『うおォォォ―――ッ』
玄室に波紋が広がっていく。
『わッ、我が身体が崩れるッ、再生せよ!我が身体よ再生するのだッ』
絶叫と共に、轟音を立てながら膝をつき、崩れ落ちた荒吐神を前に、玖隆は血まみれの姿で立っていた。
片手に欠けた八握剣、片手に弾切れのハンドガン。
コートの裾は千切れ、制服はあちこち裂けてボロボロになっている。
アサルトベストの前も、ほとんど修繕不可能なほど破けてしまった。
もっとも、収納していた弾薬や薬剤、爆薬などは使い果たしていたけれど。
肩で荒い息を繰り返して、その側に皆守も呆然と立ち尽くしている。
「ぐッ」
思わずむせて、玖隆が吐き出した血の音で皆守は我に返り、慌てて側に駆け寄ろうとして、動作を止めた。
『うう―――我は荒吐神なり』
神が、弱々しい声ですすり泣いている。
いや、これは神じゃない。
これは―――
『我を妨げる者よ、我は神ぞ、我は』
「違う」
玖隆は半ば麻痺しかけた両手を握り締めて、長髄彦をまっすぐ見上げた。
暗黒に満ちていた眼差しの奥に、今では戸惑いが透けて見える。
使い物にならなくなった八握剣を投げ捨てて、ハンドガンはホルダに戻した。
「違う、お前は神じゃない、お前は、人だ」
『な、に?』
「―――もう終わったのよ、あなたは、古の忌まわしい呪縛から開放された」
倒れていた白岐が、ふらりと立ち上がり、自愛に満ちた微笑をその唇にそっと乗せる。
「もう誰もあなたを苦しめはしない、この人が、玖隆さんがあなたの失っていたものを見つけてくれた」
『かい―――ほうされた?』
「そう、長髄彦と呼ばれていた頃のあなたを」
巫女の言葉に促されるようにして、神にされてしまった人―――長髄彦は、細めた瞳で過去を見るように、何かに思いを馳せていた。
それは、遙か古の、彼が彼自身であった頃の記憶だろうか。
記憶。
こんなに大切なものは無い。
玖隆は長髄彦を見上げる。
「そう―――そうだ、私は、長髄彦、懐かしい響きだ、確かに私は、そう呼ばれていた」
先ほどまで滾っていた気配が、今では波紋一つ浮かばない水面のように静かで穏やかだ。
彼の目にも、玄室にも、在るものはただ―――懐古と悲哀、そして、安息。
玖隆は無意識に、胸元のリングに触れていた。
切り裂かれた襟元から、それはすでに露出しているけれど、もう構わない。
金属音の代わりに、ラベンダーが微かに香ったような気がしていた。
「私の祖先である巫女は、あなたを救うことができなかった」
白岐は巨体の側に跪き、衣装の裾にそっと触れる。
「その声、そうか、お前は、あの時の黒髪の少女か」
異形の腕がぎこちなく長い黒髪に触れて、梳った。
白岐の瞳が慈しむように、かつて尊んだ人の姿を見上げていた。
「私は、夢を見ていた」
震えている、微かな、けれど、静かな声。
「悪い夢を見ていた」
長髄彦は三つの顔で上を見上げる。
―――そこに、かつて失った何かがあるように。
「還りたい」
頭の一つが言う。
「あの頃へ」
別の頭が。
「あの懐かしき日々へ」
もう一つの頭が。
異形の瞳に、すでにそんな器官は残されていないのか、彼らは涙など流していなかった。
けれどその場にいた誰もが、彼が泣いているのだと感じていた。
無限に続くと思われた怨嗟の年月。
異形の身体はすでに廃れ、魂ばかりに成り果ててもまだ、還れず縛り続けられていた。
けれど、それも終わる。
全て終わる。
墓地の意義も、封印の巫女の宿命も、墓守の存在意義も―――
「還り―――たい―――」
その一言がまるで合図であったかのように、玄室が今までにないほど激しく揺れ始めた。
「この揺れはッ」
皆守が慌てて顔を上げる。
玖隆も、すぐに白岐の側まで駆け寄って抱き寄せた。
「玖隆さん」
血まみれの身体に、それでも白岐はそっと縋ってくる。
長髄彦はまだ天を仰いでいた。
「おい、阿門!」
生徒会長はすでに立ち上がり、閉じていた双眸を静かに開く。
「目的を失った墓が、崩壊しようとしているのだ」
轟音と共に、玄室の一角が崩れ落ちてきた。
玖隆は息を呑み、白岐を抱く腕に力を込める。
とっさに振り返ると、皆守も同じようにこちらを見ていた。
けれど、瞬間―――言葉にできない、嫌な気配を感じ取って、鼓動が一つ大きく鳴る。
重なっていた視線がフッと逸らされてしまう。
「そして」
次々に崩れ落ちてくる、石や、瓦礫の音に混じって、阿門の声が玄室に響く。
「この墓が無くなれば、俺の墓守としての役目も終わる」
「阿門」
「これでようやくこの学園も開放されるだろう、忌まわしき―――古代の呪縛からな」
玖隆はとっさに周囲を見回していた。
退避は―――今すぐ行動開始してもギリギリだろう。
せめて自分以外は確実に助けたいと思うが、果たして。
(いや)
指先で触れたリングの感触を、掌に握り締める。
(逃がすんだ、絶対に、こいつ等を死なせたりなんかしない)
晃、と、懐かしい空耳に、玖隆は僅かに口の端をほころばせた。
(もちろん、俺も死なないよ、リリー)
「玖隆」
呼ばれて振り返ると、阿門は未だ立ち尽くしていた。
やはり嫌な気配を漂わせた瞳が、じっとこちらを見詰めている。
「俺は、勘違いをしていたのかもしれない」
「何?」
「宝探し屋とは奪い取るだけでなく、与える事もするのだと、この学園の多くの者たちがお前に出会い、何かを与えられた」
脳裏に蘇ってくる―――執行委員の面々、役員、夕薙、そして、長髄彦。
(与えるだなんて、そんなたいそうな事はしていないさ)
玖隆は微笑を浮かべる。
彼らは俺を切欠に、ちゃんと自分で、元々その手にあったものを取り戻しただけだ。
俺のした事といえば精々が止まっていた時間を引っ掻き回して、おせっかいを焼いただけ。
俺は自分の望みのためだけに、今日まで走り続けてきた。
「俺は何もしてないよ」
阿門も笑っていた。
「俺も、お前に、大切なものを―――自由という、かけがえの無いものを与えられた」
「阿門」
「最後に、お前に逢えて良かった」
「最後?」
脊髄に架空の痛みが抜ける。
「阿門」
「お前ともっと早く出会いたかった」
「ちょっと待てよ」
最後?
(最後だと?)
白岐を抱く腕に力が籠もった。
双眸が不安げに玖隆を見上げている。
その場から動こうとしない阿門のすぐ傍に、轟音を立てて石の塊が落下してきた。
玖隆はとっさに駆け寄ろうとして、一瞬走った脇腹の痛みにうめき声を漏らしつつ二の足を踏む。
「玖隆さん、血が」
「これくらい、気にするな」
白岐、頭上に気をつけて、逃げられるようなら逃げろと、囁きつつ手放した。
動揺する様子に、汚れた顔でニコッと微笑みかけて、玖隆は阿門と向き合った。
「阿門、何の冗談だ」
玄室はこうしている間にも崩壊を続けている。
柱は倒れ、炎はすでに消えていた。
相変わらず天を仰ぐ長髄彦の上にも容赦なく瓦礫が降り注ぎ、遺跡はすでに以前の神秘性を失いかけている。
「行け」
「どこに」
「じきに、この玄室も崩れる、俺はこの墓に残り、呪われた歴史に終止符を打つつもりだ」
仕方ない、と声がする。
振り返れば、皆守も、阿門の傍に歩いていった。
魂が、かつて無い恐怖に、軋んで震えた。
振り返った皆守は穏やかな顔をしている。
玖隆の腹の奥で、怒りにも似た感情が沸き起こる。
清々しく、けれど、酷く悲しい瞳が、こちらを見て優しく微笑んだ。
「晃」
左の薬指でリングが光っている。
玖隆は二人を見据えている。
用心していないと手足が震えだしてしまいそうだ。
指先が、心が、スウッと冷えていくのがわかる。
「悪いな、これも運命って奴だ」
「甲太郎」
「会長が残るっていうのに、副会長が残らない訳にはいかないだろう?」
阿門はどこか苦渋に満ちた表情を浮かべている。
「皆守、お前」
「まァ、黄泉路への旅も一人より二人の方が退屈しないだろうしな」
そういうわけで、お別れだ、晃。
片腕が、ひょいと上げられた。
まるで、一日の終わりに別れるような、何気ない仕草で。
「じゃあ、な」
どォんと、一際大きな音を立てて、彼らの背後に天井の一角が落下した。
「甲太郎―――本気なのか?」
「悪いな晃、初めから―――決めていた事だ」
玖隆は動かない。
傍らで白岐が脅えているのを感じる。
今すべき事は、白く細いその手を掴んで早急に退路を確保することだと、理性は告げているのだが。
「俺達は墓守として多くの者たちを傷つけてきた、これが、犯してきた罪への償いなのさ」
皆守はまだ笑っている。
憎らしいほどの笑顔で。
「全ては地中に消える、忌まわしき遺産も、呪われし運命もな」
阿門は散々迷った末に、何かを決めたようだった。
隣に立つ副会長の姿を視線だけで伺い、ため息を落とす。
皆守にはわからない、微かな仕草だった。
「精気を奪い取る元凶であったこの墓が崩れれば、生徒会による墓の呪いで棺に捕らえられていた連中も元に戻るだろう」
「―――後の処理は、上に残っている生徒会の者に指示を出してある」
皆守がちらりと阿門を窺う。
再び玖隆に視線を向けて、早くしろと顎をしゃくる。
「逃げられなくなるぞ、急げ、晃、お前は」
生きろ、と。
最後の言葉に、玖隆の胸の内で炎が吹き上がっていた。
力いっぱい地面を蹴りつける。
ボロボロの身体に鞭打って、血を流しながら、痛む傷など構いもせずに。
「晃?」
ギョッと目を剥く皆守の側まで迫った。
降ってきた瓦礫が肩を直撃して、衝撃に奥歯をかみ締めた。
口の中に溜まった血は、吐いて捨てた。
「晃、やめろ、来るな、お前だけはッ」
「ふざけるなああああ!」
構わず伸ばす、腕を。
呆然としている阿門と、皆守の胸倉を同時に捕まえる。
握り締めて、強く揺さぶる。
何のために今日まで馬鹿やってきたと思っているんだ、俺は、お前達だけには―――
「生きろ!償うつもりがあるなら、死ぬ気で生きろ!生きて!生きて!生き抜け、馬鹿野郎ッ」
同時に何かが散っていた。
血か?汗か?それとも。
「晃」
皆守が目を眇める。
伸びてきた掌が、そっと頬を撫でて、目元を拭った。
ああ―――これは―――涙、か。
(格好悪いな、俺)
野郎の前で大泣きするなんて、馬鹿みたいだ。
こんなダサい姿、女の子達にはとてもじゃないが見せられない。
瓦礫が降ってくる。
玄室が、遺跡が、崩れ落ちてくる。
(もう、間に合わないな)
つい苦笑いが浮かんで、見れば皆守は悲しげな顔をしていた。
「甲太郎」
震える唇で、名前を呼ぶ。
「プロポーズまでしたっていうのに、こんなところで逃げられちゃ、堪んないぜ」
「晃」
「いいか、甲太郎、阿門も、聞け、宝探し屋の意地と名誉にかけて、お前たちは逃がす、白岐も助ける」
「お前」
「絶対助ける、諦めが悪いのが俺なんだ、知ってるだろうが」
長髄彦の姿が、いつの間にか薄ぼんやりとした陽炎のようなものに変わっていた。
透けた内側に落ちてくる石塊を白岐が見上げている。
「俺の装備を使え、アンカーもロープも、まだ生きてる、HANTを使えば安全退路を算出してくれるだろう、だから、これを使ってすぐに逃げろ、後は俺が何とかする、だから」
「馬鹿言ってないで早く逃げろ、晃、いい加減に」
「諦めないぞ、俺は」
「玖隆」
「宝探し屋が遺跡で死ぬのはよくあることだ、けど、お前たちは学生さんだからな」
震える手を懐に突っ込み、血にぬめる指先で、掴んだ端末を渡そうとした。
皆守が怯えたような目を向ける。
阿門は固く唇を結んでいた。
「さあ、早く!」
落ちてきた瓦礫に背中を強打されて、一瞬意識が途切れかけた。
よろけた玖隆を皆守が咄嗟に抱き寄せる。
「晃!」
(りいん)
『還りましょう』
『還りましょう』
『あの頃へ』
聞き覚えのある声が二つ、空から降ってくる。
皆守の腕の中で、玖隆はよろよろと顔を上げた。
「君、たちは」
『ありがとう、みなさん』
これまでに何度も―――時に警告を発し、時に救いを求めてきた、二人の少女の姿を模した精霊達が、青い燐光をまとって舞い降りてくる様子が見える。
『これでようやく、わたしたちも解放されます』
消えかけた長髄彦が、ふと首の一つを彼女たちに向けた。
視線が交わると、彼らの間に自然と笑みが生まれていた。
『いつか、このように長髄彦の封印が解かれる日が訪れると思っていました』
『そう―――封印を解く者こそが、長髄彦を永遠の眠りにつかせる事ができたのかもしれません』
阿門も、白岐も少女たちを見ている。
呆然としている皆守の、それでも玖隆を抱く両腕の力だけは決して緩めようとしない。
『玖隆、あなたのお陰です』
『ありがとう』
『心から、感謝しています』
見詰められて、玖隆は微笑み返していた。
状況に見合わない無邪気な声が二つ、クスクスと、くすぐったいような笑い声を上げながら幸福そうな表情を浮かべる。
そして小さく頷きあって、今度は阿門に視線を向けた。
『墓守の末裔よ』
「何をしに出てきた、崩れる墓を見物しにか?」
『いいえ、私たちの最後の使命を果たすためです』
「最後の使命?」
はい、と少女たちは頷いて、長髄彦の左右に移る。
『長髄彦と共に、天へ還るために』
「待て」
阿門は再び、墓守の顔で語調を強くする。
「この墓から長髄彦を連れ出すことなどさせはしない、今ここで、全ての呪いに終止符を打つためにな」
『墓守たちよ、わたしたちは長髄彦を連れ出そうとしているのではありません』
「何だと」
『わたしたちの役目は長髄彦とあなたたちを救い出すこと』
『わたしたちは長髄彦と共に眠りに着きます』
『安らかなる永遠の眠りに』
少女たちの身体からあふれ出した輝きは、いつの間にか崩れかけた玄室全体にまで及んでいた。
玖隆も、皆守も、白岐も、阿門も、体中淡い燐光に包み込まれている。
側に落ちてきた石塊の一つが、ふわり、と、重力を失い浮かび上がった。
気づけば周囲のあちこちで、色々なものが宙に浮き始めていた。
『ですが、長髄彦やわたしたちが眠りに着こうとも、あなたたちの役目が終わったわけではありません』
阿門の双眸がハッと見開かれる。
『この学園には、これからあなたたちの力が必要となるでしょう』
『墓守としてのあなたたちではなく、学園の護人としてのあなたたちの力が』
玖隆の足元が、ふわりと浮かび上がった。
抱いていた皆守も一緒に浮かび上がる。
阿門も、白岐の身体も浮かび上がった。
『だから、生き延びるのです』
『この墓と共に』
『わたしたちが、あなたたちを、ここから連れ出してあげましょう』
『わたしたちの最後の力で』
「最後の力?」
少女たちは玖隆を振り返り、そっと微笑んでいた。
長髄彦も微笑んでいる。
穏やかな気配に、遺跡は満ち足りている。
『螺旋の刻の中で築かれた古の文明に宿る、夜明けという銀色の光で』
『あなたたちの未来を、照らしてあげましょう』
ありがとう、巫女。
ありがとう、墓守たち。
そして、ありがとう、玖隆晃。
遠ざかっていく声と共に、少女たちの姿が長髄彦を伴ってどんどん上昇していく。
それと一緒に、玖隆たちの身体も上昇を始めた。
いや、今や青い光の帯となった周囲の全てが、天空目指して昇っていく。
皆守に抱かれながら、見えた景色は幻想的で、泣きたくなるほど綺麗だった。
光球が七色の帯を引いて、地中から召されていく―――空へ。
それらは全て、遺跡の中で繰り返し立ちはだかってきた、化人たちの魂だろう。
「綺麗だな」
耳元で皆守の苦笑交じりの声が響く。
「結局、本当に全部、お前の思ったとおりになっちまったな」
振り返った玖隆は微笑んでいた。
皆守の瞳をまっすぐ見詰め返して、強く、満ち足りた表情で。
抱きしめる腕に負けないくらい、強い力で抱き返しながら。
「当然だろ?何たって俺は、腕利きのトレジャーハンターなんだからな」