グズグズと鼻を鳴らしながら目を開いた。
何か聞こえたような気がして耳を澄ますと、やはり、来客を告げるチャイムが鳴っている。
誰だこんな時にと無視して上掛けを被ろうとして、合間に聞こえた微かな声が再び眠りに落ちようとしていた篤郎の意識を覚醒させた。
「―――レン?」
ふらりとベッドから降りて、裸足の裏にひやりとしたフローリングの感触を覚えながら歩き出す。
眠る前に測った体温は39度7分、浮遊しているような脱力感と共に節々がしみじみと痛い。
篤郎は今、風邪をひいている。
ロックを外し、鍵を解いてノブを捻り、開いた扉の隙間から覗きこむと、予想通りの相手が心配顔で佇んでいた。
「アツロウ」
「よう」
二日ぶりの再会が嬉しくてフニャリと笑いかけると、和哉は「具合悪そうだな」と更に表情を曇らせた。
それをみて、今度は申し訳なくなり、苦笑いしつつ「どうしたんだよ」と尋ねると、片手のビニール袋を目の高さに突きつけられる。
「見舞い、色々不便してるんじゃないかと思って」
「え?」
「お邪魔していい?」
俄かにときめいて、しかしすぐ篤郎は口篭ってしまう。
「悪いよ、まだ熱とかあるし、気持ちだけで充分だから」
「でも」
「お前にうつしたらナオヤさんに叱られちまう」
「そんなわけあるか」
「家ン中もちらかってるしさ、ちゃんと病院行って薬貰ってきたから、もう暫く寝てれば治るって」
大丈夫、大丈夫と繰り返していると、急に和哉が苛立ちを露にして睨みつけてきた。
常々男にしておくのが惜しい美形と思っているけれど、こうして強く見詰められると色っぽくて参ってしまう、正直、直視に耐えない。
思わず目を逸らすと同時に問答無用で胸倉を掴まれ、驚いている間に、噛み付くようなキスをされた。
硬直する篤郎の半開きの唇の隙間に無理矢理舌を捻じ込ませて、思う存分口腔内を舐り、ぷはっと勢い良く顔を起こした和哉から今度は至近距離で再び睨みつけられる。
「これで、もう、うつすとか関係なくなったな?」
「れ、レン」
濡れた唇がニヤリとイタズラめいた笑みを浮かべる
そうすると、和哉の姿は本当に艶めかしくて、胸が早鐘のように鳴る。
俺は病人だぞ?あんまり煽ってくれるなと、篤郎はつくづく思ってしまう。
「―――看病してやるから家に上げろ、じゃないともっかいキスするぞ」
本能が挙動を拒み、けれど理性でいなして慌てて家の中に逃げ込もうとする篤郎の後から、ネコを髣髴とさせる動作でスルリとドアの内側に入り込んだ和哉がそのまま後ろ手に鍵をかけてニコリと笑った。
「こ、こら!」
「残念、入っちゃいました」
今更もう拒めないなと溜息が漏れた。
彼の兄同様、頑固で強情で言い出したら聞かないのが蓮見兄弟の特徴だ、高校に入ってからの付き合いだけれど既にかなり理解している。
(まあ、もう慣れたけどさ)
「アツロウ?」
顔を覗き込まれてビクリとした篤郎に、やっぱり具合悪そうだ、と和哉は心配を表情に滲ませた。
傍にいるだけで、何だかいい匂いがして、キスしたり抱きしめたりしたくてたまらなくなってしまう。
思わずふらりとする篤郎を慌てた両腕が抱きとめると、それで更に余裕をなくした親友の心理などまるで気付いていない調子で「もういい寝てろ」と廊下を引きずるように連れて行かれる。
「こういう時、一人暮らしって大変だよなあ」
暢気な声に篤郎は苦笑いする。
篤郎は、一応、書類の上では両親と同居となっている。
けれどもう何年もシリコンバレーで働く彼らが帰国するのは年に数回程度で、実態は一人暮らしのようなものだ、普段はたいして気にならなくても、こうして暮らしに不都合が発生すると、つくづく一人の心細さを感じてしまう。
熱に浮かされていても、食欲が無くても、世話をしてくれる人などいない。
片付けもままならない部屋は汚れる一方で、空気はよどみ、全身の気だるさと相まって、いい加減うんざりしていたところだった。
ベッドに放り出されてウンウン唸っていたら、近くを漁っていた和哉が戻るなり篤郎の寝巻きを強引に剥ぎ取り始めた。
「こ、こら、レン、なにすんだ」
「着替え、汗かいてるだろ」
いつの間にか用意していた濡れタオルで篤郎の体を丁寧に拭いて、清潔な肌着とパジャマに着替えさせると、ベッドの中に押し込められる。
幾らかスッキリした気分でひと心地ついた篤郎がふと視線を向けると、ベッドサイドに腰掛けた和哉が気遣うような笑みと共に、汗ばんだ額にかかる前髪をそっと払いのけた。
「こんな時ぐらい、気なんか遣わないでよ」
「悪ぃ、レン」
「だから、いいんだってば」
額を軽く突付く仕草に、篤郎も思わず笑ってしまう。
立ち上がった和哉が部屋を出て行くまで見送って、不意に溜息が漏れていた。
本音は心底ありがたい、けれど同時に申し訳なくて、そして、モヤモヤしている。
見舞いに来てくれたってのに何興奮してるんだと節操の無い自分が恥ずかしくて、上掛けに潜り込んだ。
和哉が触れたところ全部、仄かに発熱するようだ、もっとも熱ならあるのだろうけれど。
キスの名残を思い出しつつ、甘い感覚に酔いながら、篤郎の意識はゆっくり溶けていった。
目が覚めると、和哉が傍にいた。
「起きた?」
汗で濡れた前髪を押し上げて、冷たいタオルで額を拭われる。
「ん」
首や胸の辺りも拭い、少し起き上がれる?と訊かれて、身じろいだ篤郎の背中に和哉が腕を差し込んで、支え起こしてくれた。
「お粥作ったよ、食べて」
「うん」
「片付けしてる時見たけど、お前インスタントのお粥とかヨーグルトばっかり食べてたんだな、それじゃ良くならないよ」
「ハハ―――無理言うなって、風邪ひいてんのに、メシなんて作れるわけない」
「だから俺を呼べって言ってるんだよ、バカ」
腰の辺りに枕を沿えてクッション代わりにすると、膝の上におもむろに粥をよそった椀の乗った盆が置かれる。
美味そうな匂いと暖かな湯気に誘われて、添えてあったレンゲでそっとひと口掬い上げて含むと、程よく塩気の利いたまろやかな味が舌の上に広がった。
「食えそう?」
頷いて、「うまい」と見上げた和哉は嬉しそうにはにかんだ笑みを見せてくれた。
溜らず篤郎もふやけた笑みを返すと、もっと食べろと勧められる。
「しっかり食べて、早く良くなれ」
「ああ、色々悪いな」
「いいって言ってる、そんなに気にするなら、後でお返しさせるぞ」
篤郎はつい普段の調子で笑ってしまって、案の定直後に盛大に咽ると、背中を擦りながら「仕方ないな」とぼやく和哉の声が聞こえた。
「―――アツロウがいないと張り合い無いよ、今日、泊まってくからね」
「え?」
「一晩みっちり看病してやる、月曜には復帰させるからな」
「ちょ、ちょっと待て、駄目だって、マジでお前まで風邪引いちまう」
「アツロウは俺の作ったお粥でも食べて寝てればいいんだよ、病人に反論の余地なし」
あわてて振り返った先に見えた和哉の様子が、言葉と裏腹に酷く不安げだったから、篤郎はそのまま言葉を詰まらせて、ただじっと見詰めてしまった。
―――随分心配していたのだろう。
申し訳なくて、何だか切なくなってしまって、ゴメンと言いかけた唇に再び和哉から口付けられた。
まるで慰めるように、暗に気遣いは要らないと伝えるような柔らかな触れ合いを二度、三度と繰り返した後で、ゆっくり離れた先の姿が少し困った様子で微笑みかけてくる。
「お願い」
「れ、レン」
「看病させて、俺、心配でどうにかなっちゃいそう」
「けど、お前」
「アツロウがいないと寂しいんだ」
「レン」
「それとも、俺が傍にいると、邪魔?」
グッと心臓を鷲掴みにされたように、篤郎は瞳を眇めて唇を噛む。
もどかしい想いと共にレンゲを握り締めていた手から不意に力を抜いて、ああもう、と小さく呻いた。
本当は今すぐ押し倒して、邪魔どころかいつだって欲しくて堪らないのだと行動で示してやりたい。
所詮自分が和哉に逆らえるわけがないと―――今更思い知った気分だ、こういうのを多分惚れた弱みとかいうのだろう、認めざるを得ない。
「わ、かった、よ」
和哉の僅かに潤んだ瞳がじっと自分を見ている。
それだけで興奮して、下腹の奥の方がざわめき熱を帯びる。
「レンの好きにしていいよ、どうせ俺が何言ったって、帰らないつもりだろ?」
「よく分かってる」
「分かるよ、ったく、頑固なんだから、やっぱナオヤさんの弟だよな、お前」
「ナオヤは従兄、っていうか、それナオヤに告げ口してやるからな」
「ちょ、レン!」
チュッと頬に口付けされた。
そのまま軽やかな動作で立ち上がり、「お粥、食べ終わったらお盆どかして適当に寝ろよ」とだけ告げて、和哉はどこか浮かれた様子で部屋を出ていった。
看病を許されてそんなに嬉しかったのかと篤郎も僅かにニヤついてしまう。
今頃になって部屋がすっかり片付いていることに気が付いた。
多少換気もしたのだろうか、空気までスッキリしている。
改めてスゲエと呟き、何だか彼女が見舞いに来てくれたみたいな展開だと思って、急に照れた。
実際殆どそんな関係だけれど―――空の椀を乗せた盆を机の上に置き、ベッドに潜り込む。
嬉しくて堪らない反面、和哉を殆ど支配している従兄の逆鱗に触れるのではないかという恐れが、篤郎をヒヤリとさせる。
そういえば以前、毎週末泊まりに行っていると聞いた、和哉は予定を変更して看病に来てくれたのだろうか。
(そうだったら、ちょっと嬉しいかも)
自分にとっても神にも等しい存在の、彼より優先されたようで僅かに心躍る。
ナオヤさんスンマセンと形ばかりの謝罪を胸で呟きつつ目を閉じると、そのまま篤郎は再び眠りへ落ちていった。
ネコちゃんは丈夫なのでこの程度じゃ風邪ひきませんが、何故かおにいやんが風邪っぴきに。
理由は察してください、アツロウさん涙目、アイツはそういうポジションさ…