春は、まだ遠いのだろうか。
大分近づいた気もする。
壬生は窓枠の向こうに見える雪景色を眺めて、それから部屋の中央へと戻っていった。
そこに、一組の布団が敷かれ、光が横たわっている。
今度は気を失っているわけでも、死に掛けているわけでもない。
消えてしまうわけでもなかった。
ただ―――眠っている。
消滅しかけた身体を繋ぎとめるため、離散した気をかき集めて急ごしらえした未熟な姿は完全ではなく、こうして眠り続ける事で少しずつ龍脈から力を取り戻しているらしい。
いずれは元の姿―――器として成熟した18歳の姿に戻るのだろうが、それまで光は眠り続ける。
その目覚めがいつになるのか、朋恵にもわからないらしい。
縁台から飛び降りて、兄に縋りついた妹は、何度も、何度も、繰り返し「よく留まってくださいました」と、まるで幼い子供のように泣きじゃくっていた。
それは、普段の大人びた姿勢こそが不自然であったのだと、思い至るには十分すぎる、ありのままの、ただ兄を慕う15歳の少女の姿だった。
蓬莱寺は顔をくしゃくしゃにして、よくやったなと壬生の髪を何度もかき混ぜ、ぼさぼさになった姿を見てまたバカみたいに笑い続けていた。
如月は、呆れた執着心だと皮肉をもらしつつ、その笑顔は紛れもない本心から溢れ出したものだった。
村雨は男泣きに泣いて、実はこれが一番性質が悪かったのだけれど、自分も庭に飛び降りて朋恵を背後から思い切り抱きしめたおかげで、直後に痛烈な平手をくらい、吹っ飛ばされていた。
一つずつ思い返しては、光を見詰めて、漆黒の髪をそっと撫でる。
白い頬も、伏せられた長い睫も、何もかもが生命の在り処を伝えている。
光は今、ここに在る。
モノではなく、ヒトとして。
剣の宿命が消えたわけじゃない。
彼自身が言っていたように、いずれ訪れる目覚めの日が、二人の放浪の日々の始まりとなるだろう。
一つどころに留まっていては、剣の呼ぶ混沌によって地は乱れ、戦いが起こる。
「けれど、それでも、僕は」
そっと囁いて、唇を指先でなぞり、口付けた。
「君と共にあることを願うよ」
眠っている光が、ほんの少し微笑んだような気がして、壬生も、穏やかに笑んでいた。
雪はいつの間にか止み、天高く輝く太陽が、銀世界を七色に煌かせていた。
「まったく、呆れましたわ」
居間で村雨の手当てをする朋恵は、まだ頬を膨らませたままだ。
蓬莱寺も手当てしてもらって、一番軽症だった如月が、屋敷の台所を借りてお茶を淹れてきてくれた。
「守人が守姫を襲うなんて、言語道断です」
「おいおい、俺達は別に、お姫さんを襲撃しに来たわけじゃないぜ」
「似たようなものですわ」
包帯をギリギリと締め上げて、村雨が痛い、痛いと悲鳴を上げた。
「そ、そりゃ、手当てじゃねえだろ!」
「お黙りあそばせ、私手ずからの看護を、むしろ感謝なさいませ」
「酷ぇ」
「酷いのはどちらです、ああもう、広間の襖や畳も修繕せねばなりませんし、玄関の景観も台無しですわ、あなた方、少しは加減というものを覚えられたら如何?」
「まあ、朋恵さん」
お茶でもどうですかと勧められて、朋恵は適当なところで終わりにして、座卓の前に座り込んでしまう。
「おい、お姫さん」
「後はご自分で何とかなさいませ」
はあ、とため息を漏らす大男を、蓬莱寺が笑っていた。
「まったく、朋恵ちゃんには敵わないよなあ、村雨」
「君が一番張り切っていたものな、ここに来る前も、式鬼と戦っている間も」
如月は茶をすする。
「そうなのか?」
身を乗り出した蓬莱寺に、涼やかな表情が肯定の意を込めて頷き返す。
「その結果があの仰々しい傷の数々だ、どうやらよっぽどの理由があったらしい」
「よっぽどの理由?」
「村雨は、分不相応にも天女に懸想しているらしい」
「如月!」
顔を真っ赤に染めて怒鳴りつけた村雨を、一同が振り返ると、彼はすぐさま気まずそうにそっぽを向いてしまった。
勘付いてクックと笑う蓬莱寺と、如月は再び茶をすすり、朋恵は怪訝な顔をしている。
「―――ったく、どうして俺の知り合いには、こう性質の悪い奴ばかり揃ってやがるんだ」
すねたように呟いている村雨から視線を転じて、蓬莱寺が朋恵に振り返った。
「それよりよ、朋恵ちゃん」
「何ですか?」
「その、姫のことなんだけどよ」
不意に、あたりの雰囲気が変わる。
半ば背中を向けるようにしていた村雨も、再びこちらに向き直っていた。
朋恵は、三人の視線を受けて、少しだけ瞳を伏せた。
「―――そう、ですわね、ここまでいらしたあなた方ですものね、私も、腹を据えましょう」
白装束に垂れる、漆黒の髪が、さらりと一束頬の脇に落ちる。
「御剣の使命は、恐らくすでにご存知ですわね?」
「人と龍の楔ってヤツか」
「はい」
朋恵は静かに語り始めた。
「御剣のそもそもの発祥は邪馬台国時代にまで遡ると言われています、家系譜を作り始めたのが平安に入ってからでしたから、正確な年代まではわかりませんが、とにかく、巫女でもあった当代の女王が、気脈の意思たる存在に願いを捧げ、その結果、授けられた一振りの剣、それが一族の始まりであったと、伝承は伝えております」
「はるかなる昔、姫巫女あり、火の国の王にして森羅万象を解し、太極の力を用いて万民を治め―――例の古文書の事ですね」
「ええ、そういえば如月様はご覧になったことがおありでしたわね」
お前、そうだったのかと蓬莱寺と村雨が揃って如月に顔を向ける。
「前にも話したと思うが、僕の家は江戸時代末期から御剣と付き合いがある、当時の宗主は当代の剣と懇意にしていて、その頃から如月は守人めいた事をずっと続けているんだよ」
「飛水の御役目は江戸の守護、御剣の存在意義は人の繁栄、秩序と平穏、我等の利害は一致しているのです」
「ああ、そういう話しか、ならついで言うと、俺の雇い主も多分その口だな」
胡坐をかく村雨に、蓬莱寺はふうんと、解ったのだか何だかわからないような返事を返す。
「随分大層な話だな、俺なんか、邪馬なんたらが出てきた地点でアウトだったぜ」
朋恵と如月、村雨は、軽く失笑した。
「話を戻しましょう」
凛とした声が告げる。
「剣は、人の願いを具現化した存在、それゆえ人の姿をしており、また、人と同じく心があります、それは御方が今世を生きる人々と交わり、人の心と眼を持って、人の望みを正しく解するため、剣の御役目は今を生きる人々の願いの成就です、ですから、もし人が破滅を望めば、世界を滅ぼす事もありましょう」
「マジかよ」
「あくまで可能性のひとつですわ、剣は混沌より生じる陰陽混在した存在です、それゆえ、御方が偏った魂を宿されぬよう、我等守姫の務めは、剣として成熟なさるまで、龍の巣籠で御方を守り、導く事にある」
「姫がずっと屋敷ン中で育ってきたってのは、そういう理由があったのか」
「私の役目は、お兄様が来るべき日に自らの意思で道を選択できるよう、正しく導いて差し上げる事」
少女は、またほんの少しだけ俯いた。
「ですが、私はいつの間にか、自らの思いに囚われ、大切な事を見落としておりました」
「何?」
「お兄様の望み、それは、世界の望み」
双眸がふっと眇められる。
「彼方の望みを断つ事は、世界の望みを摘む事に他ならない、ですから、お兄様は無用な苦悩を負われ、この地は乱れたのです」
「お姫さん」
「柳生や影生の一件は、私にも咎があるのです」
黙り込む姿に、かける言葉が見つけられない。
同じく俯いた蓬莱寺や如月とは逆に、村雨が、なんでもないような顔をして朋恵の肩をポンと叩いた。
「まあ、あんたがそう言うなら、そうなんだろうさ」
「村雨」
非難を孕んだ如月の声を聞き流して、暢気な姿はそのままニコリと少女に微笑みかける。
「けどな、そうであったとしても、お姫さんが先生を想う心は本物なんだろ?あんた、兄さんにわざわざ辛い目をみせるために世話を焼いてきたんじゃないはずだ」
途端、朋恵はキッと村雨を睨みつける。
「当然ですわ!」
意思を感じる綺麗な瞳に、村雨はつい惚れ惚れと見とれてしまった。
この少女は、朝霞の中で頑なに甍を閉ざしたままの花のようだ。
開けばそれはあでやかに輝くのだろう、けれど、心はまだ内に秘めた宝を守り続けている。
その宝とは、彼女が敬愛してやまない兄に他ならない。
村雨は内心密かに嫉妬した。
「―――なら、そんな言い方するもんじゃねえ、お姫さんの罪悪感は全部、自分で背負い込んだものだ、何をどうしようとな、起きるときは起きる、世の中ってのはそういう風にできてる、そこにこじつけた理由は全部、そいつが勝手に作り上げたもんだ」
「村雨様」
「なあ、兄貴は一度でも、そんな事言って、お姫さんを責めたりしたのかよ」
朋恵ははたと目を見開き、まじまじと村雨を見詰める。
そして、不意に、少し困ったような、恥ずかしげな様子で、いいえと首を振った。
「そのような事、ございません」
村雨がぱっと明るく笑った。
「だろ?」
「お兄様は、誰の事も恨んではおりませんでした」
怒りや憎しみのような負の感情とは、一番遠いところにいる人。
その名の如く、心の中を常に光で満たしている人。
今、ここに兄がいて、妹の心情の吐露を聞いたなら、きっとこう言っただろう。
―――誰が悪いとか、原因だとか、そんなものはどこにもない、全ては起こるべくして起こり、望みによってたどり着く岸を決めるんだ、だから、朋恵、君がそんな事を言うものじゃない―――
「そう、ですわね」
最愛の兄の事、全て知っているつもりでいるのに、時々こんなにも気付けない。
朋恵はフフと笑って、申し訳ありませんでしたと礼をした。
「今の言葉、忘れてください」
「おう、お前らも無論、かまわねえよな?」
振り返った村雨に、蓬莱寺と如月も頷き返す。
「それで、朋恵さん」
光に関して詳しく教えて欲しいと言う、如月の言葉に便乗するように蓬莱寺が口を開いた。
「御剣の剣っていうのがどんなもんなのかは何となく解った、けど、姫はこれからどうなっちまうんだ?」
朋恵は再び表情を暗くする。
「それは―――私にも解りません」
意外そうな表情を浮かべる蓬莱寺に、朋恵は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「守姫は、本来ならば剣の全て解している存在です、それゆえ御方を導くことができますし、諸事を御方と分かち合う事ができる、ですが」
顔を上げた朋恵は、不安げな、それでいてどこか不思議な精気に満ちた表情を真っ直ぐ彼等に向ける。
「かつて、役目を終えた剣は例外なく定めに従い、原初へお還りになられております―――その輪を抜けてご自身の足で歩き出された剣の存在を、私たちは知りません」
「どういうことだ?」
「つまり、お兄様の未来は、最早御剣の定めから外れたところにあるのです」
明日の事など、誰も知らないように―――
「消耗した気を全て回復されれば、御方様はいずれお目覚めになるでしょう、ですが、それがいつになるのか、目覚められた後の御方様がどのようになってしまわれるのか、私にはわかりません、同様に、私自身の事も何もわからなくなってしまいました」
「朋恵ちゃんのこと?」
「私は守姫です、剣の消滅と共にすべての力を失い、残された僅かな間に子を孕み、産み落とす頃には災厄によって食い殺される定め」
村雨が僅かに顔をしかめた。
「ですが、お兄様はまだ在られております、剣の定めも失われてはいない、ですから、私も守姫としての力を失っていない」
「それは、姫が存在し続ける限り、朋恵ちゃんにも悪い事は何も起こらないって事か?」
「わかりません、これから先は何もかも未知の領域、剣であるお兄様が一つ所に留まり続ける事はできませぬでしょうが、それより他は、なにも」
「一つ所に留まれないとは、どういう意味ですか」
朋恵は如月に首を向ける。
「兄の御身は剣なれば、その性は混沌を呼び寄せます、お兄様のいるところ、必ずや争い、怪異の類が起きましょう」
「姫が、事件を呼び寄せるってことか?」
「はい、秩序と平穏の世界において、本来剣は無用のもの、すでに切り分けられ、治に満たされた世界に剣が在り続ければ、それは新たな諍いの火種となりましょう、御方の闘いはその性からなる定め」
「そんな」
「それだけではありませんわ、恐らく、目覚めたお兄様は今後一切歳をとらぬでしょう」
「何?」
「御身は剣です、人とは理が違う、成熟した剣は常に龍脈の力で満たされ、衰えはこない」
「では、18の姿のまま生き続けるということか」
「はい」
私は人ですが、と付け足して、朋恵は不意に黙り込んでしまった。
歳をとらず、際限ない戦いの日々を過ごす。
それが剣の―――光の定め。
剣としての定めを逸れた咎なのだろうか。
彼等は思い描いていた。
誰も若いうちはいい、共にあり、戦い続けられるうちは、いいだろう。
けれど、人は年を取る。
蓬莱寺も、如月も、村雨も、美里や比良坂、朋恵も、壬生も、やがては老い、衰え、死に至る。
それでもただ一人きり、若い姿のまま、逃れられない炎の定めを生き続ける者の心中はどのようなものだろう。
年若い彼等には想像もつかなくて、代わりに三人は深い吐息を漏らし、そっと視線を俯けていた。
「お兄様は」
朋恵の声が急に静まり返った居間に響いた。
「壬生との間に結ばれた絆の力によって御姿を留めております、ですから御方が在り続けられる時は、おそらく壬生の生と同じだけでしょう」
「壬生が死ねば、光も消えるということか?」
「はい、そして、そうなれば私も守姫の力を失います」
「一蓮托生ってわけか」
頷く姿に、村雨は複雑な表情を浮かべていた。
蓬莱寺も、如月も、黙り込んでいる。
確かに光を引き止めることはできたけれど、果たして、剣としての定めを負い続ける彼にとって、それは重圧ではなかったのだろうか、自分たちは―――正しい選択をしたのだろうか。
差し出がましい真似を、彼の苦しみを長引かせただけではないのだろうか。
重苦しい雰囲気に包まれていた彼等は、襖の開く音で顔を上げた。
「―――失礼します」
「壬生」
コートを脱いだ姿の壬生が、居間に入ってくる。
「壬生、お兄様は?」
最初に口を開いた朋恵に、座卓から少し離れた場所に正座した壬生は、大事ありませんと短く答えた。
「よく眠っています、顔色もいい、気懸かりな様子は何もありません」
「そうですか」
「なあ、壬生」
次いで顔を上げた蓬莱寺が、言いかけて口を閉じる。
「壬生」
如月の声に、壬生は振り返った。
「何ですか」
「光は、消滅こそ免れたが、目覚めても歳をとらず、しかも一つ所に留まっていられないらしい」
「如月様」
朋恵を一瞥して、如月は再び真っ直ぐ壬生を見据える。
「そもそも目覚め自体いつになるかわからねえって話だそうだ」
脇から便乗した村雨が、同じように壬生を見詰めた。
朋恵も、蓬莱寺も、じっと様子を窺っている。
「そうですか」
答えた壬生は、静かに瞼を閉じる。
「―――僕の想いは、何も変わりません」
再び見開いたとき、その双眸に金の光が瞬いたように見えて、一同はハッと目を瞠った。
一片の迷いもない眼差しで、壬生は淡々と言葉を紡ぐ。
「老いの無い事も、戦い続ける事も、光の事なら全て受け入れましょう、覚悟はできています、僕は、僕の全てより彼が愛しい、光がこの世界に在り続けることだけが僕の願い、だから、他はどうだっていい、僕は僕の全てを捧げても、光と共に在ることを望みます」
「壬生」
朋恵が僅かに身を乗り出す。
「お前との絆が、お兄様をこの世に留める唯一のものです、お前がもし、心変わりなどすれば」
「それは、ありません」
「何故言い切れるのですか、あれほど、あれほどお兄様を傷付け、苦しめ続けたお前などが」
「―――確かに、過去の罪はあがないきれない、弁明はしません、咎も受けます」
壬生は僅かに視線を落とす。
「けれど、朋恵さん、これだけは信じてください」
再び顔を上げて、真っ直ぐ朋恵を見詰めた―――彼の瞳は、やはり淡い金の光を湛えていた。
「僕は、もう二度と光を傷付けたりしない」
「壬生」
「心変わりなど、ありません、僕は僕の生涯を光に捧げます」
「お前」
蓬莱寺が呟いた。
村雨も、如月も、同様に壬生をじっと見詰めている。
決意に満ちた、綺麗な面差し―――それはどこか光と少し似ていて、彼等の不安を晴らしていく。
壬生はすでに道を定めた。
そして、それはおそらく光も同様だろう。
渦巻いていた重苦しい何かが徐々に薄れ行き、後には清々しい、青空のような想いが覗く。
朋恵は、ため息を一つ漏らして、姿勢を正すと、不意に、まるで花開くように微笑んでいた。
「―――わかりました」
「朋恵さん」
「お前の言葉、確かに受け取りました、なれば、私の杞憂も無用のもの」
手前に三つ指を突き、静々と頭を下げる。
「兄を―――光を、よろしくお願いいたします」
壬生も手前に手をついて、深々と礼を返した。
その様子を、如月と村雨が無言で見守っている。
蓬莱寺も同様にしていたけれど―――胸中で、僅かに残っていた想いを、全て天高く解き放っていた。
光が幸せなら、それでいい。
ようやくそんな風に考えられそうな予感に、口元が綻ぶ。
不意に立ち上がって、壬生の傍へ行くと、片手を差し出した。
顔を上げた壬生が蓬莱寺を見上げる。
「手、貸せよ」
「蓬莱寺君」
「姫の事、任せてやる、その代わりもう二度とフラフラすんじゃねえぞッ」
「―――ああ」
交わされた握手を見て、誰も笑顔を浮かべていた。
まだ肌寒い季節だけれど、春は、近い。
あるはずのない桜の香りを感じたようで、守人たちの様子を見守る守姫は、双眸を穏やかな光で満たしていた。
(御剣・了)