「お飲み物は何になさいますか?」
「紅茶を」
「かしこまりました」
受け取ったカップの表面を何度か吹いて、唇をつける。
飲み込めば、胃の中に流れ込む暖かな感触を覚えて、ため息を吐くと同時にHANTから呼び出し音が小さく鳴り響いた。
玖隆は通信用のイヤホンとマイクを引き出して、機能を直接通話に切り替える。
「Hallo」
「OH!meine lieben Sohn!」
再びため息が漏れる。
「―――Hi , What is the matter?」
「Es ist, der Sohn herzlos」
「ハイハイ、meine lieben Vater」
「Gut , Wie geht es dir?」
「元気だよ、それより、いきなりどうしたんだ」
うん、うんと、イヤホンの向こうで嬉しそうに頷く声が何度か響く。
「今日、日本を発つと聞いてね、可愛い君の二度目の大仕事の後だ、居ても立っても居られなかったんだよ、それで、首尾はどうだい?」
「ハア、その調子で今後も通信してくるつもりか、勘弁してくれ」
「そうつれない事を言わないでくれ、それに、君、初任務はサハラの真ん中で危うく行き倒れるところだったそうじゃないか」
僕は本当に生きた心地がしなかったんだよと、受信口から聞こえる声に、玖隆はやれやれと肩をすぼめる。
「そんな話まで伝わっているのか」
「僕の情報収集力に感心したかい?」
「いや」
「素直じゃないなあ、それにね、迦奈もとても心配していたよ」
「嘘つけ」
「僕は君に嘘などつかない」
「いいや、少なくともアルほどじゃないだろう、あの人はそんなタイプじゃない、むしろ、当然くらいに思われていたんじゃないのか?」
「晃―――」
ため息が響く。
「それでも僕等は、君を心配するんだよ」
思わず笑みが漏れた。
玖隆は、受信マイクに向かって小さく「Danke」と囁きかける。
「それで、首尾は?」
「上々―――と、言いたいところだけど、余り大した手柄は上げられなかったな」
「Mrゲンドーのことだね?」
「早耳だね、お調子者の新人がへましたって、もう噂になってる?」
「違う、僕は個人的に、君の情報を集めている」
「そりゃ、どうも」
「晃、失敗は、記憶にとどめておくべき事柄だが、悔やんだり足止めを食らう理由にはならないぞ、そんな事は愚か者のすることだ、僕は君が愚かじゃない事を知っているし、君の実力があれば、これから幾らだって手柄を立てられると確信している、大切なのはちゃんと前を向いていること、それだけだ」
「建設的だな」
「僕を誰だと思っている、それより晃、僕はそんな話を訊きたいわけじゃない、そもそも君の仕事なんて協会を通じて幾らだって情報は入ってくる、僕は、君からしか聞けない収穫を訊きたいんだ」
「随分長い前置きだ、それで、アルの知りたい収穫っていうのは?」
イヤホンの向こうで、気配が僅かに笑ったような気がした。
「友達は、できたのかい?」
―――玖隆の胸元で、チェーンに通したリングが光る。
「まあね」
気持ちは伝わっただろう。
「そうか」
嬉しげな雰囲気が答える。
「それは素敵だ」
「うん」
「男の子かい?それとも、女の子?」
「両方だよ、でも、一番大切な人は、男だ」
「彼はどんな人なのかな?」
「そうだなぁ」
鮮烈な赤と、暮れなずむ藍、その間に佇む、僅かに寂しげで、けれど、清々しく微笑む別れ際の姿を、玖隆は思い出していた。
「一言で表現するっていうのは、当然できないな、そう―――天邪鬼、負けず嫌いで意地っ張り、いじけやすくてプライドが高くて、喧嘩になるとすぐに手が出る、おまけに秘密主義で、甘ったれの、自分勝手な奴だ」
「おいおい」
「けれど―――優しい、それに、とても繊細だ」
「それが、君の大切な人なのか?」
「ああ」
受信口の向こうが閉口する。
「あとね」
玖隆は、また少しだけ笑った。
「これが一番のチャームポイント、彼には、可能性があるんだ」
「可能性?」
「そうだよ」
あのまま、埋もれてしまうには、あまりに惜しい輝き。
「けど、彼自身は多分そのことに気づいていない、でも、俺は知っている、アイツはその気になれば、どんな願いも現実にできる、それだけの力を秘めている」
人間には各々分というものがあるそうだけれど、そんなものはどこかの負け犬が言い出したデタラメだ。
願い、歩めば、どんな理想だって、現実に近づく。
アイツが自分でも気付いていなかった胸の奥の願いが、俺たちを引き合わせたように。
「願えば、何だって叶う」
それはこの身を持って証明した、揺るがない事実。
「そうだろう?」
間を置いて、イヤホンから微かに笑い声が響いた。
「そうか―――晃、君は何ものにもかえがたい、最高の宝を見つけたようだね」
飛行機が離陸して、まだ三十分程度しか立っていないけれど、アイツは今頃どうしているのだろう。
日本は夜だから、寝ているかもしれない。
それとも。
「そうか」
声が繰り返す。
「なかなか、立派な宝探し屋じゃないか」
玖隆は笑った。
「君は、もう君だけの道を歩み始めていたんだな」
「それは十四の頃から、とっくだよ」
「フフフ、僕は君が可愛いから、どうしても過保護になり過ぎてしまうよ」
そうしてイヤホンの向こうから、優しい響きが呼びかける。
「晃」
「何?」
「―――君に、秘宝の加護のあらんことを」
「ああ」
「君の大切な彼にも、僕は同じことを願う」
「有難う」
「最後に一つだけ、食事は可能な限り、三食きちんと食べるように」
「はいはい」
「ではね、Alles Gute , Akira」
「Ja , Mach’s gut」
イヤホンからの音声がプツと途切れる。
玖隆はHANTの機能を再び切り替えて、電源をスタンバイに落とすと、画面を閉じた。
そして窓の外に視線を向ける。
この闇の向こう、今はまだ見えないけれど、遙か彼方で銀色の夜明けが待っているのだろう。
日本国東京の、子供ばかりが暮らす小さな箱庭で手に入れた、ささやかな奇跡。
(その価値は、俺だけが知っていればいい)
目を閉じればすぐに彼らの笑顔が浮かび上がるようだ。
その中にはいつでも、一際輝く愛しい姿がある。
シートに深く凭れて、指先でリングに触れながら、玖隆は遠く離れゆく友にそっと微笑みかけていた。
「未来が、俺たちのこと、両手を広げて待ち構えているぞ、甲太郎」
機体は静かに、暗闇の中を進んでいく。
その先に見据える明日の気配を確実にたどりながら、渡り鳥の翼は風を切り、真っ直ぐ彼方へ羽ばたき続けた。