「R-style 35」
「あっち!」
小皿から慌てて口を離して、晃が顔をしかめた。
流しに立っていた甲太郎はお玉を持ったまま怪訝に顔をしかめる。
「おい、大丈夫か?」
「らめ、やけほしら」
小皿を受け取って、晃の顔を覗き込む。
「火傷したか」
「うう」
「しょうがねえなあ、どうにかなんねえのか、その猫舌」
なってたらとっくにどうにかしてます。
不服げな晃の瞳がそう言っている。
こいつは酷い猫舌で、熱いものは大体すぐ食べる事が出来ない。
紅茶だってスープだって、驚くほど冷ましてから飲むのが常だから。
「よく吹かないからだ」
甲太郎も、内心多少反省しつつ、受け取った小皿にカレーを注ぎ足した。
今朝からずっと屋上でごろ寝していた様子を見かねて、晃が、夕食はお前の手作りカレーが食べたいと珍しく駄々をこねたから、甲太郎は今こうしてエプロン姿で調理にいそしんでいる。
「俺の作るカレーは、言っちゃなんだが絶品だぞ」
得意げに言うと、晃は嬉しそうに楽しみだと笑った。
その顔が見られただけで、言う事を聞いてやってよかったと胸の奥が綻んでしまう。
俺は大概、こいつに甘い。
こいつは誰に対しても殆ど姿勢を変えないのに、俺は自分でも呆れるほど顕著だ。
晃でなければこんな提案、鼻にもかけない。
こいつはいつでも俺の事をバカみたいに甘やかして、そのくせ自分の弱みは全然見せてもくれないから、たまにねだられると俺は凄く弱い。
自分で分析して、やれやれと甲太郎は小皿のカレーを眺めた。
ここは、晃の部屋だ。
前にくれてやったカレー鍋でカレーを作っている。約束は、とりあえず果たせた。
縁に口をつけて、ず、と啜ると、旨みが舌の上で踊る。
味付けは常の通り、自分でもウットリするほど完璧だ。
今日はその上更にいくらか色々と気分的に付加されているから、本当に驚くほどうまい。
これを食って火傷するなんて、仕方ない奴だと思う。
水を汲みに行こうとする晃の腕を捕まえて、見せてみろと甲太郎は強引に振り返らせた。
「舌出してみろ、ホラ」
晃は顔をしかめたまま、ぱかっと口を開いて舌を出して見せる。
赤く、濡れた色の中で、差し出された舌は木の葉のような形をして、熟れた果実のようだ。
その表面が少し腫れている気がする。赤みも強いようだ。
子供みたいな姿勢で困り顔をする晃を見ていると噴出しそうになる。
甲太郎は努めて真面目に、真剣に心配している素振りを装って、どれと覗き込んだ。
「あー、ここだな、しっかり火傷してるな」
指先でつつくと、晃はううとくぐもった声を洩らした。
「痛いか?」
「いらい」
悲しそうな顔に、つい微笑が浮かんでしまった。
そのままそっと近づいて、割られた甲太郎の唇の間から舌がすっと出てくる。
不思議そうな瞳に緩やかに視線を絡めて、瞼を閉じると、舌の上を舌先でスルリと舐める。
直後に晃がぱくんと口を閉じて、甲太郎は顔を上げた。
「ちょっ、と」
肌の色が見る間に上気して赤く染まっていく。
「おまえ、いまの、なんらよ」
ふらりと一歩後退りをするので、さりげなく手を離してまた鍋に向かった。
「おい」
甲太郎はお玉で琥珀色の液体をゆっくりとかき混ぜる。
「こうらろ」
「水でも飲んどけ、痛くなるぞ」
「もういらいよ」
「じゃあ氷でも含んどけ、冷蔵庫に入ってるだろ」
あんまり舌の上に乗せたままにしとくと、逆にもっと痛くなるからなと付け足すと、晃は不服そうに鼻を鳴らしていた。
「そうらなくれ、はくらかふなって」
「ほら、痛いんだろうが、早く氷舐めとけ、それとも水か?コップについで飲んどけよ」
暫らく惑っていた足元が、やがて諦めたように冷蔵庫のほうを向くのを横目でちらりと確認して、甲太郎は薄い笑みを唇の端に滲ませていた。
誰にでも同じように気安いお前だけど。
そんな姿は、俺にしか見せない。
赤くなった顔も、子供みたいな仕草も、ふてくされた足音も、全部、俺だけのもの。
鍋の中からいい香りが立ち上ってくる。
鼻腔をくすぐる香ばしい香り。
すぐ傍にある林檎と蜂蜜のチャツネを取り寄せて、中に適量混ぜ込んだ。
こうしてしまうと甘みが混ざり合って、この味がどこに入っているかなんてわからなくなってしまう。
じわり、じわりとお前の中にしみこませていく思い。
いつの間にか混ざり合って、わからないうちに全部満たしてしまえ。
小皿にとって味見すると、旨みが出て、とても美味しいカレーが出来上がっていた。
このまま夜までじっくり煮込めば、上等の食卓に招待してやれるだろう。
晃は水を飲んで、氷を含もうとしているようだった。
冷蔵庫を覗く背中に瞳を細くして、もう一口だけカレーを味見した。
「―――うまい」
ドアを閉めた晃はもうさっきのことなど全く気にしていない様子で、頬のふくらみを左右に移動させながら甲太郎の隣までやってきて、鍋の中を覗き込んでいた。
鍋の中で、カレーがくつくつと音を立てて笑っている。
触れる体温と食欲を誘う香りに、もうすでに腹の虫が騒ぎ出すようだった。
(了)
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