「R-style 32」
「あ」
「ん?」
蝶番のきしむ音と、漏れた一声。
振り返った甲太郎はパイプを口元から離す。
「なんだ、八千穂か」
「む、なんだとはなんだー!」
またフェンスのほうを向いてしまうので、明日香は小走りに近づいて隣に立った。
そのまま背中を預けて、フェンスにパタンともたれる。
夕日が差し込む屋上は、まるで火の海みたいだ。
「お前、部活は」
ちらりと仰ぎ見た横顔が、またパイプを咥えなおしながら尋ねる。
「今日はお休み、顧問の先生が休みだから」
「自主トレとか無いのか」
「んー、本当はその予定だったんだけど、断ってきちゃった」
「お前部長だろ、いいのかよ」
あんまりよくないんだけどねと、明日香は苦笑いを浮かべる。
「でも、今日は皆守クンに聞きたい事があって」
「俺に?」
「うん」
空を見上げた。
茜色に染まった中、鳥が飛んでいく影が映る。
「―――何だよ」
「うん」
明日香は間を置いて、すうと息を吸い込み、あのね、と前置きをした。
「皆守クンってさ、あーちゃんのこと、好き?」
ぐ、と息を呑む音が聞こえて、直後に甲太郎は盛大に咽込んでいた。
慌てて明日香が振り返る。
「だ、大丈夫?皆守クン!」
片手にパイプを握り締めて、ようやく一息ついた姿が物凄い勢いで起き上がった。
「お前なあ!いきなり何言い出してんだッ」
「ご、ごめん」
「くだらない冗談を言ってる暇があるなら、とっとと部活にでもいきやがれ、ったく」
そのまま煩わしそうに立ち去ろうとするので、明日香は慌てて制服の裾を捕まえていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「何だ、まだ用か、ふざけた質問ならお断りだ」
「ふざけてないよ、真面目に訊いてるんだよ!」
構わず前に進もうとする身体をグイグイと引き止める。
甲太郎は、足を止めて、首だけ振り返った。
「八千穂、いい加減離せ、しわになる」
「嫌、ちゃんと答えてくれないと離してあげないんだから」
「お前なあ!大体なんでそんな事を訊くんだ、意図は一体何だ」
迷惑そうな顔。
明日香の眉が急にハの字に下がった。
「―――あーちゃんが」
「何」
「あーちゃん心配してたよ?最近機嫌が悪いみたいだって」
「晃が、か?」
甲太郎の表情が僅かに曇る。
「あーちゃん、最近いつも皆守クンにお仕事手伝ってもらってるから、もしかしたら知らないうちに迷惑かけてたのかもしれないって、すごく気にしてた」
―――笑って、ごまかすみたいに言ってたけど。
「でも私、すぐわかったんだもん、あーちゃん、もしかしたら皆守クンに嫌われてるのかもって、心配してるよ」
「ばっ」
目を三角にして声を荒げそうになって、直後に口元を押さえながら他所を向く。
苛々とパイプの先を揺らして、甲太郎は少し怒っているようだった。
「んなわけ、あるかよ」
小さな声。
「おい八千穂、いい加減離せ、逃げねえから」
明日香はおずおずと指を離す。
制服は、やっぱりそこだけしわになってしまった。
甲太郎は振り返ってフェンスの前に戻り、両腕をだらりと乗せながら深々と吐息を洩らした。
「あのバカに言っとけ、くだらない事考えてんじゃねえってな」
「皆守クン」
「お前も人の心配してないで、早いとこ校舎を出ろ、そろそろ下校の鐘が鳴るぞ」
明日香はちょっと俯いて、またすぐ顔を上げた。
「皆守クン、質問の答がまだだよ」
丸まった背中は影になったままだ。
顔の脇からユルユルとアロマの煙が立ち昇っている。
「皆守クンッ」
ふー、と、溜息の音。
「―――嫌いじゃない」
「え」
「これでいいか?」
胸の前でギュッと手を握り締めて、明日香は自分でもよくわからなかったけれど、満面の笑みで微笑んでいた。
「ウンッ、あーちゃんが聞いたらきっと喜ぶよ!」
「余計な事は言うんじゃねェ、あんまりバカだと本当に見限るって晃に伝えろ」
「わかった!」
じゃあねと元気な声がして、足音が駆け出す。
ドアの前付近で立ち止まって、皆守クンも早く帰りなよと呼びかけられた。
甲太郎は背中向きのまま軽く片手を上げた。
蝶番のきしむ音と、足音。そして、ドアが閉まる。
フウ、と吐息が漏れていた。
「あのバカ、今更何を気にするってんだ」
見渡す景色は果てしなく赤い。
それは、かつてはひどく濁った色だったはずなのに、今は目に痛いほど鮮やかだ。
眩しくて少しだけ視線を外した。
こんな色は俺には似合わない。夕陽より、暮れた後の闇のほうが落ち着いていられる。
「散々人を巻き込んでおいて、普通順番が逆だろうが」
思い返せば転校初日から妙な奴だった。
冷めている様で、妙に熱くて、現実的なのかと思ったら時々夢見たいな話を真顔で口にする。
思い出す姿は夕陽には似合わなくて、晃は朝陽の方が合うなとぼんやり考えていた。
―――気づけばいつも目で追ってしまう彼の事。
傍にいないときはふと面影がよぎる。
こんな自分を俺は知らない。
紫に染まりだした空の奥を、渡り鳥が飛ぶのが見えた。
甲太郎はフェンスの上で腕を組んで、その中に顔をうずめた。
「俺に、どうしろって言うんだよ」
傍にいると気分が凪いで、本当に、俺はようやくひと心地つけるような気がする。
夢すら安息をもたらしてはくれないというのに、ある日突然現れたあいつは、易々とそれをやってのけてしまった。
けれど。
晃は―――いつかここを去っていく。まるで季節を越える渡り鳥みたいに。
もし檻を作って閉じ込めたとしてもあっけなく抜け出されてしまうだろう。
翼を折ったとしても、心まで捕まえる事は多分できない。
そんなものにたやすく思いを重ねることなんてできない。まして、この荒れ果てた庭を開放することなど。
「無理に決まってる」
もし心を繋げてしまったら。
傍にある事を必然と感じてしまったら。
そしてお前が―――いなくなって、しまったら。
屋上いっぱいに鐘の音が鳴り響く。
どこかでお前もこれを聞いているのか。
今すぐ逢いたいと思う反面、もう二度と顔も見たくないと思う。
忘れてしまえたら楽なのに。
あの時の思い出のように、何もかも、全部。
甲太郎は顔を上げた。
その口元に、自虐的な笑みが浮かんでいた。
「無理に決まってるだろ、そんなこと」
―――忘れることなんてできない。
パイプを咥えなおして火をつけると、柔らかな芳香が香った。
もうすっかり飽いているというのに、それでも俺はまた嘘を重ねていく。
気づかれないように。
気づかずに済むように
積みあがった嘘の重みで、僅かに足元が沈むようだった。
燃える夕陽に背を向けて、影を引きずるように歩いていく。
ドアノブに手をかけようとした所で、扉が逆に開かれた。
「っつ!」「うわっ」
目の前に現れる、暗翠色の瞳。
硬直する甲太郎に、晃も眼を丸くして、次の瞬間ニッコリと微笑を浮かべていた。
「よかった、まだいたな」
「お前、何で」
「やっちがさ」
―――嫌な予感がする。
「わざわざ俺の事探してくれたんだ、いい子だよな、彼女」
甲太郎は僅かに視線を逸らしていた。
さっきから心臓の音がうるさくて堪らない。
顔がバカみたいに熱くて、掌が汗ばんでいた。
「伝言、受け取ったぞ」
グッと息を詰まらせて、僅かに様子を伺うと、優しげな瞳と目が合ってしまった。
「ごめんな、変なこと言って」
照り返しのせいで、晃の瞳は綺麗な赤に変色していた。
つい見とれて、甲太郎はぼんやりと立ち尽くす。
「ありがとう」
柔らかい声。
「嬉しかった、俺も、お前の事好きだよ」
ドクンと鼓動が跳ねる。
慌ててそっぽを向いて、アロマの煙で誤魔化した。
こんなのは俺のガラじゃない。
「ば、バカ、勘違いするな、俺は嫌いじゃないと言っただけで、そんな事は言ってない」
「あれ、でも嫌いじゃないって事は好きってことだろ、違うの?」
「そう何でも自分に都合よく考えてるんじゃねえぞ、ああクソ、大体お前はわざわざそんなこと言いに来たのか?下校の鐘はとっくに鳴ったぞ!」
バリバリと後頭部を掻き毟る甲太郎に、晃が笑う。
「お前、探しに来たんだよ」
「なッ」
「一緒に帰ろう、甲太郎」
振り返って、暗赤色の瞳に見詰められて、不意に肩の力が抜けていた。
結局いつものパターンじゃないか。
「あんまりのんびりしてると生徒会の奴等に見つかっちまう、早く行こう、マミーズで夕飯食べて帰ろうぜ」
「―――ああ」
そうだなと呟いて、パイプを咥えなおした。
何であれ、今こいつはこうして俺の前にいるし、その日が来るのはもう少し先のことだ。
未来を思うと気が重いけれど、とりあえず脇に除けておこう。確かに腹も減った。
「行こう」
晃が歩き出す。
後に続きながら、甘い花の香りだけでは誤魔化しきれない何かが胸の奥で渦巻いている。
この背中もいつか遠くなる。
不思議な瞳の色も、耳障りのいい声も、いずれ離れる。
お前は俺の前からいなくなる。
けれど。
間違いなく訪れるだろう、痛みを予感していたとしても。
(俺は)
―――目を逸らすことなんてできない。
この想いはきっと、恋になる。
(了)