「R-style 46」
廊下の反対側から歩いてくる姿に、甲太郎はちらりと視線を向ける。
青い生地に白ラインのジャージを着た生活指導担当の教員は、すれ違う生徒達にいちいち「制服の前はちゃんと閉めろ」「タイが曲がっている」などと鬱陶しい小言を吐き散らしていた。
「うん?」
ふと目が合う。
―――つい一年ほど前までは、何かと確執のあった男だ。
こちらに気づくと途端に表情を青くして、強ばった口元がぎゅっと結ばれた。
甲太郎は何食わぬ顔でそのまま歩いて、すれ違う瞬間、教員が小声で呟いていた。
「この、ゴミめ」
ふと甲太郎の足が止まる。
教員はそのまま通り過ぎていった。
けれど、振り返って見えた背中があからさまに怯えていて、腹の奥底から得体の知れない、ドロドロとした感情が、あの頃のようにこみ上げてくる。
―――アレだけ散々痛い目にあわせてやったというのに、まだわからないのか
―――俺に手本を示そうとした人間が、最後はどうなったのか、覚えていないのか?
―――人の模範となれるほど、ご大層な人間でもないくせに。
グッと拳を握り締めて、双眸にどす黒い炎が燃え上がりかける。
その時だった。
「おっと!」
不意に角から急に曲がってきた人影に、教員はビクッと大仰に震えながら立ち止まっていた。
相手も一瞬だけ驚いた顔をして、直後にすぐ人当たりのいい笑みでニコリと笑う。
姿は晃のものだった。
「失礼しました、先生」
「く、玖隆!廊下を歩く時はもっと周りに気をつけろ、ぶつかったらどうするつもりだ!」
「すみません」
「まったく、貴様といい、どうして我が校には風紀の何たるかを理解しない生徒が多いんだ」
「はい」
「お前も入っているんだぞ、バカ者!」
「すみません」
「まあいい、今後はちゃんと注意するように」
「はい、失礼します」
晃は、素行に多少難はあるけれど、髪も染めていないし、学生服もきちんとボタンを上まで留めて、ご丁寧にカラーまで付けているから、外見的には文句の付け様がない。
靴もきれいに磨かれた革靴を着用している。姿勢も非常によろしい、とどめに、礼儀正しく物腰も丁寧だ。
(まさに模範的、だよな)
自分を省みながら甲太郎は皮肉な笑みを浮かべた。
角を曲がっていく教員に丁寧にお辞儀をして、ふと振り返った顔がニッコリと微笑みかけてきた。
「甲太郎!」
甲太郎はそのまま苛々と口元の金属片を噛み締めている。
様子に気付いた晃は、苦笑いを浮かべながら傍までやってきて「どうした?」と顔を覗き込んできた。
「お前」
「うん?」
「あんな薄っぺらな野郎に、何ペコペコ頭なんか下げるんだよ」
「え?」
無性に腹が立っている。
意味も無く周囲を威圧して、高慢に振る舞って、まるで自身の全てが正しいような顔をしたあの男が。
そして、そんなゲスに顔色一つ変えずに、おとなしく頭を下げたこいつにも。
「教師だからって、服従しているのか?」
嘲笑まがいの笑みに口元を歪めながら、甲太郎は挑むように晃を睨みつける。
「先生の言いつけはちゃんと守らないと?ご大層な優等生様だな」
「どうしたんだ、甲太郎」
「ハッ、別に、ただ俺は少しばかりお前を買いかぶりすぎていたかもしれないと思ってな」
そのままそっぽを向いて、取り出したオイルライターでアロマの火をつけなおす。
脇からフフと、微かに笑い声が聞こえてきた。
甲太郎は再びジロリと振り返った。
「―――何笑ってんだよ」
「いや」
相変わらず余裕の表情に、ますます苛立つようだ。
こいつは何を呑気に笑っている?さっきといい、今といい、腹を立ててしかるべき場面じゃないか。
何故怒らない、理不尽だと食って掛かってこない、少し頭がおかしいんじゃないのか?
す、と手が伸びてくる。
晃の手が甲太郎のアロマを取り上げた。
「なッ」
目を剥いた瞬間。
頬に、キスを。
「っつ?」
ギョッとして硬直した口元に、再びアロマが還ってくる。
晃は柔らかな笑みを浮かべていた。
「お前の、そうやってすぐ熱くなるところ、俺は結構好きだぜ」
「だ、誰が」
「でもさ、怒って突っぱねるばかりが能じゃないだろ」
パイプの端をかじり、間を置いて、甲太郎はそうかよと再び口の端を歪めた。
「なら、お前は特別だって、そういいたいのか、晃」
「違う、そうじゃない」
困ったなあの言葉と一緒に、苦笑いが今度はポンポンと肩を叩く。
「怒るべき時と場所を選んでいるんだよ、別に、腹を立てても仕方ないとは、考えてないさ」
「ご高説は結構だぜ、俺も、お前みたいに割り切れていたら、もう少し違った評価を貰えていたのかもな」
「甲太郎の価値は俺がちゃんと知っているよ」
急に真面目な顔をして、晃の深く濃い緑色の瞳がじっと甲太郎を見詰めた。
「お前は、いい奴だ」
「なッ」
突然の事に驚いて、危うく取り乱しかける。
呑みかけた息を誤魔化して、甲太郎は慌てて踵を返していた。
その腕を、晃が捕らえて引き止められる。
「甲太郎」
ダイレクトに心の奥まで覗き込まれそうな、きれいな瞳。
見詰められたら動けなくなってしまう。
けれど、俺は目をそらす事ができない。そんな事ができたためしは無い。
困惑したままの甲太郎に、静かな声が続けて言った。
「俺は、こういうことに関して、冗談は言わないよ」
「ッつ」
「これでも人を見る目は確かなんだぜ?職業柄、そうでないとやってけないからな」
「何言ってるんだ、お前は」
「俺の言葉を信じなさい」
そのまま、強気の笑みでニッと。
「お前のこと、俺が保証してやるよ、甲太郎はいい奴だ、間違いない」
笑顔がまぶしすぎて、強く腕を振った。
晃の手はあっけなく離れて、甲太郎は今度こそ背を向けてズンズンと廊下を歩き出す。
ドロドロした感情が消えた代わりに、今は痛いような、苦しいような、切ない何かが胸を締め付けていた。
あんなバカな台詞を吐いたのは、奴で二人目だ。
ほの暗い記憶に視界がにごる。それは、今では封じられたものだけれど、心が覚えている。
傷跡は消せない。
俺はいい奴なんかじゃない。
「甲太郎!」
呼びかけに振り返ることもできなかった。
恐ろしくて―――いつだって逃げ出す事しかできない。
俺は卑怯だ。
なのに、そんな奴が『いい奴』であるはずないだろう?
どうか、そうだと言って、否定してくれ。
お前の方から拒んでくれ。
「そんなバカな台詞をッ」
軽々しく口に出すものじゃない。
あの生活指導の教員が吐き捨てたみたいに、所詮価値のないクズなんだ。
踏み出す端から痛くて、パイプを噛み締めていた。
(知っている、だと?)
そんなもの―――
けれど、それ以上の言葉を甲太郎は噛み潰して消した。
晃の想いを汚してしまいそうで、代わりに何も言えなくなった唇をぎゅっと結ぶ。
鬱積した学園の闇が凝り固まった廊下は酷く長すぎて、どこにも逃げ場など見つけ出せそうもない。
それでも、向かう先の定まらない道を、ただひたすら歩き続けることしかできなかった。
(了)