誰もがその光景に呆然と立ち尽くす。
光の胸から背中にかけて、穿たれた風穴から禍々しい凶爪の生えた龍の腕が覗いている。
今や立ち上がる力さえ失い、消滅しかけている柳生が、双肩を嘲笑に震わせていた。
「く、クク、我が悲願はならずとも、契は潰えたか、人よ、そなた等の営みも、これで終焉だ」
壬生は、信じられないものでも見ているかのような眼差しで、呆然と光と龍とを見詰めていた。
誰も動けない。
強すぎる衝撃が膨大な負の感情へと傾きかけた―――その、手前で。
(ちりん)
光の手が、そっと影生の腕を掴む。
(ちりん)
そのまま、龍の瞳を覗き込むようにして、まっすぐ見詰め続ける光からは、生気が潰える様子も、弱まる気配すら感じられない。
むしろいよいよ輝きを増していく光の気に、笑っていた柳生は不意に驚愕の表情を浮かべていた。
「何故だ、何故―――何故死なぬ?」
(ちりん)
「光?」
壬生が窺うように囁きかける。
そのまま動こうとしない光に、焦燥感を募らせた柳生の声が混沌の中、轟いた。
「何故御剣は滅せぬ!」
(ちりん)
「―――そうか」
不意に、何か感付いた様子で、柳生は口の端を歪め、笑っていた。
「御剣の剣、其は人に非ず、なるほど、そうか―――そういうことか、ククッ」
遂に四肢が脱力してだらりと垂れ下がる。
「此度の戦、我の敗北のようだな、御剣よ」
紅蓮の姿が急速に擦れて、消え始めた。
「だが、我が住まうは人の闇、この世に陰陽二つの理ある限り、我は滅せぬ、我は、人の欲に応え、治乱れし刻、幾度でも姿を現そうぞ―――」
最後は笑んだ口元だけが残り、やがてそれも完全に見えなくなる。
柳生宗崇は今世から姿を消した。
だが、彼の残した異形の龍は、まだここにいる。
寛永寺全体を覆いつくす混沌も変わらず渦を巻いて留まったままある。
(ちりん)
「龍よ」
光の声が、静かに響く。
(りいん)
「其が廻るべき人代は、其に非ず、我が身こそ今世の血契」
(りいん)
「龍よ」
(りいん)
「―――影生、依人、さん」
ハッと瞠目した壬生の視線の先で、龍の形が再び少しずつ変形を始めた。
同時に光は、ゆっくりと自らを穿っている腕を引き抜いてゆく。
洞は、指先が背中に入ると共に、表皮がすっと再生していた。
どうやら抜け出すたびに体細胞が甦生しているらしく、やがて異物が完全に抜け出した光の身体は、以前と何も変わらない状態に回復していた。
真神の制服に穴が空いている以外は、彼に外傷は見当たらない。
それどころか、守人たちは自らが負っていた細かな傷も、全て完治している事に気づき唖然としていた。
龍であった影生は、まだあちこちの関節の形がおかしかったり、頭部の角も消滅していないけれど、それでもおおよそ、人の形と取れる姿まで復元されている。
「依人―――」
呟いた壬生を、光が振り返る。
「紅葉」
壬生は、振り返り、光の眼の中に映る輝きを見て、その意を汲み取った。
「く、れは」
ガラガラとかすれた声に、再び視線を戻すと、影生の瞳に理性の光が僅かに戻っていた。
悲しげに歪んだ表情からは、哀願するような気配も見て取れた、そして。
「た、すけ、て、も、う、ぼく、は」
伸ばした片腕で、かつては黒く艶やかであった髪に触れる。
黄金を孕んだ長髪は鬣のようになびき、乱れて、触れる端からボロボロと崩れて落ちた。
壬生は腹の底にこみ上げてくるものを押し殺して、振り返って光の名を呼ぶ。
「うん、紅葉」
優しい響きに、影生の気配が僅かに和んだようだった。
守人たちや守姫が見守る中、光と壬生はかつて道場で学んだ、秘奥義の構えをそれぞれ取る。
「行くよ」
「はい」
「―――陰たるは、天昇る龍の爪!」
「陽たるは、星閃く龍の牙!」
高まりあった二つの気が螺旋状に絡み合い、周囲を満たす龍金と共鳴して金と銀のうねりを生み出した。
「くれ、は、ひ、かる、くん」
影生の、唇が動くたびに端からボロボロと、まるで石灰質の造形物のように壊れていく。
「ご、めん、ね」
「依人―――謝らなくていい、君は、今も変わらず、僕の親友だ」
「影生さん」
哀しげな光の声が呼びかけた。
「ごめんなさい」
砕けかけた双眸が僅かに見開かれて、直後、影生は淡い笑みと共に首を振る。
「い、んだ、ぼ、こそ、ごめ、ん」
「光ッ」
壬生の呼び声に、光はしっかりと頷き返し、そして―――
「秘奥義、双龍螺旋脚!」
掛け声と共に、押し寄せる陰陽の気が影生の身体を中空へと跳ね上げる。
まるで襤褸のように浮かび上がった姿は黄金の帯を引いて、そのまま光の柱へと転じていった。
砕け、砂塵のようになり消え逝く影生は、最中に最後の思いを伝える。
(ありがとう)
それは、恐らく最たる部分は壬生に向けられたものであったのだろうけれど、光の瞳から涙が一粒、零れ落ちていた。
構えを解いて、見上げた空に、影生から生じた金の柱はぐんぐんと空高く昇っていった。
―――やがて、それは巨大な龍の形を取り、東京の夜闇を震わせて吼える。
「姫ッ」
事の成り行きを見守り続けていた蓬莱寺が、唐突に焦燥感を滲ませて振り返った。
「アレ、ヤバイんじゃないのか、どうすんだ!」
「あれは、一体何なのかしら」
「依り代を失った混沌が、暴走しようとしているのですわ」
りいんと鈴の音が響き、守人たちの見守る中で朋恵が一歩、前へと踏み出す。
「御方様」
光は龍を見上げたまま、うん、と答えた。
「―――光?」
「―――姫?」
突如沸き起こる胸騒ぎに、壬生と蓬莱寺が同時に光を見詰める。
歩き出そうとしたその腕を、壬生は思わず捕まえていた。
「光」
立ち止まり、振り返った光は、微笑みながらそっとその手を解く。
「紅葉」
今や、完全にその髪も、瞳も、肌の色さえ、金に染まった姿の光は、淡い燐光をこぼす指先で壬生の髪をするりと撫でた。
「だいじょうぶ、だから」
そうして、再び前を向いて歩き出す。
今度は壬生も、誰も、その背に声をかける術もなく見送っていた。
不安な気配に飲み込まれそうになる胸中を、光の言葉を繰り返しながら必死に押し殺して、壬生は握り締めた拳を更に固くする。
寛永寺本殿手前にて、いまだグラグラと揺れ続けている地表に立っているというのに、光の姿はまるで浮いているかのように動じていない。
その、壮麗さを増した美貌が燐と空を見上げ、両腕がすらりと天高く掲げられた。
「黄龍!」
全身から噴出す黄金の気をあちこちに飛ばして、猛り狂っていた龍の頭が、こちらを向いた。
「御剣は、ここに!」
ゴ、と一際大きく大気が揺れて、直後に黄金の龍は光めがけて落ちてくる。
視界を奪う膨大な光量と、息詰まるような気の奔流に、景色は歪み、守人たちは身を凝らせた。
「光!」
必死で叫んだ壬生の絶叫と、どおんという爆発音、そして、肌を震わせる衝撃波。
無理やりこじ開けた視界の先で、全ての光を取り込んだ光の姿が、瞬間一振りの剣のように映る。
けれど、直後に人型に戻った彼が、そのままふらりと倒れそうになるのを見て、壬生はがむしゃらに走り出していた。
地に伏す寸前で何とか抱きとめ、腕に沈み込んだ光の顔を覗き込む。
「光、光ッ」
光はまだ淡く発光を続けながら、双眸を閉じて、眠っているかのように脱力していた。
慌てて胸の上に掌を置くと、規則正しい鼓動が伝わってくる。
ひとまずホッと息を吐いた壬生の周囲に、他の守人達も駆け寄ってきた。
「姫、おい、壬生、姫はッ」
「―――気を失っているだけのようだ、とりあえず、呼吸はあるし、鼓動も正常に動いている」
「そ、そうか」
「黄龍は一体どうなったんだ?」
「剣を媒介にして、あるべき場所へ還りましたわ」
彼等の合間を縫って、朋恵が壬生の正面に立つと、光の頬にそっと触れる。
「御役目、ご苦労様でした、お兄様」
けれど、その表情が少しも晴れやかでない事に、やはり壬生だけが気付いて、再び不安が頭を擡げるようだった。
ひんやりした夜風が頬を撫でる。
そうして―――彼等は不意に、この地を覆っていた混沌が収拾している事に気がついた。
「龍脈は、この地の繁栄を再び約束しました」
「朋恵ちゃん」
鈴の音を鳴らして、立ち上がった朋恵の髪を風がゆるゆると攫っていく。
年明けの風だ。
ようやく、長い戦いは終わりを告げ、新たな始まりを星々が瞬きと共に伝える。
光の身体を覆っていた黄金の輝きも、いつの間にか消えていた。
「剣の望みはこの地の平穏と秩序、龍は再び人と契り、願いは成就されました」
「剣の望み?―――それじゃあ、もしかして、光は」
美里の言葉に、守姫は静かに頷き返していた。
「お兄様、いえ、御剣の剣は、そのために人型を模して現れるのです、人のための楔、現世に生きる人の願いを叶える剣、その切っ先は混沌の先の道を取捨するために揮われる」
「御剣というのは、もしかして」
「なんとも独善的な、人の望みを機織る一族ですわ」
そうして朋恵は僅かに視線を伏せると、少しお喋りが過ぎましたと、かすかに吐息を漏らした。
妙な引っ掛かりを感じて黙り込む守人たちに、再び顔を上げた少女は凛とした眼差しを向ける。
「さあ、皆様、脅威は去り、龍は還りました、我々がいつまでも留まっていれば、多少面倒なことになるでしょう」
「面倒って、朋恵ちゃんの術のせいで寛永寺には誰も来れなくなってるんじゃないのか?」
「そんなもの、もう解いてしまいましたわ」
「え?」
朋恵はいつもの調子で、フッ、と笑みを浮かべる。
「御用はすでに済みました、なれば、いつまでも私が呪を使い続ける理由もないでしょう、ですから解きました」
「はぁ?」
「のんびりしていれば、誰か来るでしょうね」
急に現実に引き戻されたような気分になって、蓬莱寺が慌てて周囲をぐるりと見渡す。
そこには―――異形の死骸や血痕など無いもの、樹木の幾らかはなぎ倒され、本殿正面は恐らく影生に黄龍が降りたときに被ったのだろう、見るも無残に破壊しつくされてある。
「うわ、マジかよ」
気の抜けた一言に、村雨がやれやれと帽子のつばを片手で動かし、如月も苦笑を浮かべていた。
美里が不安げにため息を漏らし、比良坂も困り顔で瞬きを繰り返している。
蓬莱寺は、振り返って、朋恵を見て、それから光を抱きかかえている壬生を見た。
壬生は腕の中の光だけを見詰め続けている。
「―――しょうがねえなあ」
やれやれと呟いて、蓬莱寺は片腕を上げた。
「そんじゃ、まあ、騒ぎに巻き込まれる前に、ずらかるとするか!」
「でも、京一君、いいのかしら」
「いいって、いいって、東京の平和を守ったんだぜ、この程度の犠牲で済んで万々歳だ、ヒーローが最後にサツに捕まったんじゃ格好つかねえだろうが」
「そうだな、俺も、これ以上イヌの知り合い作んのはゴメンだぜ」
「まあ、村雨様、そんなに警察の方にお顔が利きますの?」
「あ、いや」
美里と比良坂がウフフと笑いあう。
「さて、では行くとするか」
「だな」
「オイ、壬生」
顔を上げない壬生に、蓬莱寺は僅かに困り顔をして、それから肩をポンと叩く。
「姫の目が覚めたら、戦勝祝いでパーッと派手にやろうぜ、な」
フッと見上げた眼差しが、間を置いて僅かに微笑み返した。
「そう、だね」
―――その様子を朋恵が無表情で見詰めている。
「じゃ、とっとと行こう、姫も横にしてやんねえとダメだろ、まあ、電車ン中で気付くかも知れねえが」
「コートにまで穴が開いてしまっているわね」
「それなら大事無い、僕のものを着せるつもりだから」
「壬生さん、寒くないんですか?」
「大丈夫だよ」
人気の少ない方から出ようということになって、一同は気を失ったままの光を連れて、境内の奥へと歩き始めた。
一人だけ、立ち止まったままでいる朋恵に、気付いた村雨が振り返りながら呼びかける。
「姫さん、どうした?行くぞ」
「―――いえ、何でもありませんわ」
「疲れたなら言えよ?我慢したって何にもならないぜ、欲しいなら、ちゃんと口にしないとな」
「私貴方ほど浅ましくありません」
「言ってくれるねえ、そういう話じゃないんだが」
「ご心配には、及びませんわ」
そうして初めて自分だけに向けられた、可愛らしい微笑みに、無骨な大男は柄にもなく赤面してしまう。
けれど直後に朋恵は着物の裾を翻して、壬生が連れている光の傍らへ駆けていってしまった。
村雨は、帽子を脱いでちょっとだけ鼻の頭を掻くと、照れた表情を誤魔化して消した。
再び帽子を被りなおしながら一同の後に続く。
かくして―――
昨年四月から続いた、東京を舞台とした一連の事件は幕引きを向かえた。
人の世の流れ行く先は、古の盟約に従い、人の望みのままに選ばれたが、その契も、支えとなった守人達も、年若き少年少女だったことなど、誰も知ることもないまま歴史の闇に消えるだろう。
けれど、事実を惜しむ者などいない。
彼等はただ大切な人のために戦い、望みを果たしただけなのだから―――
澄み切った新年の星空を、ネオンと月の光が静かに照らしていた。
(咆哮・了)