「NO-Title16」
夏の雨は肌に染みるようで、じっとりとして、熱い。
こうしているとこのまま闇に溶けてしまいそうだと思った。
ガラス越しに、彼の影が見えたような気がした。
雨は、苦手だ。
一人きりの部屋で、外から聞こえてきた雨だれにカーテンを少しだけ開けて外を窺いながら、紅葉は僅かに顔をしかめた。
雨の日は静かで、憂鬱で、息苦しい。
いつもは感じずにいる事を思い出させる。
極力都市の喧騒から離れた場所を選んで借りているこの部屋の、外を時々車がしぶきを上げて走る音が聞こえる。
夜は、静かだ。けれど、雨が降るのは苦手だった。
誰もいなければそれでもいいと、そう思いたいのに、一人きりでいるのだと強く感じさせる。
仕事をする日、雨が降っていると都合がよかった。
そんなことまで思い出させる。
雨音は止まない。
君は今頃、何をしているのだろう。
「随分と、感傷的な気分だな」
どこか他人の事を思うように、紅葉は呟いていた。
ここにいても、どこにいても思う、その姿。けれど今は殊更会いたい、声が聞きたい。
その一心で、気付けば携帯に手が伸びていた。
何度か迷って、結局観念して、素直にメモリダイヤルを回した。コール音が一度、二度、三度・・・
ちらりと窺った時計は深夜をとっくに過ぎている。
(そうか)
溜息が漏れた。規則正しい生活を送るのが習慣づいている彼だ、多分もう寝ている。
そんなことにすら気付かなかったのかと、思い詰めていた自分を紅葉は僅かに恥じた。
その時。
「・・・紅葉?」
急にコール音が途切れて、光の声がして、紅葉はぎょっとする。
すぐに自分からかけたのだったと思い直して、慌てて受話器を耳元に押し付けた。
「どうしたの?」
光の声は普段どおりで、特に眠たげな雰囲気はなかった。紅葉は僅かに首をかしげていた。
「君、まだ起きていたのか」
「うん」
「そうか・・・珍しいな」
「そうでもないよ」
そうか、夜更かし位する年頃だったのだなと、思い直して失笑する。
(僕も同い年じゃないか、何を考えているんだ)
どうにも幼く思えてしまう彼の、この耳障りのいい声色が悪いんだと都合のいい理由をつける。
光の声は、いつでも暖かい。
一声一声に癒されていく自分を知っている。
愛情に満ちた、柔らかな響きを聞いていると、紅葉の身の内からも想いがとめどなくあふれ出るようだった。それが嬉しくて、たまらなく幸せで、もっと聞きたいと思う。
もっと、もっと、君の声を僕に聞かせてくれ。
「紅葉が」
「え?」
いきなり振られて驚いた。光はぽつぽつと話し続けている。
「紅葉が、電話、かけてくるんじゃないかなと思ってた」
「僕が?」
「雨が・・・降ってたから」
ドキンとした。
見透かされていた嫌悪感よりも、届いていた想いに唖然とする。
いや、届いていたわけじゃないのかもしれない。
彼は僕の性格を見抜いて、予測を立てただけかも。
それでも想いが届いたのだと、そう思いたかった。この雨がつなげた、僕の思いを。
「光」
「うん?」
電話越しの声はどこまでも優しい。
「今、君はここにいるかい・・・?」
胸に手をあててみる。そんなことをして、光に見えるはずもないのに。
期待していた。
「うん」
光はすぐに答えてくれた。
「いるよ、そこに、紅葉も今ここにいる、俺の側にいる」
バカらしい会話だ。本当にバカらしい。僕が二人いるはずもないし、光は今ここにいない。
でも、僕らはそれぞれの側にいる。
すぐ隣に、この胸の中に、いつでも共にある。
「そうか」
呟く瞬間、紅葉の口元からフッと笑いがこぼれた。
「・・・もう眠れそうだね?」
電話越しに聞かれて、やはり気持ちを見透かされていたのだと再認識していた。まあ、これだけ深く付き合っているのだし、僕もそれだけ光を理解しているつもりなのだから、逆も然りだろう。光がどれくらい僕を思ってくれているか、僕は知っている。
「ああ」
「じゃあ、俺も寝るよ」
このまま切れるのかと思ったら、光が「あ」と声を上げる。
「明日さ、拳武まで行っても大丈夫?」
「何故?」
「一緒にごはん食べたい」
無邪気な注文にフフと笑って了解とだけ告げた。光も笑っているようだった。
「じゃあ、また明日」
「うん、明日」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
名残惜しむように僅かな間があって、電話が切れた。
直後に紅葉は胸の中にあった孤独がどこかへ消えてしまっている事に気付いていた。
誰もいなくても、何もなくても、君だけがいればいい。
世界の全ては君で出来ているのだから。声を、聞くだけでもいい。
(でも明日は・・・)
校門の前で待っている姿を思い描くと、今夜は眠れなくなりそうだった。
ふと気付いて振り返れば、雨はやんでいた。
時計を見て、携帯を充電器に差し込んで立ち上がる。
「僕ももう寝るか」
今日は君の夢を見るだろう。
その時雨が降っていても、多分僕は平気なはずだ。
ぬるい雨も、深い闇も、照らしてくれる光があれば、迷う事などないのだから。
(完)