「では、我が兄上は」

格子窓から月光差し込む、仄暗い板張りの一間で。

神子装束に身を包んだ朋恵が、一人きりで祭壇の前に腰を下ろしている。

彼女の前には十数センチほどの鏡が置いてあり、その表面が朧な光を放っていた。

「門の四つ目を封じられてしまいました」

どこからともなく涼しげな男の声が聞こえてくる。

「そうですか」

朋恵はわずかにうな垂れた。

わずかに間を置いて、声が、今度は気遣うような気配を滲ませて響く。

「申し訳ございません」

「いえ、貴方の代理人はよく働いてくれたようです、私もそのように報告を受けました」

ほんの数十分ほど前に兄に張り付かせている護衛と式が情報を持って戻ってきた。

その内容を仔細に渡り伝え聞いて、朋恵はこの部屋を訪れたのだった。

星見をするための祭壇のある、彼女以外では彼女の実父しか立ち入る事を許されていない部屋。

祭壇はあくまで飾りでしかなかったが、神祇を行うための一間であるため自宅内では術の行使にもっとも適した場所でもある。

朋恵は鏡を通じて、助力を依頼した男と今回の件について話をしていた。

彼は関東一体を束ねる陰陽家の棟梁で、祖先を遡ればそこにはあの高名な陰陽師が控えるという。

御剣の家とも付き合いの深い、国家を支える支柱の一つ。

男は、思慮深い口調で朋恵を窺った。

「それで、守姫様は以後どのようなお手を講じられるおつもりですか」

朋恵は目を閉じる。

思い起こせば数年前、自分が全ての要因の種を生み出してしまった事が、今更ながら悔やまれる。

あの時はそうする事が最良の手段だと信じてやまなかった。

時代を憂う声に答えて、龍が使わす一振りの剣。

それを守り導くことは朋恵の存在意義であり、そのためだけに産まれてきたのだと、幼い頃から自覚もあった。

強く、美しい兄を、妹として純粋に誇り、愛していた。

だからあの時、二人を引き裂いたことは、果たして守姫の意思であったのか朋恵の意思であったのか、彼女自身今だに判別がついていない。

悩み苦しむ兄の姿を見ていると、もしかしたらそれは過ちであったのかもしれないと思えてくる。

唯一つのものも、全てのものも、同じように愛することの出来る彼の器を軽んじていたのは、他ならぬ私自身であったのでは無いかと―――

(それでも、私は)

再び見開いた瞳の、睫毛の上に月光が落ちる。

「あと暫し、様子を見ます」

その結果状況は悪化するかもしれない。

兄はきっとあの男を忘れないだろうし、あの男も兄の全てを取り戻すまでその手を緩めることは無いだろう。

それでも今、自分に出来る事は何もない。

守護を幾ら増やそうと、どれだけ檻を張り巡らせようと、兄は龍であるのだから、そのようなもの何の役にも立つはずがない。

彼が望めば、その通りになるのだろう。

朋恵にとって、今は祈りだけが唯一の手段だった。

守姫として、妹として、あの方を、兄を―――光を、信じよう。

「そうですか」

鏡の向こうの声は、何かを了解したようだった。

「では、私のほうで護衛の数を増やしておきましょう、私の代理人にもよく言っておきます」

「すみません」

「貴方がお気になさるようなことは何もありませんよ」

男はほんの少しだけ笑いかける。

「御剣という名の器を守ることは、我らにとっても死活問題です、守姫様ただ一人きりにそれを任せるわけには行きませんから」

「ご助力感謝いたします」

「それに、貴方はまだ幼い」

朋恵はビクリと体を震わせた。

「数えでも兄上より三つも年下だ」

「私は守姫です、件を守るための鞘、そのようなものに歳など」

「私が言っているのは、そういうことではありませんよ」

鏡面から視線を逸らしても、男の声は続いていた。

「貴方が彼の方を姫として、妹として、慕っていらっしゃることは存じています」

月光が板の間を照らしている。

この名の中に二つも月が入っているのは、先代と今代、二振りの剣に仕えるものだからだ。

父からその役を引き継いだ時、その事を悟った。

「愛情とは時に、眼くらましをする危険なものです」

男は話す。

「その強い思慕の念ゆえに、人は道を誤り、道に迷う、ですが、暗闇を照らし出す唯一のものも愛情に他ならないのです」

愛とは恐ろしく、美しい、万物の生命に宿る最も純然たる強き思いなのです。

声はそういった。

「だからこそ、貴方は幼い。幼さは愚かさとは違います、ですが、至らぬことで起こりうる事態もあるでしょう」

「それが、私だと」

「貴方は守姫です、けれど、あの方の妹御でもあられるのです、その御自身をどうか否定なさらぬように、兄を慕うのは、妹として当然起こりうる感情なのですから」

格子窓から吹き込んできた風が、朋恵の長い髪を揺らした。

四方に立てられたろうそくの炎が揺れて、部屋の中で影達が舞い躍る。

次の日の出を待つ月読の、白金の面差しが同じ名を持つ彼女を静かに照らしていた。

「御門様」

「はい」

「兄は、私を憎んでおられますか?」

声は暫し黙した。

「―――いいえ」

それはよく通る、はっきりとした一声だった。

「守姫が剣を愛するように、剣もまた守姫無しではいられません」

朋恵は格子の向こうを見上げた。

剣と守姫、器と、それを育むもの。古より続く血の契り。共に歩むもの。

月とは傍らに寄り添うもののことだ。

私は、いつでも月でありたい。兄上のための、月であり続けたい。

「私は」

鏡面の光を風が揺らす。

「私も、それを信じます」

あの方が明日を掴み取る事を。

瑣末な事柄など足元にも及ばない。その名に光を抱く剣たちは、いつでも自らの意思で道を切り開いてきたのだから。

守姫の役は信じること。そして、祈ること。

声が優しく囁く。

「光の傍らには常に闇が、闇の傍らには光が、沈まぬ陽光がないように、明けぬ夜もありません」

「そう、ですね」

「フフ、守姫様にご意見申し上げてしまいました、私もまだまだ未熟です」

朋恵は鏡面に向かい、微笑を浮かべていた。

「私も未熟です」

「未熟であればこそ、生命は明日の先へと行ける」

そうなのかもしれない。

光と影は求め合い、足りない部分を補い合って更に大きく成長していく。

人とはそういう生き物だ。

淡い吐息が、唇から漏れた。

(お兄様の行かれる先に、どうか、明日の光の満ちる事を―――)

願いは星見部屋から空へ抜けて、天空の神と地の龍の元へ届くだろうか。

そうであって欲しいと願い、また朋恵は確信していた。

兄に宿る宿星の輝きが途絶えることは無い、と。

 

(暗空・