NO-Title4

 

 雨が降っている。

髪や、服を濡らして、靴の中までびしょ濡れだった。

小汚い路地裏で、見上げた空は長四角に切り取られて、暗闇の雲が封をしている。

足元で鳴り続ける携帯の着信音は、雨音と混ざって酷く耳障りな不協和音を醸していた。

紅葉は倒れた男を見下ろしていた。

もっともすでに生きてはいないのだから、これは人ではない、「モノ」だ。

「モノ」からモノの音がする。

それは少し奇妙で、そう思うとどこか遠くからクスリと笑う声を聞いたような気がした。

紅葉はしゃがみこんで「モノ」の衣服で赤く染まった手を拭い、立って靴底の汚れをこすりつけた。

懐から取り出した携帯電話を開く。

「・・・僕です、はい、任務完了、直ちに帰還、報告します」

切った電話をしまって、もう一度男を見下ろす。

何の感慨も沸いてはこなかった。

まだ鳴り続けている携帯電話を探し出して、取り出したそれを足で踏みつけると、大量生産の家電はその程度のことであっけなく壊れてしまった。

「ヒトと、モノと、どこが違うんだろうね」

潰された携帯電話がどこで売られていたのか気にならないように、この男がどこの誰で、どういった理由で殺されなければならなかったのか、そんなことまるで興味が無い。

「モノ」は無機質にそこに転がっているだけだ。

雨は相変わらず止みそうにもなくて、路地から出ると人影はなかった。

鈍色の街を、紅葉は無心で本部への帰路を急いだ。

人目を避けて、アスファルトを叩く雫の一粒一粒が織り成す薄い闇のヴェールに打たれながら、ただひたすらに歩き続けた。

それからどれくらい経っただろうか。

ふと、顔を上げる。

辺りを見回して、ぼんやりした声がコンクリートの廊下に反響した。

「ここは・・・どこだ?」

気付けばそこは明らかに目的地と違う場所だった。

景色に見覚えがあるのに、すぐに思い出すことが出来ない。

困惑して立ち尽くしていると、目の前にあったドアが前触れなく開いた。

「あ、やっぱり」

顔が覗く。

「どうしたんだよ、こんな時間に」

これは誰だ?

「紅葉?」

声を確認して、紅葉は驚いて目を見張った。

慌ててもう一度辺りをよく見回して、ここは光が暮らすマンションの、彼の家の前だとようやく気づく。

混乱する紅葉の様子を伺って、光は苦笑いを浮かべた。

「お前、びしょ濡れじゃないか、ちょっと待ってろ」

ドアが閉まったので、このまま帰るか迷っていると、彼はまたすぐ家から出てきた。

「ほら」

持ってきたタオルを頭にかぶせる。

「とりあえず入れよ」

そのまま手を取って引き入れようとしたが、紅葉は動かなかった。

光は困惑した様子で立ち止まる。

「どうしたんだよ」

垂れた雫が袖を濡らす。

雨交じりの冷たい風が通路にまで吹き込んでいた。

「紅葉?」

紅葉は、温かな感触をそっと握り返した。

「光」

話す声は自分のものであるはずなのに、まるで別人のような響きがある。

「ヒトと」

「え」

「ヒトと、モノは、どこが違う?」

声はあまりに小さくて、雨音に打ち消されて光まで届いていないようだった。

寒さからなのか、それとも違う理由があるのか、そもそもどうして体が震えているのかわからない。

ただ、視界にかぶさる黒ずんだ髪から落ちる雨粒ばかりが目に映る。

光の怪訝な表情に、想像が確信に変わっていった。

紅葉はタオルの端を握って、引きずるように手繰り寄せると、そのまま手ごとだらりと下げた。

「そこに見出す価値の違い、それくらいしか差は無いと思う、ヒトも、モノも」

握る手がビクリと震える。

髪の間から覗く瞳が、驚いたように光を見つめた。

「でも、逆に言えばそれだけの違いは確実に存在するんだよ、紅葉?」

光はそっと微笑んだ。

手を離し、両腕を広げて、自分が濡れるのも構わず紅葉を抱きしめてくる。

「誰かがそう思うなら、それは間違いなくモノじゃない、少なくとも俺は思う」

「僕は、人か」

「もちろん、大事な、大切なヒトだよ」

回された腕に力がこもる。

それを感じた紅葉の腕も、自然に光を抱きしめていた。

濡れた手で髪をなで、頬に当たる柔らかな感触にそっと目を閉じる。

ああ、この手が汚れていなくて良かった。彼に血に染まった姿を見られずに済んだ。

けれども光は全て気づいているような気がする。

何もかも理解したうえで、それでも抱きしめていてくれるのだと。

そう考えるのは傲慢なのだろうか。

耳元に感じる息の気配と、濡れた服を通して伝わる鼓動に、何かが消されていく気がする。

それは、胸の奥がほの苦しいような、痛むような、そしてどこか白く塗り替えられていくような、そんな妙な感覚だった。

触れ合う彼のどこもかしこも暖かいような気がした。

そっと体を離すと、案の定光の肌も髪も着ている服もすっかり濡れてしまっていた。

「僕は、まだ行かなくちゃいけないところがあるんだ」

タオルを返すと金茶の瞳が黙って紅葉を見つめている。

「こんな時分に、急に来てすまなかった」

「いいんだ」

どこか押し殺したような声が答えて、光はくるりと踵を返すと家の中に戻ってしまった。

そっけない態度に少し戸惑い、それから歩き出すと、幾らか進んだ先で背後から呼び止める声がする。

「紅葉!」

小走りで駆けて来た光が傘を差し出した。

「これ、使って」

こんな濡れ鼠で今更傘に意味があるとも思えなかったけれど、紅葉はおとなしく受け取った。

「それからこれも」

前がジップになったパーカーも差し出されて、これには首を横に振る。

「汚してしまう、いらないよ」

「いいから」

「でも」

「持ってかないと怒る、いいから持ってけ」

不承不承に受け取って、濡れた服の上から羽織ると、紅葉より少し背の低い彼の私服は僅かにきつかった。

「じゃあ」

「紅葉」

紅葉は再び戻りかけた足を止めた。

「俺は何も言えないけれど、それでもお前の伸ばす手は全部捕まえるから」

だから、と光は言う。

「頑張るし、見落とさないように努力するから、だからいつでも来て欲しい」

俺のところに。

言外に含まれるその言葉に、僕なんかが側にいてもいいのかと思った。

今度こそ歩き出す背後でドアの開閉する音がする。

それっきり、あたりはまた雨音ばかりになってしまった。

薄暗い照明のついた灰色の通路を行きながら、紅葉は自分について、ぼんやりと思いをめぐらしていた。

甘えて、いるのかな?

無意識にこんな所へ来てしまうほど、頼り切ってしまっているのだろうか。

光と出会ってから、今までどうでも良かった事が酷く苦痛に思える時が増えた。

これまでの自分が壊されつつある。

新しく組みあがっていく自分。

そこに、確実に彼の存在がある。僕を構成する部品のいくつかが光によって作られている。

僕の中にある光。

君の名前のとおり、この闇を晴らす日がいつかくるのだろうか。

闇であることすら知らなかった僕の胸の内を、目が覚めるほど鮮明な明るさで。

マンションを出ても相変わらずの雨で、世界は暗く沈んでいるようだった。

雨雲の高度はそれほど高くない。

曇天を抜けた先には青い空がある。

昔見た映像が脳裏を掠めて、それはまるで都合のいい合成写真のように思えた。

 

紅葉は、今度こそ間違いなく本部への道を辿り始めた。

 

(完)