R-style 36

 

 久し振り、と言って笑った、その人はいつでも初雪のように無垢で純粋だ。

「お久し振りです、兄さん」

俺は笑い返す。

雪の積もっていた肩を、伸びてきた指先がそっと払ってくれた。

「降ってきたのか」

「途中から」

「寒かっただろう?」

柔らかく微笑む姿は、まるで陽だまりのようだ。

見詰められると胸の奥がふわりと暖かくなる。

この人の姿は、心のささくれた部分を丸ごと包み込んで癒してくれる。

それは、あらゆる全てのものに対して。

それでいて彼自身はまるで邪気のない雰囲気を纏っているものだから、ますます心惹かれてしまうのだろう。

兄さんは、俺より五歳年上で、まるで陶磁器のように白く、透き通った肌をして、質のいいセーターと暖色系のズボン、相変わらず艶々と綺麗な黒髪の下で、金茶の瞳が柔らかく俺を見詰める。

一方の俺といえば、薄汚れた軍用コートによれよれとしわの寄った学生服なんか着て、みすぼらしいことこの上ない。

肌も日に焼けていて、髪は量だけは多いけれど少しパサパサしている。

白い指先が、その髪をそっと撫でた。

「元気にしていたか」

「見ての通り」

「背、伸びたな」

ハハハ。

とりあえず上がりなさいという声を、俺はやんわりと断った。

「いいよ、ちょっと寄っただけだし、バタバタして悪いけど、すぐに行かなきゃならないから」

「そうか」

「ゴメン」

「構わない、気にするな、顔を見せてくれただけでも嬉しいよ」

優しい声。

俺は安堵する。

掌でゆっくりと頭を撫でられた。

「五年ぶり、だな」

「うん、兄さんが東京に出てく直前、以来かな?」

「ああ、そうだ」

金茶の瞳が懐かしそうにすっと細くなった。

―――五年前に大騒ぎされた、日本の首都、東京に突如出現した謎の一対の塔。

その詳細については協会も遺跡の類でないのかと調査を行っていたらしいけれど、結局全ては謎に包まれたままであるらしい。

けれど、件の事件に兄さんが関わっていた事を、俺は母親の手紙で少しだけ知っていた。

この人はあの場所で、宝物を取り戻したらしい。

胸の奥がじわりと痛んで、それは酷く甘く感傷的な気持ちだった。

掌が離れた。

俺は多分、ぎこちなく笑っていたんだと思う。

「晃も、東京に行っていたんだろう?」

「何で知っているの?」

「うん」

友達がね、教えてくれたんだと囁いた。

ナイショだけど、お前の知っている人と、もう一人の知り合いの同僚が、俺の友達なんだよ。

―――本当に?」

「天香学園高校、だろう?」

「世間は狭いなあ」

「そうだね」

俺達は笑う。

まるで、もっとずっと幼くて、お互い世界の殻の内側にいた頃のように。

「晃」

「うん?」

「俺は、晃の仕事のこと、加奈さんから聞いて知っているし、その天香学園で何をしていたのかも大体教えてもらった」

「そう」

指先が触れる、まだ残る傷跡。

クリスマスイブに繰り広げられた、戦闘の名残。

あいつの、激情の痕。

「俺にとって、東京は、とても大切な街だよ」

静かな、深い声だった。

「大切な人がたくさんいる、ここも、大切だけれど、東京は特別な街だ」

「うん」

「晃は?」

「え」

額に触れて、前髪を上げられた。

俺の瞳と彼の瞳が真っ直ぐに繋がる。

「東京は―――天香学園は、大切な場所になったのかな」

瞬間、俺は言葉に詰まる。

大切、なんて、月並みな言葉じゃ、とても表現しきれない。

東京は、天香学園は、俺にとって忘れられない思い出の宝箱だ。

楽しいこと、辛いこと、感動したこと、恐ろしかったこと、全部詰まっている。

友情も―――恋も。

「ああ」

思わず視線を落とした。

「なったよ、忘れられない場所だ」

「そう」

また髪を撫でられた。

ゆっくり。ゆっくりと。

「大切な人は、出来たか」

―――出来た」

「そうか、お前が好きになるくらいだから、いい人なんだろうな、その人は」

いい人、だなんて、あいつが聞いたら何て顔するだろう。

想像して思わず笑ってしまった。

イイヒト。

イイヒト。

アイツに一番似合わなくて、一番お似合いの言葉だ。

ラベンダーの香りのする、ぶっきらぼうで、愛想がなくて、そのくせ人一倍寂しがり屋のイイヒト。

「晃」

顔を上げると、金茶の瞳の奥が揺れている。

ほんのりと輝きを帯びて、まるで金色の龍の目のようだ。

「大切なものが出来たら、そしてそれがかけがえのないものなら、手放してはいけないよ」

その言葉は彼の唇から響くと、ひどく質感を帯びる。

「俺や、お前みたいな人間には、一番難しい事だけれど」

俺達は似ているから。

言外に。でも、それは多分間違っていない。

一人でも生きていけるけれど、それ以上のものを与えてくれる存在を知っている。

けれど、自分から手を伸ばす事は無い。ただ、来るものを受け入れて、離れていくものを見送るだけ。

執着心なんてものは指の間からこぼれる砂粒のようなものだ。いくら掴んでもきりがない。

「それでも、手放しちゃいけない、それが、本当に大切なものなら、それだけの価値を見出せたのなら、そして何より、お前自身がそれを望むなら」

俺の望み。

いつだってそれは一つきりだと思っていた。

けれど、今は違う。

俺は強欲な自分を見つけてしまった―――けれど、それでもまだ、俺は行く先を迷っている。

「うん」

曖昧なまま、頷き返すくらいしか出来ない。

本当はとっくに答なんて出ているのかもしれない、自分の心を疑いながら。

「覚えておくよ」

「ああ」

「兄さんは?」

笑顔が再び花開いた。

綺麗な、本当に綺麗な姿だった。

「一つだけ、絶対に手放せないものがあるよ」

「それは、今でも掴んでいるのか」

「勿論」

幸せそうな言葉に、俺は何故だか少しホッとしていた。

いつか、こんな風に笑える日が来るのかもしれない。

あまりにも広い、広すぎる世界を旅する、俺達のような人種が。

過去も、今も、未来すら、唯一つの線でつながる、儚い灯火だけを頼りに、何もない地平をさまよい続ける、そんな人間でも見つけ出すことの出来る、変わらない何かが。

「そうか」

未来に花は、降るのだろうか。

「うん」

明日に希望は、この手に望みは、いつか―――

満開の桜の花びら。

天香学園の敷地内にもたくさん植えられていた。

屋上から見た風景はまだ寒々としていたけれど、春になればきっと眩しいほど色鮮やかな様子に変わるに違いない。

瞼を閉じればいつでも思い出せる。

声も、姿も、隣り合った息遣いさえも。

「それも、いいかもしれないな」

彼はただ微笑んでいた。

まるで花降るように、陽だまりのように、深く、優しく、ひたすら暖かい。

常春の穏やかな気配の中、気の早い桜の幻が見えた気がした。

その中であいつは、笑っているだろうか、怒っているだろうか、それとも。

「一度つないだ縁なら、そう簡単に途切れたりなんかしないさ、お前が信じている限り、その想いは本物だ、だから、もしその時が来ても、意地を張っちゃいけないよ?素直が一番だからね」

俺は少しだけ目を丸くした。

見詰め返す瞳の奥にイタズラな輝きを見つけた瞬間、迂闊にも苦笑いが浮かんでしまった。

「兄さん」

「何?」

「どこまで知ってるんだ」

「さて」

そら惚けるなんて、そんなスキル五年前には持っていなかった。俺の知っている兄さんはそんな人じゃない。

ならば、やはり―――あの人の影響、なんだろうか?

「やれやれ」

俺はくるりと背中を向けた。

端末で時刻を確認すると、じゃあと片手を上げる。

「そろそろ行くよ、出発時刻に遅れるから」

「うん、また遊びにおいで」

「了解」

「晃」

「うん?」

―――元気で、頑張れよ」

俺は首だけ振り返った。

綺麗な人。

何も持たない、けれど、たった一つだけ、かけがえのない宝物を持つ人。

それ以外何もいらない人。

俺はまだそんな風にはなれない。

今は、まだ。

「兄さんも元気で、あの人にもよろしく」

「うん」

ヒラヒラと手を振る、その向こうに黒ずくめの姿を見つけて、俺は少し動作を止めると、軽く目礼をした。

あれが彼の半身。

スラリと背の高い、真摯で鋭利な気配を持つ人。

果てしなく愛情の篭った目で彼を見ていた、その瞳が俺を見て、ほんの少しだけ微笑んでいた。

―――ああ、春の気配だ。

あいつもあんな目をしてくれていたんだろうか。

見送られて外に出ると、まだ雪だった。

想像の季節には遠くて、けれど満開の紅に染まった吹雪く花の頃に思いを馳せる。

先の事は、わからない。

「またいつか、きっといつか、な」

願いの言葉を呟いて、思わず笑って、コートの端を翻しながら俺は駆け出していた。

この先はきっと明日に繋がっているんだろう。

見果てぬ世界。

そこで俺はどんな風に変わっていくのだろう。

あいつはどう変わっていくのだろう。

来年の今頃はどうしているか、想像もつかない。

ただ走るだけ。

全身全霊、魂という名の灯火を掲げて、ひたすらに走り続けるだけ。

踏み出すつま先に触れる雪の欠片が、かすかに香ったような気がした。

 

(了)