不意に通路の向こうから賑やかな気配が伝わってきた。
立ち止まり、耳を澄ませる。
一人は不躾で品のない話し声、確かシジマとか言ったか。
他愛ない内容のようだ、俗世の話に興味などない。
しかし、かしましいシジマの声に紛れて聞こえてくる、穏やかな声が気になった。
聞く者に安堵と信頼を与える音と調子、それは先天的な才か、それとも独自に修得したものか。
時折見せるハッとするようなカリスマ性と合わせて、依然底が知れない。
大和は口元を綻ばせると、ゆったりと足元を踏み締めて近づいていった。
「だろー?あんときはホンッとビビッった」
「いちいち怖がり過ぎなんだよ」
「だってお前、ナイっしょ!いきなりジャンプとか!そんでもって追いかけてくるとか」
「ダイチにだけね」
「あーそうよね、天人スゲーフツーにしてたもんね!幼馴染が襲われてるってのにさ、助けてくんないし!頑張れとか言っちゃって、冷たいったら!」
「ダイチが悪いよ」
「オレですかぃ!」
「それに俺は当番じゃなかった、つき合わされて迷惑」
「あー聞こえなーい、あーあー!でも最後はチームワークの勝利だったよな!」
「踏まれてただけの奴が、よく言う」
「聞こえませーん、子供に鳥小屋掃除なんてさせるもんじゃないって話ですよ!」
「はいはい」
「楽しそうだな」
急に声を掛けられたからか、それとも、声の主が自分だったからなのか、ひどく驚いた様子で大地は声を上げながら仰け反り、その隣で壁に寄りかかるようにしていたもう一人が軽く手を上げて応える。
「ヤマト」
「ああ」
大和も片腕を上げた。
こうして気安い挨拶を交わす相手は他にいない。
そもそも、これほど砕けた態度を許す相手も他にはいない。
白羽天人。
誉高き峰津院家の宗主である大和が認めた、ただ一人の男。
天人はクセ毛の髪の間から覗くブルーの瞳をかすかに眇めて、唇に淡い笑みを滲ませた。
「や、ヤマトか、急に声かけんなよなあ」
大地も気安く話しかけたけれど、大和は眼中に無い素振りで天人にだけ声をかける。
「何の話だ?」
「ダイチの昔話」
「ほう?」
「ちょ、違うでしょ、オレたち二人の昔話!」
「そういえば、確か君たちは幼馴染であったか」
漸く大地にも目を向けて、しかしすぐ視線を天人に戻した大和に、天人は笑いながら「そうなんだよ」と答えた。
「半ば腐れ縁みたいな感じの、たまたま家が近所だったから」
「たまたまって言うな!近所じゃなかったら、オレら友達になってなかったみたいでしょ!」
「あれ、違うの?」
「あまとぉっ」
身を乗り出す大地に、からかうような態度で肩をポンポンと叩いて返す、傍目に天人は楽しげだ。
「お前みたいに手間ばっかりかかる面倒臭いヤツ、幼馴染でもなかったらゴメンだよ、でも、仕方ない」
「仕方ないってゆーな、うー、クソぉ」
「仕方ないは仕方ないだろ、幼馴染は選べないんだから」
その言葉が大和の胸を僅かに揺らす。
しかし理由が分からず、多少の不快感が募る。
「それで」
声を割り込ませると、振り返った天人が「ああ」と答えた。
「小学生の頃、鳥小屋掃除をしたときにさ」
「あ、天人ぉっ」
「何だよ、大した話でもないだろ」
「で、でも、オレ格好悪ぃ」
「大丈夫、今でも充分格好悪いから」
「ちくしょぉ、言ってくれるなあもう!」
天人はいつでも大地を上手に宥めて大人しくさせてしまう。
いや、志島大地だけではない、人心を操舵する術を天人は心得ている。
一体どこで身につけたのだろう。
それとも彼が生まれ持つ才の一つなのか。
これまで市井に埋もれていたことが返す返す惜しまれる高い潜在能力。
やはり、天人は稀有な存在に違いない。
その天人の言葉であれば、大和も素直に聞き入れることが出来た。
いや―――恐らく理由はもっと別の所にあるのだろうが。
どうでもいいと胸中で前置いて、大和は「聞こう」と告げた。
軽く笑った天人が大地を押さえ込みながら続きを切り出した。
「鳥小屋って分かる?そうだな、大体二メートル四方の木の枠組みに金網を張り巡らせた感じの簡単な小屋で、地上から一メートルくらいの位置に何本か枝が渡してあるんだ、その中で、鶏とインコを飼ってる」
「何のために?」
「情操教育の一環だと思うけど、小さな生き物を大切にする事で、命を敬う精神を育成する、みたいな」
「ほう」
公共の教育機関に属した事のない大和のための講釈だろう。
実際、『鳥小屋』と聞いた時、想像したのは養鶏場のような巨大な施設だった。
問わずとも、相手の心中を察し適切な表現を用いる、それは存外難い技術と心得ている。
大和は興味深く頷き返した。
話し上手な天人は、こうしていとも容易く相手の心を惹き込んでしまう。
「それで、その鳥小屋を、当番制で生徒達が掃除するんだけどさ」
「う、や、やっぱり話すの?」
食い下がってくる大地の額を指で軽く弾いて、天人は、しつこい、と一蹴した。
大地に対する天人の態度は、他の誰より辛らつで容赦がない。
しかしそれは、裏を返せば信頼や好意の現われとも取れる。
釈然としない思いが軽い不快感を呼び起こしていた。
確かに、過ごした時間の長さこそ至らないかもしれないが―――
「一人じゃ怖いからって、ダイチ、当番じゃない俺をつき合わせて、掃除に行ったんだよ」
「だって、あんときは!」
「もう一人の当番の子は病気で欠席、だったんだよね」
「そそ、そーだよ、だから、一人じゃちょい大変だろ?だからさ」
「子供二人で鳥小屋の掃除か?規模は理解したが、中に何羽ほどいる?二人でも手が足りんだろう」
「いや、そこまで本格的じゃなくて、落ちている糞や食いカスをホウキで集めて捨てるのと、エサの補充だけ、中にいたのは鶏が三羽と、確か、インコが五羽くらいだったかな?大した数じゃないよ」
「なるほど」
「それで、その、小鳥数羽と鶏数羽の大した事ない鳥小屋に、ダイチは一人で入るのが怖かった、と」
「たた、大したことない連発すんなっ、だってニワトリこえーじゃん!アイツらマジ強暴だぜ!知ってるか?」
「知らんな、新種か?」
「普通のブロイラーだったと思うよ、雄鶏一羽に雌鳥二羽」
「大した事無かろう」
「小学生には大した事でしょ!」
「大人しいヤツラだったよ、お前が怖がってたから、バカにされたんでしょ」
「うう〜、お前まで!卑怯者!」
口を尖らせる大地に、天人が笑う。
「あんなに縮こまってそろそろ小屋に入ってきたら、警戒だってされるよ、雄鶏が鳴いた途端悲鳴上げたの誰だっけ?そのまま襲い掛かられて、雌鳥にまで突付かれて、小屋から危うく逃がすところだったじゃないか、つられてインコも暴れだすし」
「だ、だから、アレは」
「それで」
振り返った天人の青い瞳に大和は一瞬で捕らわれていた。
「転んだ大地がたまたまドアを塞いだから、その隙にさっさと掃除や餌やりを済ませて、後は鳥を追い払って小屋から出たよ、そのまま保健室に直行したって話、養護教諭の先生がビックリしてた」
「何故?」
「ここまで派手に襲われた子初めて見たわってさ、笑われたよね?」
「天人!」
繰り出されたパンチを掌で受けて、逆に腕を捻りあげた天人から脇腹をくすぐられると、大地は身を捩って、やめて、やめてと繰り返す。
それを見て天人はまた楽しげに笑い、大和の中に新たな不快の芽が首をもたげていた。
「懲りたら、もうちょっとどうにかしなよ」
「うるせーっ、オマエは図太すぎなの!オレは繊細なんだから!」
「誰が何だって?聞こえないな」
「マネすんなっ、そいうのが図太いってゆーのよ!」
「ダイチのは繊細じゃなくて、貧弱って言うんだ」
「聞こえてんじゃないのさ!」
じゃれあう二人を眺めて、大和は意図せず溜め息を漏らしていた。
どう、表現したものか、しかしこれ以上付き合うのはくだらないと結論付けて、去ろうと思う。
無駄で無為な一時を過ごしてしまった。
天人が悪い、彼が、楽しげに話などするから、志島大地と馴れ合っているから、悪い。
二人の楽しげな様子を眺めていると、居た堪れない焦燥感を覚える。
幼馴染は選べない。
天人の言葉は恐らく本心のものではないだろう、しかし、真実ではある。
―――何故。
大和は瞳を眇めた。
「天人」
振り返った天人が「何?」と軽く首を傾げた。
「暇つぶしにはなった、しかし、ここは通路だ、あまり長居をするな」
「ああ、悪い、もう行くよ」
「それなら私に少し付き合え」
「え?」
「時間があるなら、君の手を借りたい、どうだ?」
少し驚いた表情で、天人だけでなく、大地まで瞳をパシパシと瞬かせていた。
自分はそれほど妙な事を言っただろうかと腕組みする大和に、天人がニコリと笑い返してくる。
「いいよ」
「うええ?マジで」
仰け反る大地を肘で突いて、天人は大和の傍に来た。
「手伝うよ、俺に出来ることなら」
「ああ、さほど難くは無い案件だ、では、行こう」
「うん」
コートの裾を翻して歩き出す。
傍らをついてくる天人に、背後から大地が「ごくろーさん」と呆れた声を投げかけてくる。
振り返った天人が「後でな」と返して、軽く手を振っていた。
大和は横目でチラリと伺うと、僅かに歩く速度を上げた。
罪悪感とまではいかないが、妙な後ろめたさがある。
天人にだけは気づかれたくない。
「ヤマト」と呼ばれて「何だ」と答えると、天人が隣に並んで、顔を覗き込んできた。
「今度ヤマトの話も聞かせて」
「私の?」
「そう、子供の頃の話」
何故だと尋ねると、天人は微かに笑った。
「聞きたいからだよ、ヤマトがどういう人生を過ごしてきたか知りたい、それだけ」
「なら、対価に何を差し出す?」
「対価が要るの?流石だなあ」
「安くは無いぞ、どうだ」
「じゃあ、俺の昔話は?」
暫く無言で歩き、大和の唇にフッと笑みが滲んだ。
「よかろう」
―――幼馴染とは、後天的にも作れるものなのだろうか。
馬鹿げた考えが頭を過ぎると同時に、胸の痞えが溶け出していく。
やはり、君は私にとって非常識な存在だと、確信を深める。
隣を歩く天人の足音が、やけに心地良く聞こえていた。