「キミ、大丈夫!」
慌てて駆け寄った八千穂が、男子生徒を抱き起こす。
「キャッ」
直後に身をそらすので、何事かと覗き込んでみると、彼の口から大量に出血していた。
地面にも血の跡と、無残に折られた歯が数本転がっている。
「歯!歯がないよ!どうしちゃったの?ねえッ」
い、いひはほんへひへ―――
上下の前歯の無くなった男子生徒は、不明瞭な言葉で石が飛んできてあたったと訴えた。
ただ、彼は、一度はそれを避けたらしい。なのに石は再び彼めがけて飛んできたと言う。
(そんなバカな)
磁石でもあるまいし。
直後に玖隆ははたと思い当たっていた。
昼間黒塚から聞かされた隕鉄の話。人体に流れる、電気信号。
(まさか)
―――突然、H・A・N・Tがメールの着信を告げた。
「あーちゃん」
八千穂が目を丸くして振り返った。
玖隆は―――緊張と興奮が混ぜ合わさった奇妙な高揚感と共に、画面を開く。
お前は三人目。
メールの題名はそう記されていた。
本文を素早く目で追っていく途中、何かの気配に気付いた八千穂が暗闇を凝視してあーちゃん!と叫んだ。
(クッ―――)
闇を切って、何かが高速で接近してくる。
玖隆はとっさに腕をかざして、突き刺して止めようとした。刹那。
「うわあああ!」
ガキンッ
高音が響いて、玖隆はそろそろと腕を下ろす。
「はァ、はァ、はァ―――アアッ」
乱れた吐息に続いて、泣き声。
「僕はなんて事をーッ」
目の前にあったのは、石だった。
直後にぐいと引き寄せる黒塚の姿が見えて、それから石に突き刺さっているナイフを確認する。
黒塚はそれを必死になって引き抜いて、可愛い隕鉄ちゃんがと目の淵に涙を滲ませていた。
「晃君!責任取ってくれる?」
「え?あ、ああ」
何がなにやらわからないままで頷くと、じゃあこれ、君の命の恩人だからとそのまま隕鉄を押し付けられてしまった。
「黒塚、どうして」
「え?」
きょとんとしている背後の茂みを分けて、誰か出てくる。
とっさに振り返った黒塚が誰だいッ、と怯えた声を上げた。
「何故、彼ヲ助ケル?」
現れた人影は―――トトだった。
「トトクン!」
八千穂が悲しげに叫ぶ。
「やっぱりキミが、その力で皆を襲ったの?」
月明かりに照らされたトトは、フッと瞳を伏せていた。
「アノ宴ニ招カレシモノハ、皆罪深キ魂ヲ持ツモノ」
「えッ」
「ボクハタダ、神ノ導キニ従ッタダケ―――ボクニ、コノ力ヲ、コノ学園デ生キテ行クタメノ力ヲアタエテクレタ、黒イ砂ノ姿ヲシタ神ノタメニ僕ハ悪人ヲ裁ク」
黒い砂。
ではやはり、こいつも執行委員なのか。
不意に口を閉ざした二人の様子を、はたで傍観していた黒塚がンーと唸って身を乗り出してきた。
「ところで、ひょっとすると君は磁力を操るんだね?隕鉄がまるで吸い寄せられるように飛んでいったから驚いたよ」
「磁力?」
「そうだよ晃君、磁力だよ、だからきっとナイフがあんなふうに君に飛んでいったんだねえ」
なるほど。
では今朝方八千穂が接触したときに感じた熱も、磁力のせいだろう。
鎮痛や血流をスムーズにするために、磁力を利用する治療は割とメジャーな手段だ。
「アナタ、何故彼ヲ助ケタ」
「え?」
トトは相変わらず暗い瞳で、じっと黒塚を見詰めている。
「彼ヲ助ケルコトデ、ソレデ、アナタハ何、得スル?」
「ううん、得っていうか、僕はただこの石の心に従っただけさ」
「ココロ?」
黒塚は大げさに、いつも抱きかかえている水晶のケースを胸元にギュッと押し付けて頬擦りした。
「僕の心が晃君を助けたいと思って、それがこの石に伝わって、力を貸してくれたんだと思う、晃君は僕の大切な友達だから」
最後の方は少し照れ臭そうだった。玖隆も、聞きながら微かな笑みが口元に浮かぶ。
「トトクン」
立ち上がった八千穂が、玖隆の隣に立った。
「得とか、そんなの関係ないよ、キミにだって大切な友達が―――守りたい、大切なものがあるでしょ?」
「大切ナ、人?トモダチ?」
「そうだよ」
「―――ワカラナイ」
急に頭を抱えて、呻くように呟く。
「えっ」
「コノ国、ボクハイツモ一人、誰モガミナ月ノ光ノヨウニ冷タイ目デボクヲ見ル、コンナ異国ノ地デ、大切ナモノナド見ツカルハズナイ」
冷たい月の光―――
今の彼の瞳こそが、それそのものだろう。
トトの捧げた宝物は、多分彼が持ち得ていたもっと純粋な感情。温かな思い。
苦しみから逃れるために、彼はその全てを手放してしまったのか。
「お前、バカじゃないの?」
思わず口をついてでていた。
八千穂と黒塚が、驚いたように玖隆を振り返った。
「エ?」
トトも唖然としている。
「お前が欲しいものは、お前が自分で捨てたんだよ、それくらいの事もわからないのか」
「あ、あーちゃん」
「大切なものが見つからない?初めに目をつぶったのはどっちだ、聞こえないフリをしたのはどっちだ、そうやって、被害者めいた顔して、それでお前の願いなんて叶うわけないだろうがッ」
―――イライラする。
心の闇に安易に逃げ込んだ彼が。
今まで傍にあった全てを放棄しようとしている姿が。
「そうやって何もかも手放すのか、お前は」
最低だな。
吐き捨てた一言に、トトがハッと目を見開く。
「失ったものを嘆いて、差し伸べられた手も振り払うなんて、お前は最低だ」
「ボクニ、手ヲ差シ伸ベテクレタ人ナドイナイ」
「今八千穂が差し伸べただろう?俺だってほら!こうして伸ばしている、ホラッ」
ぐい、と腕を伸ばした。
トトが数歩後退りをする。
「泣き言なんて簡単だ、諦めるのなんていつでもできる、けどなあ!」
制服の下で、リングがこすれて微かに鳴った。
その音はいつでも遠い記憶を蘇らせる。
―――俺は今、他でもない昔の俺に、語りかけている。
「お前には、本当に大切なものなんて何もないのか?」
声のトーンが、急に弱くなる。
「繋げなくちゃいけない想いは無いのか?託されたものは、何もないのか?」
「あーちゃん」
「お前、どうして留学なんてしに来たんだよ」
はるばるエジプトから、7時間もの時差を越えて。
それだけの意義を見出す何かがあったんじゃないのか?
「答えろよ」
玖隆の瞳は月明かりを受けて、今はどちらかといえば緑色が濃いようだった。
その目でじっとトトを見詰めていると、彼は僅かに身じろいで、現れた茂みの中に飛び込んでしまった。
駆け出す足音が遠ざかっていく。
拳を握り締めて俯いた玖隆に、八千穂と黒塚が気遣うような視線を向けて、それぞれそっと瞳を伏せる。
「あーちゃん」
殆ど満月に近い青白い月を背負って、玖隆は振り返った。
「ねえ、トトクンも、何か大切なものをなくしちゃったのかな?」
「わからない、でも」
その続きを、うんと小さく頷いて、精一杯の笑顔で笑い返してくれる。
胸の奥のささくれ立った気分が癒されていくようだった。
「今夜も潜るんだよね、あそこで、きっとトトクンが待ってるだろうから」
「そう、だな」
人助けなんておこがましい事を言うつもりは無い。
ただ、悔しかったから、この気持ちをちゃんと彼にぶつけてやりたかった。
そして願わくば、トトが何かを失う前の姿に戻してやりたかった。
―――胸元でまたリングが擦れる。
「仕方ないなあ、じゃ、僕は屋敷の様子を覗いてきてあげるよ、女の子の悲鳴が聞こえたのも気になるしね」
黒塚はいやそうに顔をしかめながら、それでも君のためだからと、わざわざ断りを入れてくるので思わず苦笑してしまう。
「ありがとう」
八千穂と黒塚はどこか安堵したような表情を浮かべていた。
皆守といい、俺の周りには、こんなにも気遣って、想ってくれる人たちが大勢いる。
(トト、それはお前にもちゃんとあるんだ)
思い出して欲しい。
否定してしまうには、世界はあまりにも光に満ち溢れていると言う事を。
「じゃあ、俺、準備があるから」
行こうとする玖隆を八千穂が呼び止めた。
「あーちゃん!あの、そのっ」
振り返ると、ためらいがちに、頬を染めてニコリと笑う。
「あたしは先生が来るまでこの子の傍についてるけど―――あたしの力が必要なら声をかけてね、約束だよッ」
「ああ、わかった」
頷いて、また走り出す。
確かに感じる視線の温もりが胸に消えない炎を点してくれるようだった。
思いは、それを感じるだけで、こんなにも様々なものを与えてくれる。
踏み出す一歩一歩が、それを殊更強く実感させるようだった。