R-style 37

 

 屋上の、給水等の下で。

すっかり寝入っていた甲太郎は、かすかな話し声で目が覚めた。

けれど、彼の場合覚醒はひと息には訪れなくて、閉じた瞼の裏側でユルユルと意識が浮かび上がってくる。

口元に馴染みの感触がなくて、落としたのだろうかとぼんやり考えていた。

髪をするりと撫でられる。

―――ああ、この感触はあいつの手だ。

クスクスと笑い声の後で、大丈夫、よく寝ているみたいだからと柔らかな囁きが鼓膜をくすぐる。

「でも、よく俺の連絡先がわかったね」

携帯電話?

違う、多分あいつの常備している端末で会話しているのだろう。

「ああ、なるほど、仕方ないなあ」

相手は誰なんだ。

やけに親しげな、甘えた気配。

「元気にしてた?うん、いや、俺のほうは相変わらずで」

アハハ。

屈託無く笑う。

瞼を閉じたまま、甲太郎は僅かに苛立っている自分に気づいた。

―――こんな晃、俺は知らない。

「うん、まあ、悪くないかな」

会話は弾んでいるようだった。

「でも仕事だし、あんまり調子に乗りすぎたりも出来ないから、色々難しいよ」

腹の奥のほうがギュウと捩れる感じがする。

芯が焦げる。

お前は誰と話している。

「平気だよ、ありがとう」

そんな声で喋るな。

「うん、アハハ、そうだね」

笑うな。

「でも、本音を言えばちょっとだけ―――辛いかな」

ドクンと鼓動が一つ爆ぜる。

甲太郎はもう目を閉じ続けているのがかなり辛かった。

勘のいい彼に気付かれないように、髪の毛一筋にさえ神経を張り巡らして、細心の注意を払って聞き耳を立てるのは至難の業だ。

すでに瞼がピクピクと痙攣しているような気がしている。

「そんな事を言われるまでもないよ、そっちこそ、損な性分じゃないか」

僅かに寂しげな声。そして、冷たい風が頬をかすめていく。

「大丈夫、俺は大丈夫だから、そんなに心配してくれなくていいよ」

あの馴染みの香りを感じられない状況が、俄かに心許無くなった。

俺のアロマはどこへ行った。今すぐ、あの香りにうずもれてしまいたいのに。

(どこに落としたんだ)

指先がこっそり探ってみようかと逡巡する。

「ありがとう」

今のこの気持ちが嫉妬なのか、寂しいのか、甲太郎にはよくわからなかった。

ただ、ひどくラベンダーの香りが恋しい。

甘い香りに抱かれて、もう一度眠りの淵に沈んでしまいたい気分だった。

―――眠りは、奪うことも、与えることもない。

「はい、じゃあ、兄さんも元気で」

(は?)

兄さん?

「今度はこっちからちゃんと連絡するよ、今日はありがとう、じゃあまた」

かち、と小さく音がして、通信を切ったようだった。

まだ目を閉じている甲太郎の髪を、再び掌がゆっくりと撫でる。

「甲太郎」

晃はかすかに笑っていた。

「オイ、コラ、起きろよ、寝たふりなんかしてるな」

甲太郎はギョッとして、バツの悪そうな顔でそろそろと瞼を上げた。

困ったような笑顔が、僅かに眉をハの字にして見詰めている。。

「盗み聞きだなんて、感心しないな」

「フン―――お前が勝手に喋ってただけだろうが」

「ちゃんと起きて聞いてればよかっただろ、別に後ろ暗いことなかったんだから」

「兄貴がいたのか」

違うよと晃は首を振る。

「従兄妹、久し振りに日本に戻ってきたからって、電話くれたんだ」

「従兄妹?」

「そうだよ、俺より五歳年上の、やさしい綺麗な人だよ」

「ふうん」

好きなのかと訊きそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。

やはり嫉妬だったらしい。単純な自分にうんざりする。

(たかだか従兄妹に、あんな甘えた声出して、兄さんなんて呼びやがって)

けれどそれ以上に気になった一言。

あれは、どういうつもりで呟いたのだろうか。

 

辛い、と―――

 

短いその一言がまだ胸に突き刺さっている。

ホントウイエバチョットダケツライカナ

(辛いのか?晃)

「ほら」

目の前に差し出されたアロマのパイプに、甲太郎ははたと思考を止めて、少しだけ唇を開いた。

モノグサだなあと笑いながら、晃はそれを咥えさせてくれる。

「火」

「自分で点けろよ」

「火、早く」

「ったくもう」

甲太郎の制服の内ポケットを探ろうと、伸びてきた腕をグッと掴んだ。

驚いたように振り返った瞳を見つめながら、言葉が胸の中をめまぐるしく飛び交っていた。

「甲太郎」

晃が笑う。

「煙いよ」

指先がパイプを取り上げた。

目を閉じると、唇にかすかに触れる吐息の後で―――口付け。

バランスを崩してのしかかってきた体を抱きとめる。

甲太郎は瞳を開いて、睫が触れるほど近くにある顔をじっと見詰めていた。

甘く、狂おしいひと時の後で、ゆっくり離れていく姿がふと目を開き、やれやれと微笑んだ。

晃は再びパイプを甲太郎の唇に咥えさせて、髪を撫でる。

「オイ」

「うん?」

「何でキスした」

「だってお前、してくれって目で言ったじゃないか」

フンと鼻を鳴らすと、優しい気配が内側に忍び込んでくるようだ。

このまま抱きしめられても、俺は拒めないと思う。

拒みたくないと思う。

―――抱きしめて、欲しいのだろうか。

「甲太郎?」

「何だよ」

「甘えたくなったんだけど、駄目かな?」

照れた顔で笑う、その姿はどこか寂しげだ。

甲太郎はじっと見詰めていた。

空の青を背景に、少し泣きたいような気がする。

このほろ苦さは慣れたものだけれど、それでもやっぱり、辛かった。

「勝手にしろよ」

そっぽを向くと、微かに笑っている。

首と肩に腕を回されて、そのままギュッと抱きしめられる。

髪に擦り寄る、頬の感触が愛しかった。

唇からパイプを離して、かすかに香る晃の気配を胸いっぱいに吸い込んでいた。

今の俺には、もうこっちのほうがいい。

ラベンダーよりもずっと上等で、ずっと効果の高いトランキライザーだ。

苦手な人肌のぬくもりも、今はただ心を癒してくれるばかりで、もっともっと欲しくなる。

そっと瞳を閉じると、耳元で囁いていた。

「ライナスの毛布」

「ん?」

「お前の事こうしてると、安心するよ」

「そりゃ、よかったな」

「うん、よかった」

―――過去形じゃ無いだろ」

何気なく呟いた一言に、クスクスと笑い声が髪を揺らす。

「いい、よ、凄くいい、幸せだ」

この痛みは、秘密のせい。

辛いのは、未来を思うせい。

(ああ、そうか)

ようやくわかった。

辛いってのは、そういうことか。

俺たちがずっと目を背け続けている、それは―――

「晃」

両手を伸ばして抱きしめながら、甲太郎は深く息を吐き出していた。

夢ならずっと、覚めなければいいのに。

永遠に続けばいいのに。

明日なんて来なければいいのに。このまま、ずっと。

「眠い」

クスクス。

「いいよ、寝ても、膝貸そうか?」

「おう」

伸ばした晃の膝の上に、頭を乗せながらごろりと横になった。

遠くに見える空が蒼い。

「お前、枕なんだから、ちゃんとここにいろよ」

「了解」

「よし」

うそつきめ。

パイプを取り上げられてしまった。

ムッとして睨みあげると、額をポンポンと叩かれた。

「おやすみ、甲太郎、いい夢を」

―――ああ」

おやすみ晃。

夢から醒めても、お前はまだ―――ここに、いてくれるのか?

ほろ苦い甘みも痛さも全部混ぜ込んで、ゆるゆると眠りの帳が、二人の間に落とされた。

 

(了)