「―――ナオヤ?」

呼びかけても返事はない。

ベッドから起き上がり、まだ眠い目を擦りながら改めてシンと静まり返った部屋の中を見渡して、和哉はホウッと溜息を漏らす。

僅かに残る気だるさは兄の仕業だ。

連休に入ってすぐいそいそと遊びに来てみれば、兄は仕事だとかで忙しくしていてつれなく、仕方無しに大人しく家事に勤しんだりしていたけれど、何となく腹が立って自棄を起こしたら、その晩、ようやく仕事が片付いたと言って仕返しのように散々構われた。

肌の上を這う指先だとか、熱っぽい息遣いだとかに意識を失うまで翻弄されて、目覚めてみれば今度は姿が見当たらない。

一体何だと上掛けを軽く蹴り飛ばす。

「せっかく可愛い弟が遊びに来てやってるっていうのに」

当然、兄に頼まれて来た訳ではない。

ただの八つ当たり、それでもやっぱり直哉が悪いと決め付けて、むくれ顔を枕に押し付ける。

ウーウー唸ってバタバタ暴れて、再びムクリと起き上がると、ぐんと伸びをして、あくびを漏らした。

「お腹減ったな」

兄は昔から勝手だから、今更腹を立てても仕方ない。

それに兄を模範として育った自分も充分勝手な性分を自覚している。

まあいいやとベッドから足を下ろして、立ち上がる瞬間ふらりと体が傾いだ。

おもむろに触れた下腹を押さえて小さく溜息を吐くと、フラフラした足取りで台所へ向かう。

(さすがにやりすぎだ、ナオヤめ)

冷蔵庫から取り出したパックの牛乳をコップに注いで一気に飲み干し、パックを片付けてから、今度は風呂場を目指した。

脱衣所でサイズ違いのシャツを脱ぎ捨て、浴室に入り、シャワーのノズルを捻る。

素早く降り注ぐ温もりに目を瞑り、肌を伝い落ちていく流れを感じながら、そういえば今日は5月5日だったなと思い出していた。

(こどもの日、か)

シャワーの音に、昔の記憶が蘇ってくる。

 

「折角のこどもの日なのに、雨なんて、ねえ?」

ガラス戸の前で振り返った母は、困り顔の笑みと共に居間でむくれている末っ子を見詰める。

「でも、こんな日じゃ、ゾウさんもキリンさんもトラさんも、みんなお家の中だから、ね?」

テーブルに広げた画用紙に書き殴られた、色とりどりの動物達。

本当は、今頃実物を見ているはずだった。

忙しい父は当然のように休日も不在で、折角の連休を家の中で過ごす息子に母が動物園に連れて行くと約束をした日、いつかの5月5日は朝からどしゃ降りの雨に見舞われていた。

和哉は不満たっぷりに黙々と動物の絵を書き続ける。

ライオン、カバ、カンガルー、ゴリラの子供も見たかった、極彩色のインコやクジャクも。

触れ合い広場でウサギを抱っこするんだと息巻く息子に、母は優しくそうねと笑ってくれた。

ヤギにエサもあげたかった。

ペンギンのショーも観たかった。

「カズくん」

雨の音がうるさい。

「来週、晴れたら行きましょう?明日はママ用事があるから無理だけど、来週だったら」

外に吊るしたこいのぼりも今頃びしょ濡れだろう。

そう思うと急に切なくなって、ポロリと涙が零れた。

ハッとした母がすぐ傍にやってくると、繰り返し頭を撫でてくれる。

「ゴメンねカズくん」

誰のせいでもないと、分かっていても涙が溢れて止まらない。

「ゴメンね」

クレヨンを握り締めたまま鼻を啜っていた背後で、不意に「おい」と、馴染みのある声が和哉を呼んだ。

「泣くな、和哉」

「ナオくん!」

母の声と共に振り返った先に、兄が佇んでいた。

足元に水溜りができている。

白く綺麗な髪からも、ポタポタと雫が伝い落ちていた。

息子のとんでもない有様を目の当りにした母はそのままどこかへすっ飛んでいってしまい、入れ替わりに弟の傍までやってきた兄が、懐から何かの包みを大事そうに取り出すと、テーブルの上にぽんと置いた。

「にーちゃん」

目を丸くしている和哉の頭をグイッと撫でて、自分の手が濡れていることに気づいたらしく、改めて顔を顰めている兄の頭にいきなりタオルが被せられる。

「何してるの、ナオくん!さっきから姿が見えないと思ったら!」

母は怒っているのか、心配しているのか、分からない様子で兄をタオルでワシワシ拭い、そのまま今度は兄を引っ張ってまたどこかへ姿を消した。

目の前で嵐のように巻き起こった出来事にポカンとしていた和哉は、兄が残していった包みにふと目をやると、おもむろに身を乗り出して包みに触れる。

取り出してみれば、紙紐で包まれた紙の包みだった。

微妙な重量感に覚えがあった。

紐を解いて現れた中身に、和哉は目を丸くする。

「おまんじゅうだ」

香りの良い葉で包まれた柔らかそうなまんじゅう。

フワリと漂う甘い匂いが食欲をそそる。

暫くそのまま眺めていたら、ようやく兄と母が戻ってきた。

「ナオくん、ちゃんと髪の毛乾かさなきゃダメよ、今お茶淹れるから、あったかくしてね」

「わかったよ、母さん」

「もう、本当に信じられないったら、こんな雨の日に出かけるなんて」

兄にドライヤーを押し付けて、母は急ぎ足で台所へ向かう。

ふと和哉と目が合うと、直哉は傍に来て再び弟の頭をぐいと撫でた。

「うまそうだろ」

「うん、おまんじゅう?」

「そうだ、柏餅だ」

「かしわもち?」

「こどもの日に食べるものだ、うまいぞ」

フッと笑った兄の、シャツの裾を思わず握り締めていた。

「ねえ、ねえ、にーちゃん」

「何だ」

「にーちゃん、おまんじゅう買いにいってたの?」

「そうだ」

「どうして?」

「お前と母さんと、一緒に食べるためだよ、和哉」

兄の手が、今度は繰り返し、優しく和哉の髪を撫でる。

「こどもの日に何したか訊かれたら、俺と母さんと一緒に柏餅食べたって話すといいだろ、それと、明日もし晴れたら、俺が動物園でもどこでも連れて行ってやる」

「ほんと?」

「ああ、だから和哉、今日は柏餅でも食って機嫌を直せよ」

兄に抱きついて、シャツの腹に顔を押し付けると、洗いたての匂いがした。

心地良い人肌の温もりが、さっきまでの不機嫌をあっという間に消してしまう。

「にーちゃん、かしわもち、ありがとう」

傘を差しても意味が無さそうな雨の中、兄は出掛けてくれた。

落ち込んでいた弟を元気付けるためだけに。

「オレ、かしわもち、大好きだよ」

だからこの柏餅は、特別な柏餅に違いない。

「そうか」

「こどもの日は、かしわもち食べるんだって、みんなにも教える」

「ああ」

「また一緒に食べようね」

「分かったよ、和哉」

湯気の上るカップを手に戻った母が、まだ髪を乾かしていないと兄に注意しようとして、テーブルの柏餅に気付き「あら?」と驚いた声を上げる。

兄弟は顔を見合わせて笑った。

生憎の雨に動物園の予定は流れてしまったけれど、喜びは形を変えて、兄の直哉が届けてくれた。

その時の柏餅が今まで食べたどの和菓子よりも旨かったことを―――今でもよく、覚えている。

 

シャワーを終えて、大きめのバスタオルをまとって脱衣所を出ると、居間にいた背の高い後姿が振り返り「出たか」と微笑んだ。

「随分と寝坊だな、和哉、一体いつまで寝ていた」

「どこ行ってたの?」

「買物だ」

そのままスタスタと台所へ向かう。

入れ替わりで居間に入り、テーブルの上を見て、和哉は思わず頬を染めていた。

「これ」

ポットから湯を注ぐ音が聞こえる。

「服を着ろ、裸で家の中をうろつくな」

「うん」

和哉がベッドルームで着替えを済ませて居間に戻ると、直哉は卓について茶を淹れていた。

湯気と共にまろやかな香気が漂い、和哉も卓につきながら、そっと傍らの兄を見詰める。

「何だ?」

赤い目に宿る気配は柔らかい。

兄から手渡された湯飲みを受け取って、和哉は「うん」と小さく笑む。

「こどもの日は、柏餅を食べるんだったね」

「そうだ、お前が言い出したんだ、覚えていたのか」

「さっきシャワー浴びながら、思い出してた」

「フフ、もしやあの日のことか?なら、翌日ちゃんと動物園に連れて行ったことも、覚えているか?」

「うん、ナオヤと一緒にヤギにエサやって、ウサギ抱っこしたよね」

「それはお前一人でしたことだ、俺は見ていただけだ」

「あれ、そうだっけ?」

「やれやれ、中途半端な記憶だな」

本当に覚えているのかと差し出された皿の上の柏餅に、和哉は手を伸ばす。

「覚えているよ」

忘れるわけがない。

―――いつだって、最後は自分に甘い、優しい兄との思い出は胸に溢れている。

「今年もありがとう、兄さん、柏餅ごちそうさまです」

「フン、精々感謝を胸に刻め、弟よ」

ぐいと頭を撫でられて、子供じゃないんだからやめてよと笑うと、子供にこんなことしないさと抱き寄せられて唇が触れ合う。

5月5日のキスは、柏餅の味がした。

 

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ところで私、柏餅のコトいまいちよく分かってないので、突っ込み勘弁してください。

こいのぼり吊るのもおにいやんと一緒にやったのよ〜!

昂る!