「お前、ここを出ていくのか」

驚いて振り返ると、甲太郎はやはりこちらを見ていない。

晃は少し黙って、不意にそうだと頷きながら微笑んでいた。

「相変わらず勘がいいなあ、俺、ばれない様にしてたつもりだけど」

「バカ野郎、俺がどれだけお前の傍にいたと思ってるんだ」

それもそうかと呟いて、晃は少しだけ嬉しく思う。

転校初日から甲太郎はいつも自分の傍にいてくれた。

それは、もしかしたら最初の意図は違っていたのかもしれないけれど、今ではそれこそが彼の愛情の現れであったのだと断言できる。

甲太郎と俺は親友で、そしてそれ以上の関係だ。

あの大広間で一戦交える前、真摯な眼差しで語ってくれた言葉。

俺の気持ちはウソじゃないという、それだけで充分すぎるほど想いは伝わった。

もしあのまま、彼が遺跡の奥で最後を迎えていたなら、今頃自分はどうなっていたか想像もつかない。

別れを告げられた瞬間の恐ろしさは尋常でなかった、激しい焦燥感と動揺で、心ごと体中が引きちぎれてしまいそうだった。離れて行く彼の掌を、掴んで無理やりでも地上に引き戻してやるつもりだった。

けれど、何もかもが杞憂に終わり、甲太郎は再び学園の一生徒に戻った。

それこそが、今回の任務で得られた最高の報酬だ。

心を捕らえる茨の鎖。

傷つき、打ちひしがれ、茫洋とした時の中をさまよい続ける彼を闇の中から連れ出すことができた。

その結果、あの日から、甲太郎の口元からはアロマパイプが消えていた。

まだほのかなラベンダーの香りは漂っているけれど、今も、来る前も、喫煙はしていないようだった。

それは秘宝を見出すことよりもずっと価値のあることだ。

甲太郎が生きていてくれるなら、それでいい。

どれだけの金や名誉も、彼とは比較にすらならないのだから。

本人はまだ戸惑ってはいるけれど、その身を縛り付けるものは何もない。

甲太郎は自由だ。

飛ぶ鳥と同じように、どこにでもいける、何でもできる。

だから―――

晃は一人きりでの旅立ちを決意することが出来た。

たとえ遠く離れていても、異国の地で空を見上げれば懐かしい姿を思い浮かべることができるから。

空だけはどこも繋がっている。

自分の頬を過ぎた風が、いつかどこかで甲太郎の髪を揺らすだろう。

だから、別れは苦痛ではなく、必然なのだと考えた。

湿っぽいのは性に合わない。

彼らの笑顔だけを胸に残して、このままひっそり姿を消すつもりだった。

「お前が何を考えてるか知らないが、俺にまで黙ってるとはどういう了見だ」

「悪い」

晃はモニタに視線を戻す。

「急だったから、言いそびれたんだよ」

「すぐばれるような嘘をつくな、大方、今夜中にでもこっそり消えるつもりだったんだろう?」

「甲太郎に隠し事はできないなあ」

不意に苦笑が漏れていた。

「何でもお見通しか、正直時々まいるよ」

「お前のことなら当然だ」

急に肩を掴むので、振り返った途端唇が触れ合った。

そのまま深いキスをして、離れていく甲太郎の瞳が晃を見詰めている。

「晃」

低い、優しい呼び声。

彼の唇が自分の名前を綴る響きが喜びに変わったのはいつ頃からだろう。

募る想いは、やがて体ごと繋がっていた。

同性同士、おかしいと思わないこともないけれど、不快ではないし、ならば愛し合う行為も必然と呼べるだろう。

想い、想われて、肌を寄せ合い、口づけを交わし、深いところで確かめ合う。

連なる全ての行為が愛しい。

いつか離れるからこそ、もっと、もっとと欲したのかもしれないと、そんな風に思う。

過去に思いを馳せている、晃の瞳を甲太郎が覗いている。

「本当の事を言えばな」

モニタの光がその奥で揺れていた。

「俺は、お前も知ってのとおりどうしようもない奴だから、今凄く腹が立ってる」

「それは、俺が本当の事を言わなかったからか?」

「違う」

肩を掴む指先にわずかに力がこもる。

「言ったろう?俺の渇きを癒したのは、お前が初めてなんだ」

砂漠に降る慈雨のように。

ひび割れた、空虚な心をいつのまにか満たしていた。お前がそれを俺にくれた。

「だから、俺はそれを手放したくない」

このままずっと隣を歩んで行きたい。

お前の背中を守るのはいつでも俺でありたい。

溢れる想いを打ち消すように、甲太郎はフッと瞳を伏せた。

「けど、お前は目的があってここに来たんだよな―――そしてそれは、もう果たされちまった」

彼の事情は最初に聞いた、だから、いつかこんな日が来ることも、どこかで予想していた。

だからあの時俺は死のうとしたのかもしれないと、ぼんやり数日前の記憶がよみがえる。

別れが辛いから、自分から先に離れていこうとしたのかもしれない。

世界の全てに別れを告げて。

晃がいなくなれば、俺はまたこの牢獄の中にただ一人きりだ。

多くの人々が戻ってきたけれど、死んでしまった人間には詫びる術も無い。

消せない罪は生涯枷としてこの身に残るだろう。

アロマは捨ててしまった、今の俺に、その重さや辛さを一人で耐え抜けるだけの力は無い。

けれど、隣に―――晃がいてくれるならば。

(随分都合のいい男だ、俺も)

甲太郎は微かに、自嘲的な笑みを浮かべる。

「お前は、トレジャーハンターだもんな」

こんな狭い檻の中に、俺と一緒に捕らわれているなんて、それこそお前らしくない。

自由の香りのするお前は、大空の下こそがよく似合う。

「どっか行っちまうのは、俺にはどうしようもない」

甲太郎、と耳障りのいい声が呼んだ。

その声をずっと聞いていたい。けれど。

「お前は決めたことは必ずやり遂げる男だ、俺が幾ら止めた所で無駄だろうし、俺にもそのつもりは無い」

ずっと胸に秘めていた考えをようやく口にする決心が持てて、甲太郎は顔を上げていた。

「だから晃、俺の―――頼みを聞いちゃくれないか」

今こそ脱出の時だ。

綺麗に澄んだ晃の瞳。

そこに映る俺は薄汚れた罪人だけれど、お前はそれでもいいと言ってくれたから。

だから、俺の願いは一つしかない。

「俺はまだまだ半人前だし、お前みたいに特殊な技能や、知識を持ってるわけじゃない、お前にとっちゃ俺なんて、これから出会うたくさんの人間の一人にしか過ぎないだろう」

話す途中で迷う自身を、甲太郎は何度も叱責しながら言葉を繋いでいく。

恐れてなどいられない、そんな余裕はどこにも無い。

生き永らえてしまった俺に、行く場所などひとつしか残されていないのだから。

「晃」

何者にも代えがたい、大切なその名を呼ぶ。

「それでも、お前が許してくれるというなら、俺は」

ここから先に行くための、一歩を。

銀色の夜明けと共にもたらされた、明日へ続く選択肢を。

 

「俺は、お前と一緒に行きたい、世界へ」

 

ありったけの想いを詰め込んで語られた言葉を、晃は静かに受け止めていた。

「俺を、連れて行っちゃくれないか?」

せっかく決意が持てたのに、このままではまたスタート地点に逆戻りだ。

お前がいなくなれば、俺はその孤独や寂しさに耐え切れず、また自分自身を閉じ込めてしまう。

これほどまで何かに必死になったのは随分久しぶりのことだった。いや、初めてだろうか。

変化に一番驚いているのは、他ならぬ俺自身だ。

けれど、斜に構えている場合じゃない。

これまでのようになどしていられない。

なりふり構わず進まなければならない時もあるのだと、お前が教えてくれた。

俺にとって、今がその時だ。

甲太郎は言葉に力を込める。

「晃」

不安で、世界が揺れるようだ。

「晃、頼む」

見つめ返す瞳は、まるで水底に映る月のように静かだった。

募る焦燥感を心ごと見透かすように、晃は黙って甲太郎を見ている。

モニタの光に照らされて、その表情はどこか達観した、穏やかな気配を帯びていた。

まるで駄々をこねる子供を見守る母親のように。

これまでに見たどの時よりも、深い慈愛と決意の姿。

それは、どこか決別の寂しささえ漂わせている。

「俺は、もうあの頃の俺に戻りたくないんだ」

話す端から掻き消えていく。

そう感じてしまう本心に、甲太郎はとっくの昔に気付いている。

「お前じゃなきゃダメなんだ、晃」

それでもまだ悪足掻きをするように、力を込めた指先に、晃の瞳がフッと伏せられた。

「甲太郎」

「晃」

―――悪いけど、お前を連れて行くことはできない」

晃、と刹那に甲太郎は悲壮の表情を浮かべた。

やっぱり、という言葉と、聞きたくなかった、という想い。

わかっていた、何かをねだるには、俺はまだ未熟過ぎる。

それでも、もしかしたら―――と、願いを捨て切れなかった。

それすら知っていたかのように、真摯な眼差しが甲太郎を真っ直ぐに貫く。

「なあ、甲太郎、お前は、俺に、依存しようとしているんじゃないか?」

びくり。

壁に映った影が揺れる。

「俺はパートナーとは常に対等でありたいと思ってる、だから、今のお前じゃ相棒にはできない」

「俺は」

「甲太郎」

伸びてきた指先がその頬に触れた。

そのままするりと表面をなぞって、晃は優しい微笑を浮かべていた。

「お前の申し出自体は嬉しいよ、凄く、本音を言えば実はその言葉を少し期待していた」

だからこそ。

その先を紡ごうとする、彼の胸もキリリと痛む。

「甲太郎が本当の意味で俺のパートナーになってくれるつもりなら、喜んでその申し出を受けたいと思う」

「晃」

「でも、今はまだ、俺は一人で行くよ」

ゆっくり顔を近づけて、二度、三度、ついばむようにキスをした。

「このままじゃ、俺にとっても、甲太郎にとっても、きっと良くないから」

「晃」

「けど、そうだな、卒業式の日にでも、またここに戻ってくるよ、約束する」

「この、天香学園に、か?」

「そう、お前に会いに、それと、今日の返事をしに、ね」

それまでたった数ヶ月。

今までの日々を思い返せば、決して長い時間じゃない。

「だから甲太郎、その時までに、ちゃんとおまえ自身の事を考えておいてくれないか?」

「俺の?」

「そうだよ」

本当はこのまま連れていきたい彼の、その手を振り解く行為がどれだけ辛いか。

甲太郎ならきっとわかってくれる。

人生は想像以上に長い。

ここから始まる道を、お前の未来を、俺から離れて、よく考えて欲しい。

扉はすでに開かれているのだから。

その先へ続く道を、今のお前なら一人でちゃんと見誤ることなく選べるはずだから。

「お前は、今すぐ答を出すべきじゃない」

「晃、俺は」

「甲太郎」

もう一度キスをして、晃は笑った。

「俺も約束する、だからお前も約束してくれ、次会うとき、必ず今日の返事をするよ」

お前が出した結論がなんであれ、俺はちゃんと受け入れるから。

見詰め合う眼差しが揺れていた。

お互い、離れがたい掌を離して、その先へ行く勇気。未来への選択。

明日は決してひとつきりじゃない。

そして俺達は、これが永遠の別れなんかじゃない。

一時でも重なり合えたのなら、その先の未来でも、二つの線は必ず交わる。

それは運命なんかじゃない、奇跡でもない、想いの力が引き寄せる必然だ。

これだけ強い絆を結べた、二人が遠く離れたとしても、心はいつだって傍らにある。

この身を抱きしめれば、そこにいつだって互いの温もりが甦ってくるから。

だから、さよならなんかじゃない。

同じ目線で歩き出すための最初の一歩。

カーテンの隙間から忍び込んだ闇が、液晶画面の光に照らされる二人のシルエットを壁際に淡く模る。

深々と静かな冬の夜が満ちていた。

晃の肩に触れる、甲太郎の指先が燃えるように熱い。

それは思いの深さ。願いの強さ。

衣服を通して肌に染み込んでくるように、胸の奥まで温もりが伝わる。

―――敵わねぇなあ」

先に口を開いたのは甲太郎だった。

「お前のその目に弱いんだ、俺は」

おどけた仕草で首を振るので、晃も微笑んでいた。

―――わかったよ」

指先がスッと離れていく。

やれやれとぼやいて、不意に肩をすくめて見せる。

「仕方ない、そこまで言うなら、今はお前の言葉に従うか」

お前の気持ちは、同じだけの熱を持って、ちゃんと俺の中にも届いたから。

なら、今は素直に受け入れてやろう。

それが本気で俺の事を想ってくれている、お前に対する俺の誠意だ。

そう考えられる事が、甲太郎には少しだけ嬉しく感じられた。

いままでありえなかったこと。

晃と出会って手に入れたもの。

言葉だけじゃなく、想いだけでもなく、繋がりあう何か。それは多分―――

「けど」

フッと口元に笑みが浮かんでいた。

結論を出すのはまだ早い、か。

愛しいこの手を放す、ほんのわずかの間、ただ、釘だけはさしておこう。

「俺の考えは変わらねぇからな」

嬉しそうな晃の姿がその答えだった。

情報端末の電源を切り、パタンと閉じるのを見送って甲太郎は背中を向けた。

「じゃあな、俺はそろそろ部屋に戻るぜ」

「ああ、甲太郎」

「ん?」

「最後の別れを惜しんでいくか?まだ時間はあるし、ちょっとだけここで」

振り返ると晃が指先でくいとベッドを指すので、思わずニヤリと微笑んでしまう。

「残念だがそれは次回のお楽しみに、取っておくよ」

「それはそれは」

「そのかわり、その時は容赦してやらねえから、覚悟しとけよ、晃?」

―――お手柔らかに」

艶っぽい表情についもう一度足が向いてしまった。

やはり離れたくない。

けれど、これでお別れじゃないから。

切なく痛む胸に言い聞かせながら、髪に触れ、頬に触れて、唇を合わせる行為が、今まで以上に特別な意味を持つようだった。

それだけで、胸の隅まで愛しさが広がっていく。

「晃」

「ん?」

―――約束、絶対に忘れんなよ?」

無言で頷いて、晃は柔らかい微笑みを返した。

甲太郎は苦笑しながら半歩後退った。

「これ以上いたら本当に惜しみたくなっちまう、俺はもう行くぜ、お前も、また俺に会う日まで、欲求不満で妙な真似しでかしたり、どっかの遺跡で逝っちまうんじゃねえぞ」

「しないし、死なないよ」

「ならいいが」

「でも、お前に会った後なら構わないのか?」

「バァカ、そっから後は俺が一緒なんだ、どちらも起こりようが無いだろう」

何言ってんだと笑う晃の姿をしっかり瞳に焼き付けて、振り切るようにくるりと踵を返す。

これから暫く、思い出だけがお前のいない日々を慰めてくれる。最後の一枚は笑顔がいい。

過去のこと、今のこと、未来のこと、全部ひっくるめて、ちゃんと俺なりの答えを出しておくから。

だから、必ず戻って来てくれ。必ず。

「晃」

ドアを出る直前、背中越しの声がもう一度だけ呼びかけた。

「俺は―――お前と出会えてよかった、この三ヶ月、最高に楽しかったぜ」

「ああ、俺もだよ、甲太郎」

甲太郎の唇に笑みが滲む。晃からは見えない。

「じゃあ、またな、相棒」

「また」

ノブを回して、開いた先は闇だった。

消灯時間をとっくに過ぎて、天井には間隔を置いてポツポツと白色蛍光灯の光が無機質に輝いている。

それは見慣れた夜でも、今夜は特別な景色だった。

その中へするりと抜け出すと、背後で扉はあっけなく閉じてしまった。

これで、本当に、しばらくの間お別れだ。

掌を握ると暖かい。さっきまで触れていた晃の温もりがまだ残っているようだ。

お前がくれたものはちゃんとここに。

だから、俺は大丈夫。

また会う日まで。

会える時まで。

それまで、せいぜいお前に見合うだけのイイ男になっておいてやろうか。

「晃―――また、な」

明日からの日々を思えば確かに憂鬱だけれども。寂しい気持ちも否定はしないけれど。

それでも、辛いとは思っていない。

「必ず戻って来いよ、ここは、お前の居場所なんだからな」

そしてお前こそが、俺の居場所なのだから。

背中を向けた扉の向こう、部屋の中でも、晃が小さく呟いていた。

唇に淡い笑みを乗せて。

「甲太郎、俺も、待ってるぜ」

繋がる想いはその絆分、魂を引き寄せ合ってくれる。

どれだけの時間も距離も飛び越えて、すぐまた触れ合えるだろう。

季節はまだ冷たく凍り付いているけれど、やがて春になり、全ての命が芽吹く頃、俺たちは再び巡り合う。

それこそがあの遺跡で手に入れた二人だけの「真実」なのだから。

 

想いは、途切れることなどない。

 

分割した意味がないほど長くなっちゃったよソーリィ(笑)