疲れたあ、と、肩を落とす大地の後を歩いていた天人は、ふと空を見上げた。
そのまま足を止めて、青い瞳を何度も瞬かせていると、どうしたのと維緒が不思議そうに声をかけてくる。
「うん?」
振り返った天人はニコリと微笑んだ。
「何でもないよ、早く戻ろう」
再び瓦礫の転がるアスファルトの上を歩き出す。
すぐ傍で、星明かりを映したガラス片がキラキラと淡く輝いていた。
ジプス基地内は夜でも変わらず慌ただしい。
行き来する黄色の制服をすり抜けて、目当ての部屋に辿り着いた天人は、そこにいる筈の姿を探す。
「大和!」
呼びかけると、傍らの真琴と話し込んでいた横顔がこちらを向いた。
薄明かりに銀の髪が淡く輝き、天人の姿を認めた濃灰色の瞳が少し眇められて、口元が柔らかく和む。
「天人」
真琴もニコリと笑顔を向ける。
黒と黄色を基調にした制服に身を包み、背筋を伸ばして立つ姿は、いかにもしかつめらしい。
屋内の様子と相まって、政府の特務機関というより、秘密結社のような印象を受ける。
天人は普段着の白いパーカーのフードから伸びるウサギの耳のような二本の長い飾りをひらひら揺らしながら部屋を横切って、大和の手前に立った
並ぶと身長差は無いように見えるけれど、前に確認した時、大和の方が一センチ高かった。
年齢は天人が一年早い。
それなのに、傍目にも大和が年上に見られてしまうのは、育った環境や経験値の差が表れているのだろう。
前はよく大人びていると高評価を受けていた天人を、呆れ顔で呑気と判じた大和に、十八年生きて初めて(自分はもしかしたらタダのノンビリ屋かもしれない)と気づかせた、真実『大人』な彼の功績は大きい。
割り切っているつもりで結局子供だった事実を突きつけられて、天人は随分肩の荷が下りた。
もっとも、感謝の意を大和に告げたことは無いけれど。
ただ、その一件以来、天人は大和への思い入れが一層深まった。
そしてそんな想いもまた、やはり当人へは伝えていない。
「どうした?」
すぐ話を切り出さない天人を促す大和の一言に、思わず苦笑が漏れる。
「うん、ねえ、今から少し時間ないかな」
「何だ?」
怪訝な様子の大和と、困惑気味の真琴を交互に見て、天人は再びにこりと笑う。
「外に行かないかなと思って」
「外?」
「そう」
間を置いて、当然「何故だ」と尋ねられた。
質問の見当はついていたから、天人は「空を見たいから」と事もなく返す。
「空だと?」
「うん」
「空に何がある」
「今は夜だから、星だね、月も見えたよ」
「それで?」
数回瞬きして、それだけ、と答えた。
真琴の心底不可解な表情が少し面白い。
天人を見つめて、何かしら考え込んでいた大和は不意に口の端を緩めると、良かろうと一つ頷いた。
「局長?」
「迫、残りの報告はデータと共に私の端末へ送信しておけ」
「はい、ですが」
「いい」
真琴の言葉を片手で制して、行こうか、と天人を促す。
天人はちらと真琴を伺い、すぐ戻りますと軽く頭を下げると、踵を返して歩き出した。
揺れるフードの飾りを追うように大和が続く。
部屋を出て、暫く進んだ辺りで、改めて背後から「何かあるのか?」と尋ねる声が聞こえた。
警戒している風ではない、普段は凛として付け入る隙の無い大和の、どこかのんびりとした気の置けない様子に天人はクスリと笑う。
「あるといえばあるけど、大和には呆れられるかも」
「お前に関して大概呆れている、君は、優秀だが変わり者だからな、私の尺度で測るのはもう諦めた」
「そうなの?」
「まあ、いずれ私好みに染め上げてやろうと思っているが、匙加減が難しい、なにせ君は頑固で、その上鈍いからな」
思わず黙り込んだ天人は、頬に甘い熱を覚えて、そんなの知らないよ、と小さく口を尖らせた。
「結構」
声が笑う。
「君は君のままでいい、私はありのままを損なうことなく虜にしてみせよう、楽しみだな、天人」
「ノーコメント」
「相変わらずつれない」
背後の楽しげな気配に、天人は動悸に合わせて少しだけ歩く速度を上げた。
国会議事堂正面玄関前のポーチには、かつて何台もの高級車が乗りつけて、要人の送迎を行っていた。
そういう場面をテレビの映像か何かで見たような覚えがある。
今は、車の影どころか、街灯すら灯っていない。
かつて真昼の如く街を席巻した人工の光は、天災という名の神の御手により駆逐されてしまった。
夜は、ただ夜として、深く暗く沈む闇の世界―――けれど空は元よりそれだけではない。
こんなにあったのかと圧倒されるほど無数に輝く星々が、地表に淡い光を投げかけている。
そして、天頂より少し西へ傾いた空に鎮座する、黄金の月。
頬を撫でる風は少しだけ肌寒くて、天人は小さく鼻を啜る。
「ほら」
指差した先で瞬く二等星。
隣に立った大和が、オリオンの三ツ星か、と呟いた。
「詳しいね」
「まあな」
「その下の三ツ星の間にあるのがM42オリオン大星雲、だよね?」
「ああ、ベテルギウスから進んで、シリウス、プロキオンを結ぶと、冬の大三角形」
「リゲル、シリウス、プロキオン、ポルックスとカストル、カペラ、アルデバランを結ぶと、冬の大六角形、でしょ」
振り返り、詳しいな、と大和が笑う。
「君は実に博識だ、話が尽きん」
「そうでもないよ」
天人も微笑み返す。
「俺は、一人の時間が多かったからさ、人より本を読んでいるだけ、勉強したわけじゃないから、あんまり実用的とは言えない」
「そうでもないさ」
大和は再び空を見上げて、僅かに瞳を眇めた。
「君は十分得た知識を役立てているだろう、現に今、私と会話が弾んだじゃないか、学びは形式でなく成果だ、天人、もっと自分を誇りたまえ」
「大和は俺を褒めるのがうまいなあ」
「この程度で己惚れてくれるなら、もっと容易く扱えたのだろうが」
笑う大和の腕を軽く小突いて、天人も空を見上げる。
「昔ね」
冬の空を彩る星座。
「大地とナイトハイクしたんだ」
「何だ、それは」
「夜の散歩、夏休み、電車に乗ってさ、一泊二日で郊外の川沿いをずっと歩いた」
うだるような熱の名残を残す夜風が川面を渡り、頬を撫でる。
街灯もない川べりの道、見上げた夜空で瞬く星々。
「もっと大きな河に注ぐ合流地点まで行って、そこで、空いっぱいの星を見た」
大地は大はしゃぎしていた。
持ってきた花火を点火して、河原で存分に楽しんで、片付けが済んでから水につけて冷やしておいた缶ジュースを飲みつつ、土手に腰を下ろして満天の星を眺めた。
あれがシリウス、カペラ、オリオンの三ツ星、ポルックス、カストル、おうし座の背で輝くスバル。
指差し繋いで示すたび、間の抜けた歓声が上がって、隣を見たら大地が口を半開きにしていたことまでよく覚えている。
「楽しかった、一度きりだったけれど」
二度行かなかった訳は特に無い、ナイトハイク自体が半ば思い付きの計画だった。
都心では見ることの叶わなかった星空を久々目の当たりにして、懐かしい思い出に呼ばれた所為だと、恐らく勘付かれただろう。
感想の無い横顔を天人はそっと窺う。
見慣れているはずの大和の姿は、白い光を受けて淡く輝き、そこだけまるで別空間のような雰囲気を醸している。
時折瞬きする長い睫毛も、風に揺れる銀の髪も、夜明け前の空を思わせる濃灰色の瞳も、何もかも、天人の心を魅了して止まない。
見惚れていたら、薄い唇に笑みが滲んだ。
「そうか」
不意に指が絡む。
驚いて目を丸くする天人に、振り向いた大和がからかうような視線を注ぐ。
「ロマンティストだな、君は」
「そうかな」
「フフ、ムードに呑まれたわけではないと願いたいよ、君がそうして瞳奪われる対象が、私だけであって欲しい」
「そういうわけじゃ」
「では何故、志島ではなく私に声をかけた、どうして私を誘ったんだ?」
「それは」
単なる思い付きだよと答えつつ、天人はふいと顔を背ける。
頬が少し熱い。
隣で笑う気配が伝わってくる。
「大和は、あんまりこういう事しないだろうと思って、今は誰よりも忙しいだろうし」
「ふむ」
妙に感心したような相槌が聞こえて、キュッと手を握られた。
うわ、と声を上げる天人に、色気が無いと大和が笑う。
「そこまで甲斐甲斐しく私を想ってくれるなら、もう少しサービスしても良かろう、君からの言葉が欲しいな、天人」
「言葉って、何?」
「私の提案ではつまらない、それでは労いにならん」
「じゃあ」
口を開きかけて、噤み、再び目を逸らした天人に、大和の溜息が聞こえる。
「やれやれ」
繋いだままの手から肌に温もりが染み込んでくる。
―――星が一つ流れた。
「冷えてきたな」
振り返ると、大和は白い息を一つ吐き出した。
「いい加減戻るぞ、もう気も済んだだろう」
うん、と頷き返した天人に、軽く苦笑いする。
直後、再び不意打ちで引き寄せられて、鼻先の触れ合うような距離から微笑む大和が天人の海色の瞳を覗き込んだ。
「今度は夏の大三角形をなぞろう」
「えっ」
「その時は私から誘う、君は、今夜の返礼に必ず受けるように、いいな?」
パチパチと瞬きして、うわっと赤くなり動揺する天人を眺めて、大和は声を立てて笑った。
何故か今夜は闇に潜む獣たちの唸り声も聞こえてこない、ただ静かに星明かりが降り注ぐ。
一向に離す気配の無い手を引いて、行くぞ、と歩き出す大和に連れられながら、天人はコートの背中に暖かな気配を覚えていた。
未来の約束を想うだけで心踊る。
冬の気配を孕む風が、夏の熱気に染まる頃、俺たちはどうなっているのだろう。
大和は今夜の様に、また呆れて、笑って、楽しんでくれるだろうか。
繋いだ手を天人からも握り返せば、ぎゅっと力を込めて答えてくれる。
少し歩く速度を上げて、大和の隣に並んだ。
こちらを伺う濃灰色の瞳に、天人はそっと身を寄せるようにして囁きかける。
「有難う―――約束、守るよ」
横顔が微かに笑った
終末の世界で変わらず星が輝くように、絶えない誓いもきっとある。
大和の銀の髪に光の残滓を見つけながら、天人は深く胸に広がる想いと共に、そっと微笑んでいた。
※BackMusicはアメジストでした、夏の夜空を見上げるヤマ主とか私得過ぎる。