「なァ、晃、これからちょっと噂の倶楽部に顔を出してみないか?」
着替えが終わった直後、皆守からの提案もあって、二人は電算室へ赴いた。
彼のほうから申し出てくる意外性に少し驚いたりもしたけれど、皆守もそれだけ腹に据えかねているのだろう。
さっきから妙に苛々すると、胸の内を語ってくれた。
彼も八千穂を友達だと、そう思っているのだろうか。
―――俺のことも?
放課後の人波を縫って廊下を歩き、電算室の扉を開けた。
今日は集会を行っていないようで、辺りに人影らしきものは見えなかった。
「ここか、ここで一体どうやってウィルスを」
呟きかけた皆守の声を打ち消すように、甲高い少年の声が響く。
「ようこそ隣人倶楽部へーッ」
振り返った二人の目の前で、パソコンの向こう側からゆっくり巨体が立ち上がった。
大きい。
背丈もさることながら、その体躯の見事さは横綱級だ。いや、もっとかもしれない。
「ここは神の牧場、誰もが等しく救われる権利を持つ場所でしゅ」
玖隆と目が合った途端、男子生徒はアッと声を洩らした。
「あれー?キミは確か、お昼に会った、そうでしゅ、結局お名前を聞き損ねてたんでしゅ」
「晃、お前こいつと知り合いなのか!」
皆守が驚いた様子で振り返った。
晃も―――あらかた予想はしていたけれど、やっぱりという思いと、こいつがという思いが胸の内で交錯していた。
昼休み、売店の前で泣いていた巨漢の男子生徒。
やきそばパンを買い損ねたと、悲しげに訴えていた彼に、ちょうど持ち合わせのあった分を分けてやった事を思い出す。
今朝方、探索の時にでも食べようと買っておいたものだった。
別にたいした事をしたとも思わなかったので、名前も名乗らずその場を立ち去ったのだった。
けれど、その際男子生徒が口にした不気味な言葉―――悪い心を吸い取ってあげると言っていた、それで、ピンと来て、けれど確証が持てなかったから、モヤモヤした気分をずっと持て余していた。
今ここで彼と会ってしまって、予測していた最悪のピースが一連の騒動の絵にはまる。
誰かと尋ねられて、皆守が玖隆と自身の名前を名乗った。
「そうなんでしゅか、じゃあ、八千穂たんがどこにいるか知らないでしゅか?放課後のセミナーが始まっても姿を見せなかったのでボクも心配してたでしゅー」
「それじゃあ、お前が」
皆守の視線に険が混ざる。
「ボクは3年D組の肥後大蔵でしゅ、ここで隣人倶楽部という集まりを主宰してるでしゅ、良かったら君たちも今度セミナーに遊びに来るでしゅ」
肥後の言葉に、後ろ暗い所は何も無い。
そらとぼけているだけなのかもしれないけれど、少なくとも昼間、売店の前で出会った彼はそんな器用な真似ができるようなタイプには見えなかった。
玖隆は困惑して、じっと様子を伺っていた。
八千穂が『やり方を間違えてしまっただけ』と言っていた、彼の真意が知りたい。
彼は執行委員としてこんな騒ぎを引き起こしているのだろうか。
俺を陥れるために?
それとも。
「肥後とかいったな、お前の目的は、一体何なんだ」
「何のことでしゅかー?」
「人を集め、ウィルスをばら撒き、お前は何をするつもりなのかと訊いてるんだ」
「ウィルスなんて酷いでしゅ、あれは神の光なのでしゅ」
憤慨したような肥後の様子に、今度は皆守も閉口してしまった。
まるで訳がわからないといった二人の様子に、庇護は熱心に自分の主宰する倶楽部について語り始めた。
彼の能力は、どうやら電磁波を媒介にして伝わるものであるらしい。
パソコンのモニタを覗き込んでいると、肥後の放ったウィルスが電磁波に乗って対象物に付着し、徐々に精力を吸い取っていく。
瑞麗教諭がウィルス自体の生命力はあまりないと言っていたから、それを定期的に散布するための集会だったのだろう。
「ボクはただみんなに幸せになって欲しいだけでしゅよ」
肥後は穏やかに笑う。
その様子に邪な感はない。
「汝の隣人を愛せ、みんながみんなのために心を開いたら、きっとみんな一緒に幸せになれるでしゅ、そうじゃないでしゅか?」
振られて、玖隆は眉間を寄せていた。
彼の言葉はある意味では正しい。
けれど、決定的に間違っているとも思う。
「どうしてそんな顔するでしゅか?」
肥後が急に悲しげに表情を歪めていた。
「どうして」
―――彼が、失ったものはそれなのだろうか。
取手が、椎名が、朱堂が、同じように失っていたもの。大切な思い。
八千穂の件に関して、 肥後は許せないと思う。
いくらその気が無くても、犯してしまった罪なら償わなければ。
けれど怒りに任せて拳を振り上げる気を、今の玖隆は失っていた。
何故だか解からないが、ひどく悲しい。
善意の想いが空回りをしている。そして最大の悲劇は、彼がそれに気づいていないということだ。
「お前の言っている事は詭弁にしか聞こえない」
皆守が冷たく言い捨てる。
「お前のいう事に従って、八千穂は結局どうなった?衰弱しきって保健室に担ぎ込まれただけだ」
「う、ウソでしゅ!」
「嘘じゃない」
こういうとき、彼の冷静さが僅かに羨ましいと思う。
俺はまだまだ甘い。あれほどの怒りを覚えておきながら、心のどこかで肥後を許そうとしている。
辛辣な言葉を浴びせられて、肥後は激しく動揺しているようだった。
元々多汗症であるらしい彼の表皮から大量に汗を噴出している。
「八千穂たんに、そんなに悪い心がある訳ないのでしゅ!八千穂たんは、八千穂たんは、やち―――」
不意に、瞳がドロッと濁った。
「―――八、八稚女の最後の一人を救うため、須佐之男命は八塩折を作り、八握剣を持って八俣遠呂智を退治したのでしゅ」
うわ言のように漏れた言葉。
古事記の、八俣の大蛇の下りだ。
ではやはり―――そうなのだろう。間違いなく。
肥後はすすり泣いていた。
辛い現実に耐えているかのように。
失くしてしまった何かを悲しむように。
「八千穂たんの近くにいると何かを思い出せそうな気がするのでしゅ、玖隆君、キミは、ボクの大切なものを奪いに来た悪い転校生なんでしゅか?」
玖隆はようやく口を開く事ができた。
「―――違う」
涙の滲んだ小さな瞳がスッと細くなった。
「玖隆くん、キミからも、何か懐かしい匂いがするのでしゅ」
「お前、やはり執行委員か」
皆守も感づいたようだった。
「それが何故こんな真似をする?そもそも八千穂が何の校則を犯したっていうんだ」
「ボクは、ボクはただ、みんなを幸せにしたいだけなんでしゅ!」
必死の形相で肥後が叫ぶ。
「みんなから嫌な心を集めれば、この学園がもっとよくなって、みんなが幸せになるってあの仮面の人が」
「仮面の人?」
玖隆も、思わずまじまじと肥後を見ていた。
―――何だ、それは。
目の前の巨漢は自身の失言に慌てているようだった。急に視線をそらして、唇を固く結んでしまった。
「肥後」
玖隆の呼びかけに、ビクリと両肩が震える。
「それは一体」
その時、夕暮れに染まった電算室に、下校の鐘の音が鳴り響いていた。
思わず閉口する玖隆と皆守を見ながら、肥後はどこかホッとした表情を浮かべていた。
「下校の鐘でしゅ」
皆守が舌打ちを洩らす。
「一般生徒は早く帰ったほうがいいでしゅよ」
タイムリミットだ。
訊きたい事はまだまだあったが、この際仕方ない。どうせ―――肥後とはあの場所で会うのだろうから。
この学園地下広く広がる遺跡の奥で。
踵を返そうとした玖隆の背中に、不意に肥後が声をかけてきた。
「玖隆君、キミは、汝の隣人を愛する事ができるでしゅか?」
「―――ああ」
実際、愛というのがどういったものなのか、はっきり口に出して説明などできない。
それでも、愛し、愛された記憶は、この体と心に深く刻まれている。
その全てが消えてしまわない限り、俺は何度でも人を愛することができるだろう。
肥後は背中越しに、キミの悪い心が今夜は騒がない事を祈っているでしゅと呟いていた。
「もしもキミがあの場所に来てしまったら、ボクは、キミを―――」
「行こう、晃」
皆守が先に歩き出しながら横目で玖隆を窺った。
「このままここに留まったんじゃ何が起きても文句は言えない、それが生徒会の法だからな」
二人は揃って電算室を後にした。
扉を抜ける瞬間、僅かに振り返ると、逆光の中、肥後は立ち尽くしたままだった。
「まったく、黒い砂だの仮面野郎だの、一体執行委員はどうなってるんだ」
並んで歩きながら、皆守がぶつぶつ文句を言っている。
管理される側の意見としては至極まっとうなものだろう。こんなに騒ぎばかり起こされていては、自治団体も何もあったものではない。
玖隆は最後に見た肥後の様子と、八千穂の加減が気がかりで、そのことばかり考えていた。
今夜は遺跡に潜らなくてはならない。
きっとそこで、肥後は待ち構えているのだろう。
魂の開放とか、人助けだとか、そんなつもりはまるでなくて、これはあくまで仕事の延長線上なんだと言い聞かせようとしても、納得しない自分が心の隅で拳を振り上げている。
何を自惚れているんだと、自嘲的な笑みが浮かびそうだった。
俺はただの宝捜し屋で、この場所には、依頼があって訪れただけだというのに。
「晃」
呼ばれて振り向いた。
皆守がこちらを見ている。
「お前、やっぱり今夜も行くのか?」
「―――ああ」
そうか、と呟いて、口元でアロマの煙が揺れた。
漂ってくる甘い香りが、今日一日で疲れた精神を癒してくれるようだった。
「まァ、お前みたいな奴は止めるだけ無駄なのかもしれないな、気が向いたら俺にも声をかけろよ、ベッドに入る前なら付き合ってやらない事も」
「その事だけど」
思わず口走って、玖隆は言葉を切った。
「何だよ」
「―――いや」
「気になるじゃねえか、はっきり言え」
ずっと胸にわだかまり続けていた、感情がはけ口を求めている。
これは、彼らに言うことじゃないとわかっていたけれど、言わずにいられなかった。
足を止めて玖隆は皆守を真っ直ぐに見詰めた。
「お前と明日香ちゃんと、黒塚と、三人には今後俺の仕事に口出ししないで欲しいんだ」
「―――急にどうしたんだよ」
「俺は、責任の取れないことはしたくない」
八千穂は自分と関わったから、こんな目にあってしまった。
バディの契約を結んでしまったから。一緒に遺跡に潜って、生徒会に目をつけられてしまったから。
俺なんかと知り合ってしまったから。
仕事先での行動は素早く、迷わず、正確に、そして隠密性を第一とする。
なら今回の俺は落第点だ。
あっさり素性が割れて、おまけに民間人を危険に巻き込んでしまった。
これ以上こんな事があってはいけない。
俺は、俺のせいで、大切な人たちを失いたくない。
「バディの契約も無しにしたい、今後一切俺に関わらないでくれ」
「何考えてんだ、お前」
「頼む、甲太郎、もうこんなこと嫌なんだ」
誰も傷ついて欲しくない。八千穂にも、黒塚にも―――お前にも。
皆守は何か考えるような顔をして玖隆をじっと見詰めていた。
咥えていたパイプを下ろして、フウと溜息を漏らす。
「まあ、お前がそう言うなら、俺は構わないさ」
ズキリと胸の奥が痛んだ。
この痛みすら傲慢だ。俺には、少なくとも彼らの事で勝手に傷つく資格すらない。
「けどな」
黒い瞳がスッと細められる。
「八千穂はきっと納得しないぞ、黒塚も、お前がなんと言おうと、これからも付きまとってくるだろうよ」
玖隆はうな垂れていた。
それでも、俺は一人でなければならない。
元執行委員だった取手や椎名、朱堂などはまだいい。けれど、八千穂や黒塚、それに皆守は、自分の身を守るだけで手一杯だろう。そんな彼らをこれ以上守り続ける自信が無い。
「おい、晃、何で急にそんな事言い出したんだ、まさか八千穂のこと、自分のせいだとか思っちゃいねえだろうな?」
返す言葉も無くて俯いたままの姿に、やれやれと溜息交じりの声が漏れていた。
「あのな、あいつが倒れたのも、あの倶楽部に首を突っ込んだのも、全部八千穂自身の責任だ、ヤバけりゃ逃げればよかったんだし、無理強いされたわけでも無いだろう?あいつが望んで関わって、こんな結果になっちまっただけだ」
ラベンダーがふわりと香った。
「お前が責任を感じる必要は無い、それこそ、自分が特殊だからって、自惚れてるんじゃないのか?お前にいちいち心配してもらうほどあいつらはヤワじゃないさ」
玖隆は顔を上げる。
夕日に染まった皆守が、瞳に優しげな気配を漂わせてこちらを見ていた。
「仲間に引き込んで危ない目にあわせて、悪いって思ってるなら、今更突き放したりするな、そんなことされて黙っていられるような奴らじゃない、ここまで来ちまったなら、最期まで面倒見てやれ、それがお前の責任だろう」
「甲太郎」
チッと舌打ちを洩らして、何言ってんだかな俺はと、後頭部をガリガリ掻き毟る。
「とにかく、今更無かったことになんてできないんだ、バカなことばかり言ってると、お前、本当に見限られちまうぞ」
「それは―――友達だから、か?」
皆守は僅かに瞳を見開いた。
そして急にそっぽを向くと、何も言わずに歩き出した。
「甲太郎」
「早くしろ、いつまでも残っていると、処罰の対象になるぞ」
立ち尽くしたままの玖隆から数歩離れて、先を行く足元が不意に立ち止まる。
「汝、自身を愛するが如く、汝の隣人を愛せ、だったか」
斜め横を向いた口元の、パイプの先だけが見える。
「―――お前はそれができるんだろう?だったら、そうしろよ」
玖隆の胸の奥で、わだかまっていた何かが溶けていくようだった。
再び歩き出す皆守の後姿を見送りながら、胸元にそっと指先を這わせる。
目先の恐怖に捕らわれて、俺は大切な事を見逃していたのかもしれない。
想うだけが愛じゃない。
想い、想われる事が、そしてなにより、それを信じる事が、最も大切な愛情の形じゃないか。
俺を信じて力を貸してくれる彼らを、俺が信じなくてどうするんだ。
玖隆は両手で頬をパンと叩いた。
そうだ、しっかりしなければ。
八千穂のこと、肥後のこと、仕事のことも、やるべき事は山積みに目の前にある。
こんなことでいちいち動揺している場合じゃない。
皆守の背中を追いかけて、追いつきながらドンと平手で叩いた。
「って!」
憤慨して振り返った顔に、ニッコリと笑いかける。
「サンキュ、変なこと言って悪いな、忘れてくれ」
皆守は一瞬何か言いたそうにして、すぐアロマで口を塞いでしまった。
どこか照れ臭いような横顔を、玖隆も僅かに頬を染めながら見詰め返す。
「さっそくだけど、今夜もよろしく、あてにしてるんだから、ちゃーんと頑張ってくれよ?」
「ふざけろ、俺は寝るんだ、お前なんかに付き合うか」
「さっきベッドに入る前ならって言いかけてたじゃないか」
「今日は帰ったらすぐ寝るんだ」
「なら、俺の部屋に引き止めてやるよ、夜まで寝ないように見張らせてもらう」
「ばっ、バカ野郎、ふざけんなッ」
アハハと笑う声が廊下に響いていた。
夕日に染まった長い影が、二人の後を追いかけた。