自室で思案に暮れる、玖隆晃の姿は、七瀬月魅のままだった。
あの後予想通り七瀬は図書室に隠れていて、玖隆が現れた途端、ひどく安堵した声だけが扉の向こうから聞こえてきた。
同時に現状を不安がっていたので、励ますと、大分落ち着いてくれたようだった。
少し前にメールが届いて、彼女は女子寮の自室へ帰ったらしい。
という事は、今玖隆晃の体は、七瀬月魅の部屋にあるということになる。
「後で厄介なことに、ならなきゃいいんだけどなあ」
こちらは潜伏術の心得があるからいいけれど、タオルで顔を隠して戻るとメールで言っていた、彼女の行動がひどく気にかかっていた。
「まあ、今はそんな事を気にしてる場合じゃないか」
溜息混じりにH・A・N・Tを手に取ると、着信音が鳴り響いた。
本体を起動させて、受信したメールを開封する。
直後に、玖隆はあからさまに顔をしかめていた。
「これは」
送信者は真里野剣介。
内容は、今夜の約束の件についてだった。
状況が状況であるし、七瀬の身体を傷つけてはいけないと思うから、やむを得ず反故にしようと考えていたのだけれど、そうもいかなくなってしまったらしい。
昼間は一言も口に出さなかった粛清という文字で締めくくられたメールには、こともあろうか玖隆を確実に呼び寄せるために人質を取ったと記されていた。
3−D担任で、学園の清楚たる花。
該当する人物は一人しかいない。
「雛川さん」
昼間、あれだけ正々堂々と繰り返していた真里野が、一体どうしたことなのだろうと僅かに首をひねった。
敵対する相手を信用できない気持ちはわかるが、こんな真似をするような人物とは思えなかったのだけれど。
まあ、いい。
時計を見ると六時だった。
今から準備して、すぐに潜れば、何とか約束の時間までに指定された玄室に辿り着くことができるだろう。
H・A・N・Tを閉じて、玖隆は七瀬の姿のまま、仕事の準備を始めた。
この季節、日本では早々に日が暮れてしまう。
日中の潜伏活動は多少骨が折れるけれど、暗くなってしまえばこちらのものだ。
玖隆は人目をはばかりながら素早く男子寮を抜け出して、夜の闇を墓地まで駆け抜けた。
誰かバディを呼ぼうかとも思ったけれど、瑞麗と約束した手前、今回だけはやむを得ず一人きりで探索活動をすることにした。
いつもにぎやかな周囲に、ただ一人の声もしないというのは何だか少し寂しい。
直後に何を甘えた事を考えているんだと、掌で両頬をパンと押さえた。
俺は彼らの協力をあてにし始めている。
善意で手をかしてくれているだけの民間人に過剰な期待はミスの元だ。
腰にまとめてくくってあったロープを展開して、楔を地面深く打ち込むと、上端に端をくくりつけて奈落の底まで続く穴の中に放り込んだ。
強度とバックルを確認してから、いよいよ踏み込もうとした瞬間、静寂の中で足音が響いた。
(誰だ?)
スコープをずらして、慌てて身体を低くしながら様子を伺う。
今夜は少し霧がかった墓地の、乳白色の奥から誰かが駆けて来るようだった。
玖隆が息を潜めていると、不意に足取りが止まり、ややして、晃?と微かな声が夜霧に伝わった。
「そこにいるのか、晃」
「甲太郎?」
驚いて目を瞠っていると、足音がゆっくりと近づいてきた。
霧を抜けて、現れたのは、室内着姿の皆守甲太郎の姿だった。
七瀬の姿をしている玖隆を、改めて爪先から頭の上まで見回して、少し戸惑い気味に口を開く。
「その格好、お前、晃―――なんだよな?」
「何で」
さっきは気づかなかったのにと、起き上がりながら戸惑う玖隆に、皆守は複雑な表情を浮かべている。
「いや、何というか、七瀬のくせに、まるでお前みたいな喋り方をするから」
「そ、そうか」
それで気になって、わざわざ探しに来たというわけか。
ではどうして墓地へやってきたのだろう。
この頃よく部屋に尋ねられるとはいえ、彼もしょせん民間人、眼を欺くなど造作も無い。
事実、こうして誰にも気取られずにここまで来られたのだし、もし部屋をノックして返事がなくても、こんな所までわざわざ探しに来る理由がない。
バディ契約を結んでいるのは彼だけではないのだし、置いていかれたと思って追ってきたなら、それこそ気にかけすぎというものだろう。
皆守は何となくこちらの考えに気がついたのか、どこか含みのある眼差しを他所へ向けていた。
元々パーマのせいで跳ねている髪が、湿気を帯びてしっとりとねてしまっている。
「晃」
暗い瞳が、僅かに俯き、再び玖隆を見た。
「悪いが、今回は、俺はお前の夜遊びに付き合ってはやれない」
玖隆も皆守を見上げていた。
いつもと視線の位置が違うからだろうか。今夜はやけに姿が大きく見える。
闇に濡れた皆守は、まるで大きな影法師のようだ。
「こんな状況でも行くって事は、お前が元に戻るために必要な事なんだろう?これ以上ややこしいことになっても面倒だから、今夜はこのまま寮で眠らせてもらうが」
瞳がすうと細くなる。
「―――本当にどうしようもなければ、俺を呼べ、すぐ駆けつけてやる」
玖隆はまじまじと彼を見詰めて、不意に口元に笑みを浮かべていた。
「寝てたら無理だろうが」
皆守がグッと口ごもった。
「お、お前、それはものの喩えってヤツで、ああクソ、茶化すな!俺はお前が」
「大丈夫だよ」
フッと笑って、降下用のロープを握りなおす。
「こう見えても俺はロゼッタ協会の正規ハンターだぜ、腕は確かだ、信用しろ」
「晃」
「サンキュな、甲太郎」
玖隆は穴の淵に立った。
底を覗き込むと、深遠なる闇が広がっている。
振り返ると皆守はどこか気遣うような顔をして玖隆を見詰めていた。
それが自分に向けられているものなのか、七瀬の姿に向けられているものなのか、判断する事は出来なかったけれど、とりあえず笑顔で手を振りかえす。
「すぐ戻るさ、じゃあな」
巻きつけたロープを握り締めて、穴の底へと降下を始めた。
途中、不意に影が差して、多分上から皆守が覗き込んでいるのだろう。
玖隆は顔を上げなかった。
姿は闇に飲まれて、あっという間に見えなくなってしまった。
―――パイプを咥えた口元が、小さく呟きを洩らす。
「俺は、何も見ていないし、聞いてない、だから安心して行ってこい、晃」
複雑な表情の裏に感情を隠して、誰にも気取られないように、立ち上がった皆守は墓地から静かに遠ざかっていった。