀よく。私は穴の縁に手を掛けた。

よいしょっと言ってよじ登る。

引き上げてから、体に触り過ぎないくらいに汚れを簡単に払ってくれて、大丈夫?と顔を覗き込んでくれた。

優しい姿。

「平気だよっ」

「そうか、良かった」

ロープを解いて、また下に落とした。

神様が投げる蜘蛛の糸。

欲張り者は登れないって聞いた、たくさんの欲張りがしがみついて、蜘蛛の糸は切れてしまった。

お前は自力で登って来いなんてイジワルを言っている。

そんな風に人を突き放すことなんて、出来ない人のくせに。

あーちゃんは、そして、ロープを力いっぱい握り締めて引き上げ始めた。

両足で踏ん張って、肩を盛りあげて、グローブを嵌めた掌で、ちょっとずつ、ちょっとずつ。

淵に骨張った手がかかる。

よっと掛け声を洩らして、皆守クンが顔を覗かせる。

登りきって汚れを払うのを手伝って、立ち上がるまでをあーちゃんはこっそり伺っている。

私のときもそうだけど、それは。

―――怪我をしていないか、何も異常が無いか。

いつも一瞬、だけど必ず、遺跡探索の後で彼がすること。

そして、笑う。

わからない位小さくだけど。唇の端で、ホッとしたように。

蜘蛛の糸を手繰り上げて、腰にしまった。

「さて、全員無事だな?」

「おう」

「はァい」

今度はまともに見せる笑顔。

けれど冗談かかってて、さっきみたいに優しいのじゃない。

「よーし、じゃ、撤収!お疲れ様でしたーッ」

「ああ、全く疲れたぜ」

「二人とも、有難う、助かったよ」

「本当?」

「うん、少なくとも、甲太郎よりは確実に助かった」

「何だと?」

あーちゃんは笑う。

いつだって、最後には笑ってくれる。

私達はその笑顔を見て凄く安心する。

 

けれど。

 

欲張りな人たちは、皆で糸を欲しがって、独占したがって、取り合って―――縋って。

糸は切れてしまった。

蜘蛛は天国に帰って、糸は二度と降りてくることは無かった。

 

空で星が輝いてる。

キラキラ、キラキラ、そこに私達は届く事ができない。

天国にも手が届かない。

だってあまりに遠すぎて、こんな短い腕じゃ、全然足りない。

ロープだって一人で登れないのに。

 

目の前にあるのは、軍用コートを着込んだ大きな背中。

ねえ、蜘蛛は、どんな姿をしていたのかしら。

糸はいつか、切れてしまわないかしら。

 

「やっちー?」

 

え、と顔を上げて、気づいた。

コートを握る私の手。

慌てて離そうとして、でも離せなくて、だからどうしようもなくて俯いた。

「どうしたんだ、やっちー、どこか痛いのか?」

「ううん」

「歩くの疲れた?手、貸そうか」

「いらない」

―――あーちゃんはきっと困ってる。

急に怖くなって、顔を上げてみると、やっぱりそうだった。

皆守クンもこっちを見てる。

二人してきっと、急に訳のわからない私を呆れてる。

けど。

あーちゃんは、すぐに。

「そっか」

笑顔。

「じゃあ、女子寮まで電車ゴッコだな」

「オイ、何だそれは」

「連結完了、発車オーライ、明日香車掌、よろしいですか?」

あやすみたいな冗談。

「ハイ」

「よし、じゃあ、出発進行」

歩き出す後ろからついてく私。

駄々っ子みたい。

でも。

 

怖くて。

 

ねえ、あーちゃん。

 

―――いなく、ならないで。

 

私達は欲深いから、貴方に多く期待しすぎて、きっと糸は切れてしまう。

そうしたらどこに行っちゃうの?

私の知らない、どこか遠くへ、戻って行ってしまうの?

ねえ、そうしたら、もう二度とここには―――戻ってきては、くれないの?

 

「えー終点、女子寮前、女子寮前」

あーちゃんがおどけた声で言う。

コートの端を離せない私に、皆守クンが言う。

「おい、八千穂」

私は、指を、一本一本、恐々と離す。

「ねえ、あーちゃん」

「何?」

「明日も遺跡に潜るの?」

「ああ、そのつもりだけど」

「私も連れて行ってね」

見上げたあーちゃんの瞳は綺麗な黒。

でも、本当は緑色。そして時々赤く光る。

今は夜だから、深いグリーンの奥で星がキラキラ光って見える。

今、私、どんな顔してるんだろう。

「やっち」

また急に怖くなる。

慌てて俯こうとする前に、優しく微笑むから。

「わかった、約束な、ちゃんと連絡するよ」

―――縋ってしまいたくなるのに。

「約束だよ」

「約束、絶対に」

「うん」

今夜の私はきっとちょっと変なんだ。

それは星が綺麗だから。

そして、月が出ていないから。

あーちゃんはよしよしと頭を撫でてくれた。大きくて強い手。優しい手。

じゃあ、オヤスミといって、歩いていく。

一緒に行こうとする皆守クンの服の裾を捕まえていた。

振り返った彼に、先を行く彼に聞こえなくらいの小さい声で、聞いた。

「怖く、ないの?」

皆守クンの瞳は、あーちゃんの瞳と違って真っ黒い。

光も映らないくらいの黒。

深い闇。

怪訝に眉を寄せて、口元のパイプでラベンダーが香る。

 

―――怖いさ」

 

声は小さすぎて聞き取り辛かった。

裾を掴んだ手を振り払われて、皆守クンは小走りにあーちゃんの背中を追いかけて行ってしまった。

私はまだ立ち尽くしたままでいる。

 

ああ、なんて星が綺麗。

 

「寒い」

手袋を嵌めた両手を擦り合わせて、吐き出した息は白かった。

明日の約束を信じることしかできない。

私は、私達は、臆病で欲深い。

女子寮に戻る途中で、男子寮を振り返ったら、入り口で誰かがこっちを見ていた。

振り返った私に気づいて大きく手を振っている。

こんな時まで優しくしないで。

それでも、無視できなくて、小さく手を振り返して、急いで寮に戻った。

靴を脱いで、自分の部屋まで一目散に走って逃げた。

そうしないと夜に追いつかれてしまいそうで。

 

―――今夜はきっと、夢なんか見ない。