「誰だッ」

蓬莱寺が声を上げる。

拍手は相変わらず鳴り止まない。

木刀を構えなおした蓬莱寺の傍で、光は、何故か動悸がどんどん早くなるのを感じていた。

額にも、鈍い疼きが現れだした。

これは一体どうしたことだろうか。

(何、なんだ)

不意に柱の一本から、スウッと影が伸びていく。

爪先が一歩、踏み出された。

光の背筋に電流のようなものが駆け抜ける。

「やあ」

そして―――あまりに唐突に、現れたのだった。

てめえは誰だと蓬莱寺が唸り声を上げた。

光は瞠目したまま動けない。

群青の学生服、すらりとした長身の体躯、短い髪は後ろから前へと流すように整えられていて、その下から覗く瞳は鋭利な刃物のよう。

細身だけれど、痩せ型ではなく、一片の無駄も無くしなやかに引き締まっている。

光よりも、蓬莱寺よりも、背が高いようだった。

紳士的な佇まいが纏う、不穏な気配。

この人を知っている。

心が、体が覚えている。

この人は。

彼の、名前は。

「昨日も会ったね、光」

(そうだ)

桜の下で、こちらを見ていた。

幻ではなかった。

遠い想い出が、一息に噴出してきた。

額がズキンと疼く。

手で触れると、亀裂と、ヌルヌルとした感触があった。

「どうやら呪も解けたようだ」

男は笑う。

和やかな笑顔に、涙がこぼれ落ちる。

この人は―――

「御剣?」

振り返って蓬莱寺はギョッとしていた。

光は、額からおびただしい量の血を流しながら、泣いていた。

いつの間にか、刃物で切りつけたような傷が刻まれていて、そこから出血している。

ふらりと男のほうに足を踏み出すので、咄嗟に、肩を捕まえていた。

「御剣」

手を振り払って、歩き続ける。

蓬莱寺はそれ以上追うことができず、ただ背中を見送った。

「―――おいで」

男が手を伸ばす。

光は、ふらりふらりと近づいていく。

「おいで光、僕のところへ」

血と、涙で、濁って霞む視界に、目を眇めながら、まるで母を求める幼子のように、両手を前に出して真っ直ぐ進む。

指先が触れ合った途端、男が素早く捕まえて、そのまま光を、一気に抱き寄せた。

胸元に顔をうずめて、光が、張り裂けそうな声で叫んだ。

紅葉、と。

 

「な、何なんだよ」

蓬莱寺には、まるで状況が理解できない。

ただ、今の2人の姿と、そして何より、手を振り払われたことに、何故かひたすら傷ついていた。

紅葉と呼ばれた男の胸で、光は泣きじゃくっていて、男の手は光の髪を優しく撫でている。

そのうち、髪に唇で触れて、そっと上を向かせた光の額の傷にも、同じ様に触れた。

(なッ)

体の奥が熱くなる。

怒りにも似た感情が込み上げてくる。

これはなんだ。

一体俺は、どうしてしまったのか。

「光」

男の唇が、そっと囁いた。

同時に光が目を瞑り、一番見たくなかった光景が現れる。

光と、男が、口付けをかわしたのだった。

瞬間、蓬莱寺は木刀を落としそうになって、けれどすぐハッと我に返り、柄を握る手に力を込めた。

(なんだってんだよッ)

光に「紅葉」と呼ばれるたび、男は嬉しそうに微笑んでいた。

けれど、その笑顔が気に食わない。

光は一途に男を見詰めているけれど、男のほうはそうでないような気がする。

―――この、違和感は、なんなのだろう。

「紅葉、逢いたかった」

「僕もだよ、光」

「俺、どうかしていたみたいだ、こんなに長い間、紅葉の事、忘れていただなんて」

「それは仕方ないよ、光」

男が耳元で囁きかける。

「だって君は、記憶を封じられていたんだから」

「えッ」

きょとんとする光に、言葉は更に続いた。

「もう一つ、君に教えてあげようか」

「何」

「さっきの男に外法を施したのは、この僕だ」

どくんと、何かかが弾けた。

光も蓬莱寺も、一瞬何が起こったのかわからなかった。

光の口の端から、赤い筋が伝って落ちる。

「く、れは?」

ぐらりと、細い体が傾いだ。

「御剣!」

蓬莱寺が声を上げる。

崩れ落ちる体を抱きとめて、男は、壊れ物でも扱うかのように、腕の中にしっかりと抱きしめた。

「フフ、フフフ、フフフフフッ」

愉悦を含んだ笑い声に、蓬莱寺の背中が泡立つ。

「てめえ、てめえは、誰だ!」

怒号を含んだ声を聞いて、更に男は狂ったように笑い出した。

「アハハハハ!光、僕は随分長い間、この日を待ちわびていたよ!」

「質問に答えろッ」

なんだい、鬱陶しいと、途端冷徹な声が返ってきて、蓬莱寺は再び総毛立つ。

「部外者は引っ込んでいてくれと言いたいところだけれど、光が世話になっているようだし、君にも一応挨拶をしておくべきか」

「誰だ、てめえは」

「人に名前を聞く時は、まず自分からと、習わなかったのかい?」

俺は蓬莱寺京一だと、腹に沸き立つ怒りと共に吐き捨てる。

「そう、僕は、壬生紅葉、ご覧の通り、光の恋人だよ」

そうして苦しげに浅い呼吸を繰り返している、光の頬に口付けをした。

「光、苦しいかい?」

「くれは、くれは、どうして」

「僕はその何倍もの苦しみを、5年の間抱えながら生きてきたんだ、君だけを想い続けて、ずっと、ずっとね」

「くれは」

「けれど、君のことを怨んじゃいない、寧ろ想いは募るばかりだった、わかるだろう?君を、忘れることなんて、できるわけがない」

「わかる、よ、くれは、俺だって、何も変わらないから」

「それなら、まだ―――僕を愛しているかい?」

愛していると答えた、光の瞳から涙が零れ落ちる。

蓬莱寺は咄嗟に顔を背けていた。

光は本気だ。

そして、この壬生という男も、紛れもなく本気の目をしている。

有難う、の声と共に、再び光が悲鳴を上げて、蓬莱寺はハッと振り返った。

「御剣!」

「フフ、蓬莱寺君といったか、君に少しだけ、種明かしをしてあげよう」

壬生の腕に抱かれている光は、さっきより更に苦しげに喘いでいる。

見ると、足元のコンクリートに、ポタポタと血が滴っていた。

「てめえ、何しやがったッ」

「黙って聞きなよ、うるさいのは好みじゃないんだ、さっきの男、名前は忘れてしまったけれど、彼を鬼に変生してやったのは、僕なんだよ」

「―――何?」

「少し、調子に乗りすぎていると思ってね、僕の光に何度もおかしな気を起こすから」

蓬莱寺は唖然としたまま、目の前の男を凝視していた。

壬生が、佐久間を化け物に変えたのか。

ならばこの舞台も総て、奴のお膳立てだというのか。

「君が考えている事、わかるよ」

でもそれは違う、と、壬生は笑う。

「昨日も今日も、光の様子を見に来たついでさ、彼らに僕の光をどうにかできるわけがない、光も気にしていなかったようだから、見逃してやるつもりだった、けれどね」

彼が力を求めたのさ。

壬生の口の端が吊り上がる。

「あの状況で浅ましくも、だから願いを聞き届けてやった、思ったとおりの醜い鬼に生まれ変わっていたな、あれは、僕からのささやかな贈り物だよ」

何の対価も無しに、願いが叶うわけ無いじゃないか。

まして、何も失わず、更に求めるだなんて。

「強欲だとは―――思わないか?」

光をうっとりと抱きしめながら、壬生の瞳の奥で、何かがユラユラと揺れていた。

しかし蓬莱寺には、それは狂人の戯言のようにしか聞こえてこない。

木刀を構えなおす様子に、やめておきなよと声が抑止した。

「君では、僕の相手にはならないよ」

「そんなもん、やってみなくちゃわからねえだろうが」

「フフ、気概だけは立派なようだけれど、何か大切なことを忘れていないかな」

そして光の体を、ユラユラと揺らして見せる。

「ほら、君、この状態で、どうするつもりだい?」

蓬莱寺は唇を噛み締める。

確かに、このまま攻撃を仕掛ければ―――誤って光を傷付けてしまうかもしれない。

「僕なら構わないけれどね」

壬生は、光の額の傷を、そっと舌でなぞった。

呻き声に微笑んで、口付けを施してから、再び蓬莱寺を振り返る。

「けれど、僕以外の何者も光を傷付けることは―――絶対に、許さない」

双眸に燃え上がる暗い炎に、蓬莱寺の肌が三度粟立っていた。

(けど、ここで)

引くわけには行かない。

光は今も、苦しみ続けているのだから。

(恋人だかなんだかしらねえが)

胸が疼く。

こんなもの、と、奮い立たせた。

「御託はたくさんだ、とにかく、そいつは返してもらうぜ」

「君のものではないだろう?」

「てめえのもんでもねえだろうッ」

「光は、僕のものだよ」

掌がスルリと背中から臀部にかけて撫で下ろしていく。

「心も、体も、全部僕のものだ、これから僕が全部貰っていく」

「ふざけんなッ」

「フフ、君、分からないのかい?」

光も僕のことを、愛しているんだよ。

「やめろ!」

木刀を正眼に構える。

そのまま振り下ろして、壬生の足元を狙い、放った。

「地擦り、青眼ッ」

衝撃波が地表を伝い走っていく。

直前で、ひらりとよけて、壬生は高らかに笑い声を上げた。

「まあ、いいだろう、光は僕を思い出した、今日はここまでだ」

易々と舞い降りると、長い両足を折って、光をそっと床の上に横たえる。

「君が目を覚ます頃、また逢いに来るよ、光」

最後に口付けを施しながら。

「やめろ!」

気づいたときには遅かった。

更にもう一撃。

シットリと血の滲み出した腹部に、掌をあてて、頸を打ち込んでから、壬生はすっくと立ち上がり、笑顔を残して闇に溶けていった。

蓬莱寺は猛烈な速度で駆け寄って、残された光の傍らに座り込む。

「御剣、御剣ッ」

光は、青ざめて、すでに意識を失っていた。

閉じられた目尻から、涙の雫がぽたぽたと落ちる。

それが何故かとても悔しくて、蓬莱寺は唇を噛み締めた。

「ちっくしょ」

やり場の無い怒りと共に、光を抱き上げる。

(とにかく、病院だ)

辺りの惨状は、いずれ意識を取り戻した誰かが、どうにかするだろう。

これ以上他の事に構ってなどいられない。

血と涙で汚れた光の顔を見詰めると、胸の奥に沸き起こる痛みに何故か息苦しさを覚えながら、前を向いて、一歩を踏みしめるようにして、蓬莱寺は忌まわしいその場所を後にしたのだった。

 

(刺客・