遥か昔、姫巫女あり。
姫巫女、火の国の王にして森羅万象を解し、太極の力を用いて万民を治めるものなり。
時に、国乱れ、人心争いを好み、血河とうとうと万里に及ぶ。
天地混濁とし、生有る者、死する者、等しく安息の時を絶たれん。
其を憂いた姫巫女、祈りを捧げること七日七夜。
太極に住まう龍、姫巫女の願い聴きて、其が力貸し与え給う、其は一振りの太刀なり。
龍の太刀、道を創り、人の願いを龍へと届け給う。
望みのままに命を分ち、至る岸を定めるものなり。
太刀、御許より生じ、御許へ還る。
龍の残し給う一つの契、糸紡ぐ媛神。
其は人の世の望みのため、常世と現世の糸合わせて楔紡ぐ織姫。
森羅万象の声を聞き、世と星の望みの声が響く時、太刀は織糸に手繰られて現世に戻る。
人の世の望みを叶えるため。
分かつ道の其の先を定めるため。
(1997・秋)
「やあ、今日も居たね」
知らない声に顔を上げる。
「はじめまして」
目の前に見えたのは、やはり知らない姿だった。
それなのに、やけに人懐こく笑っている。
誰だ、と、いぶかしむ気配が現れてしまったのだろうか、男は、今度は少し困った表情を浮かべた。
「あ、いや、その、急に話しかけたりしてごめん、君さ、このところいつもここで見かけるから」
公園で本を読むのがそんなに珍しい事だろうか。
「それで」
生憎と、こういった手合いの好奇心に付き合うつもりはないのだ。
つれない態度に戸惑ったのか、男は更におろおろと言葉を捜して落ち着きなくしている。
「いや、その」
ため息が漏れた。
「あの」
言いたい事はなんなのか。
ベンチの譲渡か。
それとも。
(同業者―――ということは、なさそうだな)
男の気配は、それは酷く萎縮した様子で、仮にそうであったとしても、この程度ならば警戒するに値しないだろう。
無闇に疑ってかかるほど狭量でも無能でもない。
まだもごもごしている男を呆れ気味に見上げながら、場所を移動しようか、どうしようか、僅かに考え出していた、その時だった。
「あの!」
男の急な大声に、少しだけ気を引かれる。
「これ!」
ポケットから取り出した何かを、勢いよく前に突き出してくる。
少々驚いて、何事かと見れば、一冊の文庫本だった。
吹く風に長い髪が揺れて、体格に見合わないだぶついた茶のコートと、そこから覗く色の白すぎる肌がやけに病的な印象だった。
釣り目がちだが、気弱そうな瞳だ。
整った顔をしているのに、どこかやつれて見える。
―――妙な男だと。
それが、総合的に下した判断だった。
だが、敵意はない。
そして今の行為の意味はなんなのか。
訊く前に、男の方が先に喋った。
「もし、よかったら、その、ほ、本を」
(何だ?)
「隣で読ませてもらっても、いい、かな?」
ちらりとこちらを伺う視線の―――その、どこか憶えのあるような気配に釣られて。
「構わない」
そう答えた途端、男は、一瞬目を丸くして、あとから心底嬉しそうに笑ったのだった。
その笑顔を、自分は多分、一生忘れないだろう。
何故初対面の人間に、心許すつもりになれたのか。
何故、男の事が少しでも、気にかかったのか。
今ならわかると思う。
男の、影生依人の事。
携えていた筒をそっと置きながら、壬生紅葉は目を閉じていた。
鼻先にほんの僅か香る花の気配を感じつつ、影生の、あの日の姿に想いを馳せて。
多分、あれが、彼が見せた最初で最後の本物の笑顔だったに違いない。
人の世は如何にして、たどり着くべき岸を定めるのだろう。
何も知らなかった。
何も見えてはいなかった。
季節は秋、澄み切った空と、色付き始めた紅葉。
隣り合った2人はただ本を読み、どちらからともなく再会を約束して別れた。
運命という名の神の織糸に導かれたかのように、壬生紅葉と、影生依人の縁は、その日結ばれたのだった。
(了)