「ねえ、レン?」

声がする。

フッと瞼を上げる。

「ユズ」

覗き込んでいた柚子が、ニコリと笑って隣に腰を下ろした。

和哉も体を起こして、両腕を膝の上に乗せながら「何?」と問いかける。

「うん、あのね」

お礼が言いたくて。

伏し目気味に話しながら僅かにはにかむ。

「昼間さ、ハルの自殺を、止めてくれたでしょ?だから、ありがとうって」

「そんなことか」

「―――そんなこと、じゃ、ないよ」

モジモジと両手を組んだり解いたりしながら、もう一度「そんなことじゃないんだから」と呟いた。

「私にとっては凄く大事なことだったんだ、だから」

「どういたしまして」

赤い顔でエヘへと笑った柚子は、そのまま、暗い公園の風景に目を向けた。

「私さ、ツライ時とか、悩んでる時とか、ハルの歌に随分助けてもらったんだ、何かさ、こう、言葉とか音じゃなくて、心が直に伝わるっていうか―――ハルの声、そういう気がするの」

両手をキュッと握り締める。

「だから、少しでも、ハルに恩返し、したくてさ」

柚子にとってハルがどれだけ貴重で価値ある存在か、今の姿を見れば充分理解できる。

幸福に頬を染める幼馴染の姿を久しぶりに見たと、和哉は瞳を眇めた。

「あはは、私、何言ってんだろ?伝えるのって難しいなぁ」

伸ばした両足を少し持ち上げると、降ろしながら今度は体を軽く折り曲げる。

「とにかく、ありがと!レンがいてくれて、良かった!」

「オレも」

「え?」

振り返った柚子の髪に触れた。

「ユズがいてくれて、良かった」

「れ、レン?」

「一人じゃなくて良かったって、ずっと思っているよ」

―――昼間、篤郎から貰った言葉が胸に蘇ってきた。

お前は一人じゃない。

その言葉の真意は、多分自分が思っているものと別の所にある。

神田から渋谷に戻る途中で立ち寄った九段下での光景。

人が人を殺す理由は様々だろうけれど、遍く生物は突き詰めれば私利私欲でしか生きられない。

和哉は和哉の事情で篤郎や柚子の心情を推し量っていたが、篤郎には篤郎の、柚子には柚子の事情がある。

当たり前だ、なのに、不安が目を眩ませて、偏見と推量の迷路に閉じ込められた。

他を顧みなくなった結果が、翠を迫害した暴徒や九段下で悪魔を使役して民間人を襲っていた警官達のように、極端な行動に走る人々の姿なのだろう。

誰かのために我慢は必要だけれど、時には、相手を思って我を通す事も必要なのだと知った。

(そのためには力が要る、ただの暴力で終わらない、望みを叶えるための力が)

体が変化に馴染んでいくように、少しずつ、もつれた心の糸が解けていくようで、和哉は大切な人の姿を思い浮かべながら胸の奥で繰り返す。

俺の闘いは俺独りのものじゃない。

変わっていく自分も、きっと受け入れることが出来る。

「レン?」

首を傾げる柚子に笑いかけると、途端、面白いくらい頬を赤く染めてあたふたと慌てだした。

その手を易く捕まえて、両手で包むようにしてそっと握り締める。

「れ、れ、れ、レン!あの、わっ、私!」

「こっちこそ、ありがとう」

命の温度が伝わりあう。

「守るから」

大切に想う人々、誰一人として無慈悲な御手に奪わせない。

そのためにはベルの悪魔だろうが、神だろうが、退けてみせる。

「オレが、守るからな」

柚子の潤んだ瞳がじっと和哉を見つめていた。

身を寄せる仕草に、肩を抱こうとした直後、すぐ傍からキャーと場違いな悲鳴が上がった。

「な、何!」

柚子がパッと和哉から離れるのとほぼ同時に、草むらを揺らして立ち上がった翠が叫ぶ。

「アツロウさんのバカー!」

「ええっ」

見れば、翠の近くで両手にペットボトルを持った篤郎が、唖然と立ち尽くしていた。

「な、何が、って言うか、何でそんなところに隠れてたの?」

「もうっ、鈍感!あとちょっとだったのに!」

「ちょっとって、何が」

「知らない、アツロウさん最悪!ホント空気読めない」

「だから何が」

言い合う二人の間にヒュッと冷たい気配が吹き込む。

本日二度目の地を這う声が、夜闇すら戦慄かせて響き渡った。

「み〜ど〜り〜ちゃあああん〜?」

翠はあからさまにバツの悪そうな表情で「えへへっ」と笑い、驚くほど俊敏に身を翻して駆けて行く。

「こらぁ!ちょっと、待ちなさい!そんな所で何してたのよ!」

「うわあん、ごめんなさいー!だってぇー!」

「だから、待ちなさいって言ってるでしょぉ!」

猛然と後を追う柚子と二人、暗がりの奥へ消え去る様子を呆然と見送っていた篤郎が、急にハッとして「程ほどにして戻ってこいよ」と、既に姿の見えない風景に呼びかけた。

そのまま、吹く風に溜息を一つ、ベンチの前まで来て、和哉の隣に腰を下ろした。

「なあ、ひょっとして、今、いい雰囲気だったとか?」

「どうかな」

「ちぇ、いいけどさ、別に」

ハイと手渡されたペットボトルのキャップを捻り、汲んだばかりの水道水で喉を潤す。

「けど、ああして元気な姿見てると、安心できるよな」

「そうだね」

「ハハハ!ま、ソデコはご愁傷様だ、オマエってホント悪い奴だよ」

「まだ何もしてない」

「まだって」

軽く脇腹を小突かれて、和哉もつい笑ってしまう。

「―――なあ、アツロウ」

「ん?」

「昨日、直哉と会ったよ」

風が吹く。

沈黙の後で、篤郎が「そうか」と答えた。

「―――そうじゃないかなって、思ってた」

空を見上げて溜息の様な息を吐く。

「戻ってきたとき、ちょっと様子が気になったからさ」

「そうかな」

「うん」

視線を和哉に戻すと、どこか悔しげな笑みを浮かべる。

「色っぽくてカチンときた、それで、何となく分かっちまった」

「そう?」

「否定しないんだな」

和哉はクスリと笑いながら、篤郎の肩に額を押し当てた。

「知ってるんだろ、今更、謝らないよ」

「けど、やっぱり複雑だよ、なあレン」

「何?」

髪に何か触れた。

耳朶を食み、吐息が首筋に吹きかかる。

「オレと、ナオヤさん、選ばなきゃならないとしたら―――オマエは」

そこで声は途切れて、ギュッと抱きしめられた。

篤郎の気持ちが分かるから何も答えられない。

背中を抱き返すと、泣き笑いの様な気配と共に触れる温もりが微かに震えた。

「いいよ」

そっと腕を解きながら、和哉を覗き込む篤郎は穏やかに微笑んでいる。

「それでも、オレはレンが好きだから」

触れ合う唇が熱い。

「ずっと傍にいる、約束するよ、オマエが何を見ていても、俺はオマエについていく」

「アツロウ」

「それで―――いつか、オレを選ばせてやるさ、オマエじゃなきゃダメだって、言わせてやるからな」

「そんな日来るかな」

「このやろ、言ってろよ」

互いに額を小突きあって笑う。

以前は当たり前のように過ごしていた穏やかな時間が、今は泣けるほど愛しい。

「アツロウが好きだ」

言葉にして伝えると、篤郎は瞳を眇めてためらいがちに笑った。

「うん、オレも」

互いに秘めた花。

自分に向けられる想いと、よく似た想いを篤郎が柚子にも抱いている事を、知っている。

けれど天秤にかけて自分を選ぶというのなら、何も聞かずに受け止めよう。

俺たちの関係は許しあうことで育まれるのだろうから。

―――それとも、許しを望むのは俺だけなのだろうか?

近いようで遠く、けれど、何より確かに伝わり合う篤郎の心の音を聞くように、胸に頭を寄せた。

そんな事をしても本当の想いなど見えはしない。

髪を撫でる感触に、直哉の手を思い出しながら目を閉じる―――けれど、この手は直哉と違う。

ぎこちなくて、けれど暖かい、もう一つの特別な掌。

「レン?」

寝ちゃうなよ、と聞こえて、寝ないよ、と答えたら、笑い声が返ってきた。

柚子と翠が疲れて戻るまでの僅かな間、今だけは、はばかり無く触れ合っても構わないだろう。

今朝からずっと憂鬱な影を落としていた違和感や不安は殆ど消えかかっていた。

そして―――まるで根本から塗り替えられていくように、和哉の中で新たな意志が息衝き始めていた。

 

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