「R-style 7」
ゆらゆらとした水面の合間から浮き上がってくるように、目覚めは突然訪れた。
見開いた瞳の先、見覚えのない、けれど知っている景色に一瞬意識を飛ばして、ようやくここが自室で無い事を把握する。
シーツを掻き分けてごそごそと半身よじると、すぐ目の前にまだ寝息を立てている甲太郎の姿を見つけた。
閉じた睫の長さや、鼻梁の高さ、薄く開いた唇をしばらく眺めて、晃はフッと微笑んでいた。
「甲太郎」
呼び声くらいでは彼は起きない。
そんなことは知っている。最近得た彼に関しての知識の一つだ。
腰を抱く腕を持ち上げながら、上半身だけ起き上がると不満げな呻き声が上がる。
「甲太郎」
今度は肩を揺すってみる。
「甲太郎、朝だ、起きないと」
甲太郎は獣じみた声で応じながら、片腕を回して抱き寄せた頚椎の辺りに額を押し付けた。
「眠い」
「ダメだよ、起きろ」
「嫌だ」
「嫌じゃない、起きなさい」
うるせえなあと毒づかれて、晃は急に態度を変えた。
強制的に腕を取り除き、ベッドサイドに両足を下ろして立ち上がろうとすると、伸びてきた両腕が背後から抱きしめて邪魔をした。
「まだもうちょっとだけ寝てようぜ、なあ」
「お前のその癖はちょっと直した方がいいぞ、俺は学校に行くんだから、この手を放せ」
「うるさい」
「うるさいじゃない」
腕を振り払おうとした途端、唇が首筋に吸い付いてくる。
まるで子供がイヤイヤをするように、甘えた仕草で何度か繰り返されて、晃はやれやれと呟きながら寝ぼけ男の頭を数回ポンポンと叩いてやった。
「ほら、俺は部屋に戻って着替えてくるから」
「何だよ晃、お前いつからそんな真面目になったんだ」
「俺は元々真面目だよ」
今度こそ両腕の拘束から逃れて、立ち上がった晃はいまだ下肢を覆う微妙な倦怠感に顔をしかめつつ、両足の具合を確かめてみる。下腹部に残る気だるさに腰をさすり、小さく息を吐いた。
「じゃあ、支度が終わったらまた来るからな」
支えを失った甲太郎はばったりベッドに倒れたまま、唸り声を上げて少しだけ動いた。
晃は軽く溜息を吐いて、辺りに脱ぎ散らかされたままの部屋着に袖を通し、手早く身なりを整えた。
最後にちらりと彼の様子を窺って、そのままさっさと部屋を出て行ってしまう。
ドアの閉まる音を合図に、取り残された甲太郎はむっくりと起き上がっていた。
チッと軽く舌打ちして、そのまま壁に背中を預ける。
つい今さっきまであんなに甘やかな夢を見ていたというのに。
こんなとき、つくづく時は非情だ。
幸福な瞬間も、大切な何かも、あっという間に攫っていって、俺一人だけ置き去りにしていく。
すぐ傍の卓上に載せたままのパイプから吸い指しを抜き取り、新たに紙巻をはさんで火をつけた。
一吸いすると、ラベンダーの香りと共に朝の気配が流れ込んでくる。
さっきまで晃が寝そべっていた、その辺りを軽く掌で探って、つい溜息が漏れていた。
「―――まったく」
こんなに感傷的なのは俺の趣味じゃない。
瞳を閉じると昨夜の情事が思い出されてきて、それだけで満たされてしまう自分に正直呆れてしまう。
「晃」
名前を呼んでも、今彼はここにいない。
けれど、もうほんの少しすればまた姿を見せるだろう。
支度をしたらまた来ると言っていた、その時まだこのままでいたら、あいつは怒るだろうか?
「怒るだろうなァ」
呟いてみて、甲太郎は笑っていた。
胸を満たすこの香り。懐かしいあの頃の、そして、重すぎる香り。
どういう意図があってのことかは知らないが、俺なんかに必死になる人間がまた現れるとは思いもよらなかった。
それでもあの頃はまだ、世界のどこにも、輝かしいその名を冠した想いの存在すら信じる事ができなかった。結果、俺はただ一人、暗闇の中に取り残されてしまった。
あれからまた時は気だるく流れ、結局荒涼と荒れ果てた砂漠のようなこの胸を満たす事ができた人間はただ一人だけ、しかも、同性なのだから笑ってしまう。
「やれやれ」
甲太郎はベッドサイドに両足を下ろした。
クロゼットを開き、アロマを灰皿に戻してから手早く着替えに取り掛かる。
今だってまだ眠くて仕方ないのに、多分晃は許してくれないだろう。
怒って不機嫌になられて学校まで引きずられるのだったら、ここはあいつの言葉に従っておいたほうがいい。
どのみち、授業に出るつもりも無いし、眠るだけならどこでもできるのだから。
シャツを着て、制服のズボンのベルトを通し、ジャケットを着込んで靴下を履いているところでドアがノックされた。
「甲太郎、入るぞ」
耳障りのいい声。
オウと答えると、ノブが回り、すっかり身なりを整えた晃が部屋に入ってきた。
「なんだ、まだ着替え終わってなかったのか?」
「靴下だけじゃねえか、けちけちするな」
履き終わってよしと言うと、鞄はと聞かれた。
「ここにある、いつでも行ける」
「なら、さっさと行こう」
さっきから晃は時計ばかり気にしているようだった。
色気もへったくれもあったもんじゃない。
つまらなくてアロマを咥えると、伸びてきた指がそれを取り上げた。
「おいおい」
何するんだと言う直前、甲太郎の言葉は止められてしまう。
重なった唇の感触が柔らかくて、思わずうっとりと目を閉じていた。
「ほら」
離れた視線の先、柔らかな笑顔がアロマを戻す。
「じゃ、行こう」
「おう」
振り返って時計をちらりと仰ぎ見ると、まだ7時半、起床している事がまるで奇跡のような時刻だった。
「ああ、眠い」
大あくびの甲太郎に、ドアの先で晃が笑う。
「甲太郎、早く来い」
背後から廊下の窓を通して日の光が差し込んでくる。
輪郭を縁取られて、輝く姿はまるで朝日のようだった。
陽光香るお前。
暗がりばかりの足元が、傍にいればよりはっきり見えてくる。
甲太郎もいつのまにか笑みを浮かべていた。
「ああ」
部屋の外は早朝の気配に満ちていた。
心毒が抜け出していくようだ。
そういえば、朝日には浄化作用があるとかないとか、昔聞いたような気がする。
「まあ、俺には過ぎた薬だな」
「何のことだ?」
何でもないと言って甲太郎は笑った。
「晃、飯買ってくぞ、どうせお前もそのつもりだろう?」
「ああ、空腹すぎて目眩がするよ」
「まあ、昨日あれだけ暴れたらな」
「待てよ、それはお前だろう?少しは俺のことも気遣ったらどうだ」
「若さゆえの暴走だ、許せ」
なんだとと睨みつけてくる、その視線すら愛しい。
だから甲太郎は、周囲に人気のない事をよく確認してから、こっそり晃に耳打ちしたのだった。
「今夜もまた、俺に会いに来いよ?」
バカ、と殴られて、晃は照れている。顔が赤い。
こんな日々も悪くないじゃないか、ちょっと妙ではあるけれど、愛しい毎日。
朝日がやけに目に染みるようだった。
(了)