目覚めると、障子越しの朝日が部屋に差し込んでいた。
光は眠い目をこすりながら、ぼんやりと半身を起こす。
「あれ、俺、確か・・・」
浮かびかけた疑問が何であるのか考える前に、障子の向こうから朋恵の声が呼びかけてきた。
「お兄様、お目覚めですか?」
「ああ、おはよう朋恵」
「おはようございます」
戸が開き、正座した朋恵が丁寧に礼をしてから入ってくる。
「お加減はいかがですか、お兄様」
「うん、別になんともない」
それは良かったと微笑む妹に、光もニッコリと笑顔を返す。
「けど、俺はどうしてここにいるんだ?」
わからずに首をかしげた。
確か自分は死んだ父の親友が指導している道場で、鍛錬を積んでいたはずなのだが。
毎日稽古を積んで、鳴瀧さんや青山さん、そして。
(そして?)
誰か、いただろうか?
記憶はないのだが、そう考えた途端胸の奥がチリチリと焦げ付くように痛んだ。
隣でその様子をじっと伺っていた朋恵が、急に鈴の音のように軽やかな笑い声を上げて口を開く。
「あら、お兄様、お忘れですの?」
「え」
「道場は昨日までのお約束でしたわ、戻ってきて、疲れたご様子でそのまま眠ってしまったんじゃありませんか」
「そう、だったか?」
「そうですわ、まったく、鍛錬を積んでも記憶力がこれでは」
困りますわねと言う妹に、光は怒ったふりをして軽く頭を小突いた。
「お前、目上をあまりバカにするものでもないよ」
「あら、それが私がいなければ何もできない人の言う言葉ですの?」
「まったく、お前は」
笑う光と一緒に朋恵も楽しげな声を洩らす。
笑いながら記憶は新たに補完されていた。
朋恵が仕掛けた呪は完全に動作して、道場での思い出を全て塗り変えてしまった。
(お兄様が、このままあの男と出会うことさえなければ呪は永久に解けない)
血を媒介にした強制的な呪文。
竜の記憶を操作するなど、姫である自分には到底出来ないことだ。
せいぜい偽りを刷り込んで、上書きするのが精一杯だった。
(けれど、それも意味のないことかもしれない)
朋恵はこっそり吐息を洩らしていた。
星の紡ぐ糸はあらかじめ定められた図面どおりに布を織っていく。
それは、自分も、兄も、あの男も逆らえない事実だ。
鳴瀧の門弟で、彼が、御剣の守人である以上、いつかは必ず出会ってしまうのだろう。
(でも今は)
今はまだ、それを許すわけにはいかなかった。
未熟な心に決定的な何かの存在を作ってはならない、兄の刃先が曇る要因を作ってはならない。
少なくとも、今だけは。
(もっとも、私の場合はそれだけが理由ではないような気もしますけれども)
思って、こぼした苦笑の意味は誰にも知られることなどなかった。
いつもどおりの朝を迎えて、兄の着替えのために部屋を出た朋恵は、庭先で咲き乱れる桜の木々をいつまでも見つめていた。
桜降る春のことだった。
(櫻の時・了)