RED

 

 紅蓮に燃え上がる玄室で、倒れている姿を、皆守は無表情で見下ろしている。

歩み寄って、胸倉を掴んで起した。

見えた姿は赤く染まり、傷のなかったはずの顔にも無数の痣が次々と新しい赤を滲ませている。

まだうっすら開かれている瞳の、焦点は定まっておらず、それはかえって好都合だった。

見詰められては決心が鈍る。

愚鈍に、鋼鉄に、無慈悲に、何重も仮面を被って覆い隠した、本心が覗いてしまう。

柔らかな唇がうっすら開いて、彼女はほんの僅か、微笑みのような表情を作った。

途端、大量に吐血する。

ごぼごぼと零れ落ちる赤を見下ろして、喉に片手をかけた。

こんな事をしなくても、もうこいつは、助からない。

解っていても、止まらない。

ぐ、と力を込める瞬間、濡れた口元が微かに震えた。

 

「バカ、ね、あたし」

 

そのまま締め上げる。

大した抵抗もなく、全身が弛緩した。

そのままくったりと動かなくなった身体を、掴んだままで見下ろせば、下肢が大量の赤に染められていた。

―――どうしてこんな場所が?

不審に思ったけれど、それだけだった。

背後から靴音が響く。

「済んだのか」

「ああ」

立ち上がって、振り返れば、漆黒の墓守の長の姿。

皆守は紅蓮の影と姿を変えて、命の消えた人型を無造作に引きずって見せた。

墓守の長は、やはり同じ箇所に眼を留めて、不意にそのまま凝視する。

唖然とした眼差しを、やがて皆守に向けて、哀れみのような、底の無い悲しみの色が気に懸かった。

「何だ?」

「いや」

「気になる、言え」

「―――お前は、その女を殺せぬと思っていた、ただそれだけだ」

暗く濁った双眸が、言葉を受けて黙り込む。

墓守の長も何も言わなかった。

四方を業火に包まれた石の室、けれど、まるで暑くない。

底冷えするような寒さの中、背を向けて歩き出した墓守の長の後に続いて、皆守はようやく―――酷く、ゆっくりと―――まるで壊れ物を扱うように、そうっと、優しく、彼女の身体を横抱きに抱え上げたのだった。

 

それから、季節は幻のように過ぎ去り、いつの間にか春になっていた。

明日はもう卒業式だ。

 

八千穂には散々泣かれた。

彼女を愛していた全ての人々が、様子は違っても同じように慟哭した。

 

桜が咲いている。

 

全ては自分が下したと、阿門自ら名乗り出た。

友は憎悪し、墓守は諦めた。

 

皆守は泣かなかった。

ただ、毎日を同じように繰り返し、けれどたった一つだけ、夜は、彼女と二人きりで過ごした。

皆が寝静まってから、目覚めるまでのほんの僅か。

闇の中、ただ一人、他と同じようにしつらえられた褥の一つに寄り添って、何も語らず、冷たい石の表面に触れていた。

けれど墓石に温度が伝わる事など一度もなく、温もりが返ってくることも無い。

柔らかな肌の感触も、心震わす鳴き声も、全て覚えているのに、すでにどこにも存在していない。

世界は色を失って、皆守の目に映る全てがモノトーンの様相をしていた。

人も、景色も、建物も。

何もかも曖昧で、まるで現実味を感じられない。

 

桜舞う夜の闇で。

墓守の任を解かれた人々は皆明日卒業していくけれど、皆守に行くあては無い。

鎖はまだ解けていない。

この学園を出れば、契約の呪いが命を食いつぶすだろう、だから。

 

「俺は、どこにも行けないんだよ」

 

自嘲的に微笑みかけた。

闇が、ほんの僅か、笑ったような気がした。

 

褥を示す標に触れ続けてどれほど経っただろうか、凍えた指先から感覚が消えかけた頃、ゆっくりと背後に歩み寄ってきた気配に気付く。

 

「やっぱり、ここにいたわね」

 

声と、香りを、知っている。

だから皆守は振り返らなかった。

代わりに内心舌打ちを漏らす。

今、夜の逢瀬に二人以外は要らないというのに、そんな心情をまるで酌もうとせず、女は勝手に話しはじめる。

 

「バカな男、大切なものを自分で壊したくせに、また被害者のフリをするのね、本当におめでたいわ、今度はもう助けてあげないわよ」

 

皆守の口元で、いつもの香りが揺れていた。

吸い込みながら僅かに苛立つ。

あの時とは状況が違う。

俺は、誰の救いも必要としていない。

 

(それが、俺が自分に課した罰なんだ)

 

女が笑う。

 

「あたし、あの子のこと、これでも結構気に入っていたのよ」

「あの御方はお優しいから、貴方に最後の情けをかけられたようだけれど、私は違う、私は、貴方が許せない」

「だから今夜、復讐させてもらうわ」

 

皆守の胸の奥で、何かがぞろりと蠢いた。

闇の奥底に潜む何かが、その身を大きくうねらせる。

 

「貴方一人だけ、憐憫に浸って思い出を美化するなんて、許さない」

 

「何の話だ」

 

「貴方、見たんでしょう?」

 

ぞろり。

 

「貴方があの子を屠ったとき、下半身から大量に出血していたって、あのお方から聞いたわ、貴方覚えている?」

 

何かがこみ上げてきて、それは皆守の背筋を粟立てる。

思い出してはいけない、この女の言葉を聞いてはいけない。

けれど、周囲は無音になり、ただ女の声だけが脳髄に直接響いてくるようだ。

皆守は震える。

闇の気配に。

恐怖の訪れに。

 

赤い唇が上弦の月の様に吊り上っていた。

 

「あの子と貴方の関係、知っているわよ、体の関係よね?」

「貴方はいつも、避妊具無しで交接していた」

「だからかしらね?」

「あれは―――お腹の子が流れちゃったのよ」

 

声が出ない。

 

そんなはずない。

 

「嘘だ」

 

「ウフフ」

 

月が哂う。

 

「バカな男、月のものの出血だとでも思った?」

 

「あれは、俺が」

 

「内臓破裂したって、体内に留まるか口から吐き出すかの程度よ、肛門括約筋が緩んだのだとしたら、どうして排便は無かったの?失禁だってしていなかった、ただ出血だけ、それも大量に」

 

「そ、れは」

 

「一体どこから出てきた血なのかしらね、あれは」

 

「嘘だ」

 

「母体が死んで、胎内の栄養補給元が断たれたとしたら?いいえ、それより貴方」

 

「嘘だ」

 

「あの子のお腹、何度蹴ったの?」

 

 

叫ぶ。

 

 

夜風が吹く。

 

 

女が笑う。

 

 

「バカな男」

 

 

―――震えが止まらない。

 

 

「復讐してやるって、言ったでしょう?―――あの子は多分、あのお方を救えるたった一つの希望だった、けれど貴方はそれを殺した、だから、私は貴方を赦さない、私たちを永久に牢獄に繋ぎとめて、あのお方の未来を奪った貴方を」

 

 

見える、見える、ああ、これは赤だ。

あの時あいつからこぼれた赤。

血の赤。

罪の赤。

二度と覚めない悪夢の始まりを告げる、開幕の赤。

 

皆守は走り出していた。

 

この学園から出よう。

どうせ裏切りなど慣れた身だ。

外に出れば墓守の呪いが全て終わらせてくれる。

俺は、暗く静かな褥の底まで、あいつに逢いに行く事が出来る。

 

(この学園を、出ればッ)

 

舗装された道を駆け抜け、施錠されて閉ざされていた門扉を、勢いのまま乗り越えた。

外の世界だ。

破滅は直後に訪れない。

駆けて、駆けて、夜の街をどれほど走り続けただろうか。

 

(まだか)

 

すでに学園の屋根すら見えない。

 

(まだなのか)

 

焦燥感を滲ませた靴音が響く。

死神はいつ、俺に追いつく?

 

「まだ、なのかッ」

 

皆守の携帯電話が鳴った。

着信はあの女からだ。

立ち止まり、震える指で通話ボタンを押して、機体を耳に押し当てた。

 

 

「バカね、まだわからないの?貴方が遺跡に捧げた贄は、とっくの昔に返っているわ」

 

 

意識がスウッと冷えていく。

 

 

「呪いはもう消えているの、だから、貴方はどこへでも行ける、貴方の自由は、すでにあの子が取り戻しているのよ」

 

 

携帯電話が掌から滑り落ちた。

ぐらりと視界がぶれて、皆守は、そのままゆっくり路上に崩れ落ちる。

横たわると、双眸を閉じて、小さく丸くうずくまり、まるで眠るように動かなくなった。

通話口の向こうで通信が切られる。

双樹は墓地に立ったまま、地面に転がる煙の消えたパイプを爪先で踏みにじっていた。

 

「バカな男」

 

恐らく、皆守は二度と目覚めないだろう。

周囲の意図など関係なく、彼自身が目覚めを拒む。

恐ろしい現実に繊細な心は苛まれ、けれど臆病者は自力で死ぬ事も出来ない。

あのお方の慈悲で与えられた、かろうじて平常を保つ事の出来る頼りは、たった今自分が粉々に砕いてやった。

ならば―――現実に留まる術を全て奪われた皆守が逃げる先は、もう夢の中しか残されていないだろう。

たとえそれが終わらない悪夢だとしても、目覚めて見る世界よりはずっとましなのだろうから。

皆守は自ら堕ちる。

闇に。

無慈悲な女王の腕の中に。

 

桜の花弁がそっと視界を過ぎって、こんな所まで飛んでくるのかと瞳を眇めた。

見下ろした墓石に、双樹は静かに語りかける。

それは酷く哀しい姿で―――

 

「でも、一番罪深いのは、勝てなかった貴女よ、わかるわよね?」

 

誰も救われない。

何も変わらない。

まだ夜は明けない。

 

咎人たちの鎖を捕らえて、遺跡に潜む何かの咆哮が、桜の向こうに轟いたような気が、した。