そこに立っていた背の高い影。
壬生は相変わらず無感動な視線を光に向けている。それでもその瞳の奥では炎が荒れ狂っているようにも見えた。
「それは僕が聞きたいよ」
淡々とした口調だった。
倒れた少女に何の感慨も抱かない、ただ攻撃を邪魔されたことを不快に思っているだけの無慈悲な声。
「その人は君のなんなんだ、まさか恋人って事は無いだろうな」
恋人、の一言を言う瞬間、言葉の中に明らかな嫌が含まれる。
「そんなわけ、ないだろ」
比良坂の体をそっと地面に横たわらせると、光はふらりと立ち上がった。
もうほとんど気の流れを感じられない、死んだような姿を守るようにして前に出る。
気配に気付いた壬生がへえ、と口の端を歪めて笑った。
「殺気か、珍しいじゃないか、いや、初めてかな?」
光は何も言わずに身構えた。
内から沸き起こるどす黒い感情に全身が突き動かされているようだった。
それが何か理解するよりも早く、突き出した拳を寸でのところで壬生がよける。
風圧で頬の表皮が切れて血が滲み出した。
「何でだ!」
そのまま蹴り上げてくる足を片腕で防ぐと、振りかぶったもう片方の拳が斜めになった体めがけて横から殴りつけてきた
。今度はよけきれず、一撃を頬に受けた壬生の体が一メートル以上背後に吹き飛ぶ。
「ぐ?!・・・うっ・・・」
片足で踏ん張って何とか転倒だけは免れたものの、思った以上の衝撃に切れた口の端の血を拳で拭いながら壬生は再び身構える光の正面に向き直った。
「本気のようだな、光」
どこか楽しげな口調に、光はますます強く壬生を睨んだ。
内側で業火が燃え盛っているかのようだった。
比良坂は何も関係ない。ただ、自分を心配してここまでついてきてくれただけだ。
一緒に病院に行って欲しいと言ってくれた。
優しい彼女が、どうしてこんな目にあわなければならないのか。
「何でだ・・・どうして」
涙の代わりに怒りがこみ上げてくる。
「どうして、どうしてこんな事ばかりするんだよ!紅葉ぁ!」
地を蹴る光と同時に壬生も駆けだしていた。
振りかざす拳に、片腕がそれを止めて光の腹部を狙った蹴りが繰り出される。
身をよじって一撃をよけて、止められた腕が下段から壬生の脇腹をえぐった。
「くっ」
斜めになる体を軸足で支えて、振り上げた二撃目の蹴りは直前で止められた。
「何?!」
光はそのまま足首を掴み、力任せに壬生を投げ飛ばす。
砂埃を上げて路上に倒れこんだ彼に、光は駆け寄って胸倉を掴み上げると更に一撃見舞った。
吹き飛んだ体に連撃で一打、二打、蹴りを加えて三打めを打ち込もうとした瞬間、壬生と視線がぶつかった。
(えっ・・・?)
そこに映る何ともいえない色に、光は一瞬ぎょっとして動きを止める。
その隙をついて、脇からの鋭い攻撃が彼の体を蹴り飛ばした。
「うぐっ」
骨董品屋の戸にぶつかった拍子に、嵌め込まれたすりガラスが割れて光の上に降り注いでくる。
直後、入れ替わりのように突然、開いたままだった戸口から蓬莱寺と如月が血相を変えて飛び出してきた。
「こ、これは一体?」
目の前の惨状に二人は足を止める。
「姫?!」
蓬莱寺がすぐ脇で倒れている光に気付き、慌てて抱き起こした。
「しっかりしろ、おい、オイ!」
正面では壬生がよろめきながら立ち上がっていた。
服の汚れを払い落としつつ、それでも彼は不敵な笑みを浮かべている。
「随分、時間がかかりましたね」
「てめーがつまんねえ小細工しやがるからだろう!」
振り返りざま噛み付くように叫んだ蓬莱寺の脇で、如月は破れた人型の和紙を目の前で振って見せた。
「光の気によく似せて作ってあった、おかげで、幻と見破るのに時間がかかってしまった」
「当然ですよ」
壬生がフンと笑う。
「僕は、光のことなら知り尽くしている、彼の心も、体も、もちろん気配だって知っているさ、透き通った、綺麗な、綺麗な気だ」
「てめえがそれ以上言うんじゃねえよ!」
蓬莱寺はギラリと目を剥いた。この男の口から、一言たりとも光の話など聞きたくなかった。
昔に何があったかなんて知らない、けれど今、こいつは光を殺そうとしている。それは許せない事だった。
彼を汚すことは、絶対に許さない。
壬生はさして興味もなさそうに如月と蓬莱寺を一瞥して、改めて光をじっと見つめた。
「今日は分が悪いようだね」
ひどく残念そうに、囁くように話しかける。
「仕方ない、諦めるよ」
視線すら我慢ならなくて、蓬莱寺は彼を隠すように身をかざした。
すると不意に伸びてきた光の腕が彼を押しのけた。
「姫?!」
ショックを受けたような蓬莱寺の声に構わず、その瞳を同じように見つめ返す。
結び合うその奥で、互いの感情が激しく揺れ動くのを感じていた。
壬生は不意に視線をそらして、どこか艶かしい微笑を浮かべる。
「ではまた、光」
いきなり飛び上がると、途端に彼の姿は見えなくなった。
闇をまとって去っていく気配を感じつつ、光はのろのろと立ち上がった。
「姫・・・」
蓬莱寺はまだ呆然とその場に座り込んでいる。
向かう先に横たわる比良坂の姿に気付いた如月が、ハッとして声を上げる。
「その人は!」
それで、蓬莱寺も気が付いて、抱き起こす光の元へ二人して駆けてきた。
「紗代ちゃん、なんで!」
「あの男にやられたのか?」
光は無言で頷いた。
「如月、頼む、急いで救急車を呼んでくれないか?もう手遅れかもしれないけれど・・・」
如月は硬い表情でわかったと頷いて、すぐに店の中に戻っていった。
隣で蓬莱寺が悔しそうに吐き捨てる。
「なんでだよ、どうして、どうして紗代ちゃんが・・・!」
血にまみれた彼女を、光はしっかりと抱きしめていた。命の火は確実に消えかかっているようだった。
「京一」
不意に漏れた呟きに、蓬莱寺がビクリと震える。
「どうした?」
栗色の髪に顔をうずめるようにして俯いたまま、低く曇った声が一言ずつ吐き出されていく。
「俺は、もう、迷わない」
「何?」
蓬莱寺が怪訝な表情を浮かべた。
光は顔を上げた。
「俺はもう迷わないって決めたんだ」
「まさかお前」
コクンと頷く表情には、固い決意が見て取れる。
「これ以上、俺の周りにいる人を不幸にしたくない、だから、戦う」
「あいつと、か?」
金茶の瞳に僅かに影が射した。けれどそれは一瞬のことだった。
光はもう一度深く頷いた。
思い詰めたような表情に、蓬莱寺は少しだけ不安を覚えていた。
(紅葉・・・)
腕に比良坂を抱いたまま、光は天空を仰ぎ見る。
そこに見える星々は美しいものであるはずなのに、今は目を射す痛ましい輝きに思えた。
(俺は、お前を・・・倒す)
心で呟いた途端、凍えるほど冷たい何かが光の胸を貫いていた。
この痛みすら、比良坂の痛みに比べればどうということもない。
これ以上自分が迷い続けていれば、やがては蓬莱寺や朋恵、それ以外の知人達の身にも同じような不幸が訪れるだろう。
俺のせいで、これ以上傷つく人を増やしてはいけない。
光は唇を噛み締めて、思い出の扉を力ずくで閉ざした。
こぼれだしそうな涙を、必死になってこらえていた。
(紅葉・・・)
最後に呟いた言葉はどこにも行くあてなど無い。
暗闇の中、誰かの宿星が尾を引いて流れたような気が、した。
(常夜見・了)