目を開いて、最初に見えたのは、無機質な白色灯の輝きだった。
眩しさに瞳を眇めた瞬間、何かが覆いかぶさってくる。
驚く間もなくお兄様、お兄様と何度も呼びかけてくるので、光はそっと微笑んで、長い黒髪をゆっくりと撫でた。
「姫!」
振り返ると、蓬莱寺が涙で顔をグシャグシャにしている。
「京一」
そのまま傍まで来て何度も髪をかき混ぜられた。
反対側から美里も駆け寄ってきて、口元を両手で押さえながら良かった、良かったと繰り返して涙を幾筋も流す。
「光」
如月が、心底安堵した表情でじっと見詰めていた。
「翡翠、ありがとう」
「お帰り」
うん、と頷くと、今度は先生と呼びかけられる。
「祇孔」
「寝顔も悪くねえが、そうやって起きてる方が俺好みだぜ」
苦笑いする傍らに、スッと少女が歩み寄ってきた。
姿を見つけた途端、光は僅かに瞳を見開いて、それからゆっくりと、満面の笑みを浮かべていた。
「比良坂さん」
比良坂は、ニコリと微笑み返してくれた。
ほんのりと色づいた白い肌も、滑らかな髪も、全てが鮮やかに息づいている。
胸の奥から喜びが滲み出してきた。
「光さん、お帰りなさい」
「俺を呼んでくれたのは、比良坂さんだね?」
「はい」
優しい声。
あの闇の中で聞いたものと、同じ声。
フッと瞳を細くして、それから、不意に周囲を見回した。
―――彼は、どこだろう。
身じろいだ光の上から朋恵が起き上がり、手を貸して半身起き上がらせてくれる。
ベッドに座って部屋を見ると、隅のほうで立ち尽くしている姿に気づいた。
「紅葉」
呼ぶと、壬生の両肩がビクリと震えた。
そのまま怯えるように視線をそらしてしまうので、光は僅かに表情を曇らせる。
二人の様子を交互に見て、朋恵が、唇を噛んでから、不意に口を開いた。
「皆様」
一同が彼女を振り返る。
「お兄様の意識は無事、戻りました、守人の皆様と、美里様と比良坂様がお力添えくださったおかげです」
ありがとうございましたと、朋恵は深々と頭を下げた。
様子に急にかしこまって、如月と村雨、壬生も礼を返す。蓬莱寺は照れ臭そうに後頭部を掻いていた。美里と、比良坂は、会釈をして柔らかく微笑んでいた。
「お兄様の目覚めは」
朋恵の口調が、俄かに厳しい気配を帯びる。
「すぐにあの男、柳生宗崇の知る所となるはずです」
柳生。
その名前を聞いた途端、病室内を緊張が駆け抜ける。
蓬莱寺は手にした虎爪刀の柄を握り締めていた。
柳生宗崇。光を生死の境にまで追い詰めた、今もっとも憎むべき敵。
「京一」
呼びかけられて振り向くと、気遣うような光と目が合って、途端、蓬莱寺はかすかに微笑んで見せた。
何も心配はいらない、と。
「私は、私の知っている全てを、皆様にお話せねばなりません」
「お姫さんが知ってる全部?」
朋恵は村雨を振り返って、そうですと頷き返した。
「時は、満ちました、龍の力に呼応して、二つの塔が目を覚ます」
「塔」
美里の声。
「それは、一体」
朋恵は不意に光を振り返り、少しだけ気丈な笑みを浮かべて見せた。
「お兄様はまだ病み上がりです、お話は、後でいたします」
「朋恵」
「他の皆様だけ、部屋を別にしてお話いたしましょう、私についてきてください」
一同は困惑気味に顔を見合わせて、結局朋恵の指示通り、病室から出て行った。
最後に壬生が続こうとした所で、ドア付近に立っていた朋恵がスッと腕で前を遮る。
「貴方は御剣の守人です、ここに残り、兄を守りなさい」
壬生は朋恵をまじまじと見詰めた。
「ですが、朋恵さん」
「剣を守るのがお前の役目、お兄様をひとりにするわけにはいきません、よいですね?」
何か言いかけて、口を閉ざし、はい、とためらいがちに返事をする。
「では、失礼いたします」
朋恵はもう一度丁寧に光に頭を下げて、外に出ると、扉を閉めた。
あっけなく閉まった病室の奥を、なんともいえない想いのまま、振り返ってこらえる。
「朋恵ちゃん」
呟いた蓬莱寺の横から、村雨が背後に歩み寄った。
「頑張ったな、アンタ」
頭をぐしゃりと撫でられて、少女は困り顔で微笑んでみせる。
「私にだって、意地くらいありますもの」
「そうかい、あんた、兄貴と同じくらいいい女だな」
「お兄様は女性ではありません」
「ああ、そうだった」
不意に踵を返して、髪を整えながら、では皆様こちらへと先導して歩き出す。
朋恵の後から、一同はついて歩き出した。
部屋の中に、壬生と、光だけが残されている。
どちらも話す言葉に迷い、俯きがちに口を閉ざしていた。
ピクリと、光の指先が震えた。
気配に気付いて顔を上げると、同じように見詰め返してくる金茶の瞳と視線がぶつかった。
「紅葉」
気が狂うほどに、聞きたかった声だ。
壬生の鼓動が一瞬で跳ね上がる。
「くれはぁッ」
急に表情をクシャリと崩して、光の目元が赤く染まる。
綺麗な双眸から、ポロポロと涙が溢れ出す。
「紅葉ッ」
思い切り両手を伸ばしたせいで、引っ張られた計器類のコードが外れて落ちた。
直後にけたたましく鳴り響いた警報に、壬生は慌てて駆け寄ってスイッチを切る。
服の裾を、光がギュッと握り締めた。
「紅葉、紅葉!」
「ひ、かる」
恐々振り返ると、抱きつかれて、そのままがむしゃらにしがみついてきた。
伝わってくる温もりに壬生は息を呑み、恐る恐る抱き返した両腕で、俄かに光をグッと引き寄せて、抱きしめる。
「紅葉!」
「光ッ」
愛しさが胸の奥で爆発した。
5年分の時間も距離も、何もかも全部飛び越えて、互いの内側で想いの嵐が吹き乱れていた。
二度と得がたい魂の伴侶。愛している。誰よりも、何よりも尊い。
「くれはぁッ」
光は泣いていた。
まるで幼い子供のように、感情のまま滂沱する自身をはばかりもしない。
彼本来の無垢な内面が露にされて、壬生は黙って、何度も髪を撫でた。
そして繰り返し撫で続けながら、自分の内側に穿たれた穴が塞がっていくのを感じていた。
心の空虚は、もうどこにも存在しない。
光を傷つけて、苦しめて、それでも埋めることの出来なかった暗闇。
(ただ、これだけで―――)
埋められてしまうものだったのか。
あらためて、自身の愚かさに、償いきれないほどの罪を犯してしまったのだと思い知る。
壬生は強く光を抱きしめた。
不意に、見上げた光が、壬生の顔をじっと覗きこんでいた。
「紅葉、帰ってきて、くれたんだな?」
「ああ」
そうだよ。
ようやく、君の元に戻ってこられた。
散々傷つけて、苦しめてしまったけれど。生涯をかけても償いきれないだろうけれど。
光の目に新たな涙が滲んで落ちる。
「傍にいて、くれるんだな?」
「うん」
君さえ許してくれるなら。
そんな事を聞くまでもないことも知っていた。彼の、金色に染まった瞳が言葉以上に想いを伝えてくる。
「もう、どこにも行かないって」
最後は聞き取れない。
再び泣き出した背中を何度もさすりながら、耳元で囁きかける。
「もうどこにも行かない、傷つけたりもしない、僕は君のものだ、望まれる限り、僕は君の傍にいる」
本当だな、絶対だなと繰り返す声に、うん、うんと何度も頷いて、しがみついてくるままに、壬生も温もりを腕の中にしっかり抱きとめていた。
二度と手放したく無い。
もうどこにも行かないで欲しい。
君を僕のものだなどと、口に出してはとても言えない。おこがましくて―――
(けれど)
壬生は思う。
それでも、光は僕のものだ。
もう手放さない。あつかましいと誹られてもいい。
ぎゅうと抱き返すと、同じように抱きしめてくる。
永久に、たとえこの身が朽ちて、魂すら無くしたとしても。
「もう、離れない」
「うん」
首筋に触れた吐息に、少しだけ体を離した。
どちらともなく視線を絡ませて、光がゆっくりと瞼を閉じる。
全身から、想いがあふれ出していた。
そっと近づいて、深く唇を重ね合わせた。
封印などではなく。
傷つけるためのものでもなく。
ただ―――口づけを。
光の瞳の端から、最後の涙がスルリと落ちた。
それは、黄金色の輝きを伴って、シーツに滲んで消えていった。
(守姫・了)