R-style 38

 

 ドアを開けた途端、微かに聞こえてきた歌声に、甲太郎は動作を止める。

「うん?」

僅かな隙間から屋上を覗くと、青く澄んだ空と剥き出しのコンクリート以外、何も見えない。

もう少し、と隙間を広げていって、結局外に出てしまった。

見上げると、給水等の上に据わっている影がある。

歌はその影から聞こえてきた。

聞きなれた、心地のいい、低音アルトの柔らかな声。

滑らかな響の中に僅かに強弱が含まれていて、それがとても優しい旋律を紡ぎだす。

あんな埃っぽい、陰鬱とした場所で、血と汚れにまみれながら自らの腕一本に命を託し、刀剣を振り、銃器を撃ちまくる人間と、同じ人物とは到底思えない。

風がさらりとその黒髪を撫でた。

気持ちよく歌っている彼は、甲太郎の存在に気づいていないようだった。

紡がれる言葉は外国語、歌詞の内容はまったくわからない。

けれど、何か綺麗な歌を歌っているのだろうなという事は、何となくわかった。

足音を立てないように気をつけて近づいて、給水等のふもとに腰を下ろすと、そっと目を閉じる。

空から光と、歌声が降ってくる。

まるで羽根のように。

少し冷たい風に乗せて、ふわり、ふわりと。

―――深い、吐息が漏れた。

まるで何もかも溶けて消えていくようだ。

この身を縛る枷も、傷つけた過去も、辛い現実も、全て。

うつら、うつらと意識が途切れていく。

温かな日差しに抱かれて、歌声に甘く愛撫されて、そのままスルスルと堕ちて行く。

(ああ)

甲太郎は思う。

(ああ、なんていい――― 一瞬なんだ、今は―――

 

「こーうーたーろーッ」

「ん、んん?」

眠りの淵から急に引き上げられて、寝ぼけ眼をこすりながら、ぼんやりと視線の先の姿を見上げた。

「コラ、またこんな所で寝て」

「晃」

逆光のせいで影になりながら、腰に手をあてた晃が屈んで覗き込んでいる。

僅かに呆れたような、苦笑いの表情だ。

うるせえなあとぼやきながら、いつものクセでアロマパイプに火をつけなおす。

―――そういえば、さっき眠りに落ちる前、すでにパイプの火は消えていたような気がするのだが。

「お前、いつからここで寝てたんだ?」

「あ?」

身体を起こして、今度は仁王立ちになりながら、眉を寄せて晃は少しむくれていた。

「屋上、いつからいたんだって聞いてるんだよ」

「ああ」

緩やかに立ち上り始めたラベンダーの香りを吸引しながら、甲太郎は気のない返事を返す。

「さあな、いつだったか」

「俺が歌ってたの、聞いてたんだろ?」

それか。

顔をあげて、ニヤリと晃に笑いかけた。

「おう、大御所の歌声、バッチリ聞かせてもらったぜ」

「盗み聞きだなんて趣味が悪い、鑑賞料払わせるぞ」

「お前の歌にそんな価値あるかよ」

「なんだとぉ」

まったく、と呟きながら、晃は踵を返して縁の柵まで歩いていってしまった。

そして両腕をかけて、もたれかかりながら、空を見上げる。

明るい日差しが彼の髪や肩を柔らかく照らしていた。

甲太郎は瞳を細くした。

 

また、歌声が流れてくる。

 

耳に残る優しい旋律。

甘くて、切なくて、胸の奥が苦しくなるようなこの感情。

誘われるようにふらりと立ち上がって、背中に近づいていった。

今すぐ抱きしめたら、歌うのを止めてしまうだろうか?

伸ばしかけた腕をふと下ろして、隣に同じようにもたれかかった。

「オイ」

「ん?」

「それ、何の歌だ?」

晃は笑う。

「父さんが教えてくれた民謡、タイトルは確か、やさしの山吹、だったかな?」

「英語じゃねえか」

「ドイツ語だよ、ああ、そうだ」

何か思いついたように、とっておきを歌ってあげるよ、と言った。

「とっておき?」

「うん、これならお前もわかるだろう?」

すうと息を吸い込んで、唇が再び旋律を紡ぎ始めた。

 

清き水に 枝ひじて

花咲く山吹 あれ

色香深く 八重におう

やさしさの姿や あれ

吹く風にゆられて 露はみだれ

寄する波に 影さわぐ

すめるは かわずの声

 

さらり。

風が吹く。

眠る前、給水等の上から聞こえたものと、リズムが同じだった。

「父さん直伝、ジャパニーズスペシャル」

「は?」

「日本語訳だよ、もっとも、翻訳したのは父さんじゃないけど、同じものが日本にもあったからって喜び勇んで教えてくれた」

「ふうん」

「今のならお前にもわかっただろ?」

ああ、まあと答えて、甲太郎は苦笑した。

洋楽は嫌いでは無いけれど、晃に歌ってもらうなら、やはり歌詞がちゃんとわかるほうが嬉しい。

日差しを受けた晃の瞳は暗赤色をしている。

その目が、じっと甲太郎を見詰めて、少し切なげにフッと笑った。

―――いつか」

「うん?」

「これと同じメロディで、もう一曲あるんだ、それを歌ってやるよ」

―――何故だろう。

言葉を受けて、甲太郎の胸が理由のわからない痛みで疼く。

「へえ、そりゃ、楽しみだ」

軽い調子で答えたけれど、本心は裏腹だった。

ザワザワ、ザワザワと、感情の水面がさざめき立つ。

ザワザワ、ザワザワ―――

 

「この、事だったんだな」

暮れていく景色を眺めながら、一人きり、アロマパイプを燻らせて、甲太郎は瞳を細めていた。

隣にはもう誰もいない。

あの心地のいい声も、安らげる体温も、どこにもいない。

周りをよく確認して、ふと苦笑いを洩らした。

放課後のこんな時間に屋上に上ってくる奴なんていないだろう。

ましてや卒業式を間近に控えて、誰もそんな暇ないはずだ。

すう、とラベンダーの香りを吸った。

同時に息を肺一杯に送り込む。

歌はあまり得意では無いけれど、今は何故だか歌いたい気分だ。

耳の奥に、あの歌がこびりついて離れない。

 

さらば さらば わが友

しばしの別れぞ 今は

さらば さらば わが友

しばしの別れぞ 今は

身は離れ行くとも 心は一つ

いつの日にか また相見ん

さきくませ わが友

 

歌い終わって、ふうと息を吐くと、もう一度周囲をよく確認した。

お世辞でもうまいとはいえない、自分でも全くそう思えない。

やはり、晃が歌ったほうが断然いいなと、つい微笑んでいた。

「また、いつか、聞かせてくれよ」

甘くて優しいあの旋律を。変わらないあの声色で。

どうしようもなく厄介な俺を、あっさり鎮めてしまった歌声を。

 

「なあ、晃」

 

風が木立を揺らして、パイプの先の煙をさらっていく。

もう春が来るのだろう。

肌に触れる感触は、すでに温もりを帯びていた。

 

耳に残るは、君の歌声―――

 

(了)