「NO-Title20」
(1998年8月末)
紅葉が、変わってしまった。
夏も終わりの、そろそろ木々の枝々に赤色がちらちらと映え始める頃。
ベランダの向こうに広がる夕焼けを、サッシの内側から眺めながら思いを馳せる。
4月からこちら、色々な事があった。
新しい暮らし、新しい環境、新しい出会い、さまざまな、楽しい出来事。
(でも)
紅葉に関する出来事だけ、悲しい思い出に彩られている。
再会したときは本当に、心が震えるほど嬉しかったのに。
(どうして?)
思い出すだけで胸がきしむ。
あの頃と今と、自分は何も変わっていないのに、彼だけが違う。
いつも隣で微笑んでいてくれた、あの笑顔がどこにも見つけられない。
「俺が、傷付けたからかな」
俯いてガラスをなぞった。
勿論、意思を持って何かしたわけじゃないけれど、結局は同じようなものだ。
自分が紅葉を忘れたから、紅葉を傷付けてしまった。
不可抗力と―――言い切れるわけが無い。
絶対の呪力を持つ守姫は、唯一、剣にだけ勝てない。
それは二つの存在が世界に生じたときに定められた根幹を成すルールであり、事実、紅葉本人を目の前にしたとき、たがが外れて、朋恵の施した封印はいとも簡単に破れてしまった。
(紅葉を忘れていたのは、俺がそれを望んだからだ)
名前に恥じぬようにと育てられてきた。
光は、この世に生じた意味に疑問を持ったことも無かったし、宿星に抵抗もなかった。
『剣』は役目があって生まれる。
それが存在意義であり、以上も以下も無く、ただ、いずれ訪れる混沌を人の望みのままに切り分けること。
あらゆるものを見て、あらゆる声を聞き、『今』を生きる全ての存在の望み―――秩序か混沌か、いずれかの道を選ぶ力添えをすること。
それだけが自分に課せられた宿命であり、また求められている全てでもあると、そう思って生きてきたし、周囲からもそのように言われて育ってきた。
彼等の意思が、光の意思だった。
少なくとも紅葉を知らなかった頃の自分に、明確に自分だけの意思と呼べるようなものなど思い当たらない。
再び顔を上げると、オレンジの街並みが瞳に飛び込んでくる。
僅かに眇めて、ため息が漏れた。
「紅葉」
名前を呼ぶだけで心が震える。
それは、恋慕であり、悲哀であり、また、恐怖でもある。
(俺は―――)
桜の頃、生まれてしまった感情。
そして、再び、思い出してしまった感情。
わかっているけれど、知っているけれど、だからこそ、知りたくなかった、そう考えるようになど、なってはいけなかった。
『剣』としての結末は、唯一つだ。
定めは変わらず、そして、光は、物心つくずっと以前から、多分、生まれた時から悟っていた。
混沌を切り分ける剣が使命を果たした先に待ち受ける定め。
混沌と人の呼び声に応えて龍が貸し与える『剣』
それは、あくまで借り物であり、だから願いを叶えたら、龍は剣を御許に連れ戻す。
人とよく似た姿の、赤い血の流れる、熱を持ったこの肉体は、けれど厳密には『人』でなく、龍脈から生じる気によって成り立つ幻のようなものだ。
だからこそ人の理に縛られる事も無く、また人の理に添うこともできない。
春先に守姫である朋恵から『宣告』を受けて、東京へは覚悟を決めて訪れた。
その地点では、運命を受け入れることに、何の迷いも、疑問も、無かったはずなのに。
「でも、紅葉と出会えたから、俺は」
ガラスの表面に額を押し当てると、僅かに冷たかった。
秋はもうすぐそこだ。
あっという間に景色は色づき、やがて寒風が吹き始める。
その日がいつになるのか、それは、まだわからない。
けれど運命の足音は確実に近づいている事だけわかっている。
光は僅かに離れて、また軽く表面に額をぶつけての動作を数回繰り返して、最後にもう一度、こつんと硬質な感触に凭れかかった。
ため息と一緒に、両掌もぴったりとガラスに押し当てる。
瞼を閉じると浮かぶ姿。
紅葉を想うたび、喜びと、悲しみと、いずれ訪れる消滅の恐怖とが一緒になって押し寄せてくる。
それを、紅葉のこと以外は全て諦めることで打ち消して、定めに従うことこそが使命なのだと言い聞かせて、自身の存在理由と、身の程を、何度も、何度も、繰り返し思い返す。
(俺は剣だ)
人にはなれない。
紅葉と同じになることは出来ない。
(でも、俺は―――紅葉を諦める事なんて出来ない)
もう一度ため息が漏れていた。
僅かに唇を噛み締めて、瞳を開く。
(結局堂々巡りなんだ、何も解決なんてしない)
足掻いたって、苦しみ、嘆いたって、未来は変わらない。
(だけど)
一つだけ。
たった一つだけ、わかっていること。
自分が消滅することへの恐れや、剣としての使命を果たさなくてはならないという義務感より、今はもっとずっと重要な事。
紅葉を好きだという事。
諦められるはずが無い。
それまで明確に自分と呼べるものが何も無かった光に、たった一つだけ生じた、紅葉への想いだけが、まるでモノのような身の内に宿ったヒトの心だから。
(紅葉への想いだけは、諦める事なんて出来ない)
紅葉を想う時だけ、ほんの少し、自分は『人』であるような気がする。
所詮理を違える自身が、身の程を知らないおこがましい考えだと、十分わかっているけれど。
(でも)
どうしても、それだけは、手放すことなど出来ないだろう。
理由は―――よくわからない。
想いそのものが理由であるのかもしれない。
顔を上げれば、天蓋は端の方から藍色に染まり始めていた。
裾ばかり茜色で、そこから橙、白、浅葱、紫、そして、藍のグラデーションが都市の影の向こう側に広がっている。
ガラスには少しだけ光の姿が映っていた。
六門封神で力を封じられた、弱々しい姿だ。
この呪は剣の力より大分弱いけれど、光自身の心にかけられたものだから、解けるはずも無い。
「俺が望みを捨てられない限り、か」
自嘲的に呟いて、笑いかける。
この街に住む人々が何を望んでいるのか、『今』を生きる人々が、何を望むのか。
まだ何も分からない。
けれど。
「俺に、心なんてあったせいで―――」
こみ上げる想いが雫となって、瞳の淵から零れ落ちた。
光はそのままゆっくりしゃがみ込んで、膝を抱くようにして座り込んだ。
万能の力を与えられているはずなのに、自分はこんなにも脆く、頼りない。
至らなさが悔しくて、悲しい。
それでも―――想いを捨てられないことが、苦しくて堪らない。
「紅葉」
名前を呼んでも応える声など無く、光はそれでも、ただ呼び続けることしか出来なかった。
薄暗い部屋に、かすかな願いが繰り返し響く。
止められない想いが、こぼれては落ちる。
雫は金色に輝いて、床の上に吸い込まれるようにして消えていった。
(紅葉がどれだけ変わったとしても)
(それでも、俺の想いは変わらない、変えたくない)
それがどれほど身の丈を越えていようとも―――望むことをやめられない。
迷える『剣』の切っ先は、どこへ向かうのか。
光自身にすら分からなかった。
天蓋はすでに漆黒に染まり、瞬き始めた星々が、小さな姿を、儚い光で、照らし続けていた。
(完)