「R-style 47」
漆黒の背中はコートの端をひらりと翻して、門の向こう側へと抜け出していた。
ここは、卵の殻の外の世界。
神の眠る箱庭は、いまだ静寂に包まれている。
夜の空気を吸い込んで、吐き出した息はすぐに白く凍り付いてしまった。
「こんなときに行ってしまうの?」
闇からの呼び声に、晃は振り返る。
「双樹」
「咲重でいいって、何度も言っているのに」
つれない人ねと微笑んだ、その姿は本当に寂しそうだ。
天香学園は深く重い気配に沈んでいた。
草木も眠る丑三つ時だから―――というだけが、その理由の全てでは無い。
2004年、12月24日、午後**時頃。
原因は目下調査中ではあるが、どうやら地下にかなり巨大な空洞が存在しており、それが何らかの外的要因を得て、上部天板であった地表が陥没したらしいとの事。
怪我人は数名、死者2名。
校内で、いち早く地下の空洞に気づき、調査に向かっていた生徒会会長と、副会長、名前は―――
「あの方は、元からそういうつもりでいたらしいわ」
喪服に身を包み、常時は緩やかに躍らせている緋色の髪をアップにまとめて、咲重は弱々しく微笑んでいた。
「だから、予想される事後のあらゆる対処法を、ちゃんと書き記して千貫さんに手渡してあった、覚悟して逝かれたのよ」
「阿門らしいな」
口元は笑っているのに、晃の目の色は暗い。
今、鉄格子の門を挟んで二人。
肌を裂く北風が、それぞれの衣服の裾や髪を微かに揺らしながら吹きぬけていく。
滅びゆく神と共に、失われる自身の使命を嘆いて、墓守の長は自ら冥府への道を選んだ。
そして、あんなにも混沌の底から抜け出したいと足掻いていた彼の手を、晃は捕まえる事ができなかった。
墓は崩れ、運命は死んだ。
2つもの尊い輝きを飲み込んで、太古の想い出は静謐の眠りについた。
ここにはもう何も無い。目の前に広がる世界も、すでにただの灰色の学舎だ。
過去の叡智も、重苦しい気配も、特異性も、高圧的な統治集団もいない、該当年齢の子供達を受け入れて、一定期間教育を施し、送り出していくだけの機関。
本来この地にいるはずのない、晃を引き留めるものは、本当にもう何も無い。
皮肉だなと呟いて、コンクリートを蹴った。
必至に連れ帰った白岐も、今は都立病院のベッドに沈む眠り姫だ。
目覚めの日は、誰にもわからないらしい。
「結局、俺はここに何をしに来たんだろうな―――秘宝は見つからなかったし、墓地から続くあの場所にももう入れない、任務は失敗で協会からペナルティも喰らっちまった、それに」
俯きながら、フッと笑う。
「あいつももう、いない」
「晃君」
「双樹にも悪い事をしたな、あの馬鹿、二人とも縛り上げてでも連れて帰るつもりだったんだが」
蘇る最後の瞬間の光景に、掌をきつく握り締める。
気づいた咲重が気遣うように、門に一歩近づいていた。
気配を察して、晃は顔を上げると、一歩後退りをした。
「ごめんな」
「貴方が謝ることじゃない」
「ああ、そうだろうな、きっと、でも謝らせてくれ、この通りだ」
月のない、星明かりだけ輝く寂しい景色の中で深く頭を下げる姿に、咲重はまた悲しげな笑みを浮かべる。
胸に突き刺さる想い出は、多分同じだけの痛みを貴方にも与えているはずなのに。
(貴方は、優しすぎるから)
私が生まれて初めて、本当の意味で愛した男。
そして、今も愛している男。
けれど、その手を掴むのに、私はあの方に捕らわれすぎている。
そして彼の心に穿たれた虚無は、私ではとても―――埋める事ができない。
姿がまた一歩遠くなる。
離れていく様子が切なくて、もっと門に近づこうとした。
できることならこのまま外へ―――
一人きりで過ごすのに、この学園は広すぎる。どこにもあの方の影が残りすぎている。
「私も連れて行って」
かすかな声に、晃は間を置いて、緩々と首を横に振った。
「―――わかっていたわよ」
咲重は笑う。
泣き出しそうな想いを、グッと胸の奥に秘めて。
「ちゃんとわかっていたわ、だから、今の言葉は忘れてちょうだい」
「すまない」
「謝らなくていいって、言ってるじゃないの」
それきり黙り込んでしまう。すっかり擦り切れてボロボロの、軍用コートの端が風に攫われる。
髪をといて同じ様に夜風に遊ばせて、咲重は深く息を吸い込んだ。
「お別れなのね」
「ああ」
「元気で―――月並みだけど、私が贈る最後の言葉よ」
「肝に銘じておく」
「ねえ、晃君」
優しい貴方に、もう一つだけ、私の最後のワガママを。
「私の事、一度だけでいいから、名前で呼んでくれないかしら」
けれど、晃はそのまま後ろを向いてしまう。
また俯く背中が、不意に笑うように揺れていた。
「―――咲重」
夜闇に響く。
「俺は、ラベンダーの香りが、嫌いだ」
ひときわ強い風があたりの木立や彼らの衣服を揺らして、押されるように一歩踏み出した。
遠ざかっていく姿を見送る事しかできない。
咲重は、その場に立ち尽くしていた。
目の前にあるのはただの鉄製の扉だというのに、夜の闇が果てしなく二人を隔てているようだった。
この虚無を抱えたまま、私達は生きていくしかないのだろう。多分、永遠に。
「でも、晃君、貴方の方がきっと―――可哀想だわ」
かつて温室に立ち尽くしていた姿には、心を慰める香りがあった。
けれど彼には―――
それ以上あえて考えないようにして、咲重も背中を向けると、歩き出していた。
離れた距離は二度と縮まる事なんて無いのだろう。
私達は二度と会わない。貴方も、もうここへ来る事は無い。
それがわかっていても悲しくて、涙が止まらなかった。
明日、皆に聞かれたらなんと答えようと、そのことばかり考えていた。
ヒールの足元がふらつく。
もう見えなかったけれど、駆けていく晃の足音が聞こえてくるようだった。
甘くて辛い、追いすがる日々を振り切るように。
思い出に追いつかれないように、早く、もっと早く―――
そうして彼らの闇は、愛した人々の中に永久に消えない傷跡を残す。
忘れられない名を抱いたまま生きる事が望みであったのかは、もはや知る術も無い。
全ては墓地に、葬られた。
(了)