「NO-Title10」
途切れない雨音を聞きながら、そのほかに何も聞こえない部屋で一人きり、壁にもたれて文庫本のページをめくる。
つい二日ほど前に買ったばかりのもので、本当は学校の休み時間にでも読もうと思って用意しておいたものだった。
特にやることなど何も無くて、急にぽっかり空いてしまった時間を持て余すようにこの本を取り、そうして読み出してしまえばもうやめることなど出来なくなってしまう。
紅葉の目は文字を追っているようで、その実ぼんやりと他の事を考え続けていた。
今日は、光と出かける予定だった。
朝起きると酷い雨降りで、うんざりした直後に電話が鳴った。
でると、彼で、今日の予定は取り消しにして欲しいと頼んでくる。
こんな雨じゃ出かけても仕方ないでしょうと言うのだった。
確かにそうかもしれない、でも、そんなことじゃないのに。
はっきり言ってかなりショックだった。
だから、特にそれ以上追求する事も無く、つい承諾してしまったのだった。
電話を切ってから後悔した。
ちゃんと彼と話し合って、今日は出かけるべきだった。例え雨でも、それでもいいじゃないかと提案するべきだった。
(後悔先に立たず、と言うのは、こういうときに使う言葉だな)
そんな事をぼんやり考えながら着替えを済ませて、朝食のシリアルを食べて、そうしたらもうやることなど何もなくなってしまったので、仕方なく本を手に取った。
掃除をするかと思ったが、どうにもそんな気分になれない。
編み物をしようにも季節は大分暖かくて、生憎と裁断して使えるような布も何も手元に無かった。
勉強、も、そんな感じじゃない。
それなら出かけようかと考えたが、外は本降りの上に強風で、光との約束も無くなってしまったというのに濡れにいくなんて馬鹿みたいだ。
紅葉の家にはテレビは無いから、オーディオでラジオを聴こうとしてやめた。
音楽は雨音だけで十分だった。
座り込んで黙々と読み続けていると、まるで部屋全体が海の底に沈んでしまったかのようだった。
ふう、と、何度目かの溜息がこぼれる。
そういえばさっきから溜息ばかりだ。
本だってろくに読んでいないくせに、僕は何をしているんだか。
そう思って時計を見上げると、そろそろ正午を回る頃だった。
光は今頃何をしているんだろう?
彼は朝寝坊だし、おまけに少しものぐさな所があるから、まだ寝ているのかもしれない。
それともそろそろ起きだして、遅いブランチの仕度でも始めた頃だろうか?
(さっきから光のことばかりだな)
意識していてもいなくても、気付けばいつだって彼の事を考えている自分がいる。
自分の事を思うより、光を想う時間の方がずっと長いなんて少し異常だ。
僕は病気なのかもしれない。しかも、たちの悪い、治しようの無い困った病。
恋の病。
らしくも無い事を考えて、少し気分を悪くしたように紅葉は顔をしかめた。
「馬鹿らしい」
本をパタンと閉じて立ち上がる。
ちょっと約束を断られたくらいなんだ、いちいち落ち込むほどのことでもないだろう。
そう、自分を叱りつけて、昼食の準備をするためにキッチンへ向かった。
(そういえば、冷蔵庫の中にハムと卵があったな)
台所の戸棚にはサンドイッチ用のパンが入っている。全部あわせれば光の好物の一つ、ハム卵サンドの出来上がりだ。
「・・・僕はこんな時まで、そんなことしか考えられないのか」
うんざりして冷蔵庫を開いた時、チャイムの音がした。
紅葉には尋ねて来るような知人も友人も特に思い当たらなかったから、大方新聞か何かの勧誘だろうと思って無視することにした。
チャイムはまだ鳴っている。
冷蔵庫を物色している間も、連続してずっと鳴り続けていた。
「しつこいな、随分」
ドアを閉めて、大仰に溜息をつきながら、イライラと玄関へ向かった。
チェーンを外し、鍵を開けて、それでも「もしも」を予測して十分警戒しつつドアを開く。
「誰だ」
「紅葉」
「光?」
腕を伸ばした姿勢のままで、紅葉は固まってしまった。
滅多に見られない彼の珍しい表情を目の当たりにして、光も少しビックリしたように目を丸くしている。
けれど、次の瞬間には満面の笑みへと変わっていった。
「こんにちは、だよな、もうお昼だもんな」
すっかり気安い彼とは違い、紅葉はまだ驚いた表情を戻せずにいる。
「きみ、どうして?約束は確か」
「うん、この雨じゃ出かけてもつまんないだろうと思って」
「それならどうして」
「だから、紅葉の家にお邪魔しようと思って」
え、と呟く紅葉に光は微笑んだ。
「ここなら雨に濡れないだろ?本もたくさんあるし、一緒にいられるし」
「それはそうだけど」
一緒に、の言葉が少し嬉しくて、段々気持ちも落ち着いてくる。
「ともかく上がってくれ」
傘を差してきた光の、肩と腹から下、特に足元がびしょ濡れなのを見て、急いで中に招き入れた。
風も強いというのに、このままでは風邪をひいてしまうだろう。ともかく中で暖めてやらなければ。
おじゃまします、と断って、彼が敷居をまたいでいる間に風呂場へ行き、タオルを取って戻ってきた。
紅葉に軽く拭ってもらって、そのまま手渡されたタオルであちこち拭きながら居間まで歩く。
光に座るように指示して、紅葉はポットを火にかけるため台所へ向かった。
「紅葉」
大方拭き終えた光が濡れた靴下を脱ぎながら彼を呼ぶ。
「何?」
「今朝さ、俺、約束断っただろ?」
「うん」
「あの時凄くあっさりわかったって言ってくれたけど、紅葉も雨だから出かけるの嫌だったのか?」
紅葉は軽く溜息を吐いた。
「・・・僕は君とは違うよ」
カップを二つ用意して、その中に即席のティーパックを一つずつ放り込む。
「君が出かけたくないといったから、了解しただけだ」
「そうなの?」
「他に理由があるとでも?」
それきり光は何も言わなくなってしまって、紅葉も黙っているとポットがシュンシュンと鳴き始めた。
ミトンで掴んでカップにお湯を注ぎ込み、残った中身を流しに捨てる。その後でティーパックを少し揺らして中身を出してから、光には砂糖とミルク、紅葉は何も入れずに、両方を持って居間へ戻った。
「寒くないか?」
「平気」
目の前に置かれたカップに、ありがとうと言って中身をよく吹いてから飲み込むと、光は紅葉を見てニッコリと笑顔を浮かべた。
「美味しい」
「それはどうも」
すぐ側に腰を下ろしてカップを取ると、様子を見ていた光は微笑みながら少し首をかしげた。
「なあ、紅葉?」
「うん?」
「俺だって、雨が降ったくらいで紅葉との約束断ったりしないんだけどな」
思わずカップを置いた紅葉が振り返ると、金茶の瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。
「一日だって、会わなくて平気な日は無いよ、俺は」
黙って見続けていると、その奥へ吸い込まれてしまいそうだった。
僕だって、同じだ。
君の事を考えない日なんて無い。いつでも、どこにいても、一日に何度かは絶対想ってしまう。
そうしてこんなふうに君に断られたと思った折には、ずっと沈み込んでしまうのだから。
さっきまでと、今と、光が側にいるだけで、世界の色まで違って見えるようだった。
紅葉はそっと瞳を細めて、片手でクシャクシャと彼の柔らかな黒髪を撫で回した。
「やめろってば、もう」
口調は嫌がっている様でも迷惑がっている様でもなく、光はくすぐったそうに笑っている。
それを見て、ポンポンと仕上げに何度か叩いてから、立ち上がった紅葉は台所へ戻りつつ声をかける。
「ハム卵サンドが作れるよ、食べる?」
光の返事は予想通りだった。
「食べる!やった!」
だから紅葉はニッコリ笑ったのだった。
こんな雨の日でも、君がいればいつだって、世界は明るく輝きだすのだから。
ハム卵サンドでも食べて、今日は家で一緒に過ごそう。
(完)