何か、妙な悪寒が背筋を駆け上っていく。

大切なものが汚されていくような、そんな不快感。

いてもたってもいられなくて、美里は適当な理由をつけて会議場を後にしたのだった。

行き先は分からない、けれど、足は勝手に廊下を駆け抜けていく。

階段を下りて、更にその先、たどり着いた場所は保健室だった。

(どうしよう・・・)

何故ここに来たのか分からないまま、まるで誰かに呼ばれるように扉を開く。

踏み込んだ途端、鉄さびた匂いがふわりと鼻先をかすめた。

「何・・・?」

怪訝に辺りをうかがうと、視線の先に赤い染みが見えた。

ドキン、と胸が一つ大きく鳴る。

震えながら近づいて、ベッドに倒れている光を見た瞬間、美里は必死に悲鳴を飲み込んでいた。

「ひ、光・・・光!」

慌てて駆け寄って顔を覗きこむ。

白い制服が汚れるのも構わず、血まみれの口元をぬぐって呼吸の有無を確認した。

(息は、してる)

はだけられた胸元に耳を押し当てると、弱々しい鼓動が不規則に聞こえていた。

「光、光、しっかりして、光!」

泣きながら、半狂乱で名前を呼ぶ。

美里は同じように血まみれになりながら光を抱き起こした。

(どうしてこんな、ひどいこと・・・)

少し前に見かけたときはあんなに元気で、いつもと何も変わりなかったのに。

彼を迎える死の足音は、もうすぐそこまで迫っているようだ。

「こんなの嫌よ・・・お願いだから答えて、光」

シーツも、床も、美里の白い制服も、なにもかも真っ赤だった。

明らかに出血過多だ。これでは救急車を呼んでも多分間に合わないだろう。

「嫌よ・・・」

震える腕で光を抱きしめて、美里はうわ言のように呟いた。

「そんなの、嫌」

せっかく知り合えたのに、友達以上に彼には・・・そう、まるで兄弟のように慕っていたのに。

この胸にある懐かしさは月並みな言葉では言い尽くせない。

親子のような、兄弟のような、友人のような、恋人のような存在。

まるで自分の片割れに出会えたように、光と一緒にいるとき、美里は満たされていた。

それは別に、付き合うとか、恋人同士になるとか、そんな形式なんて少しも必要じゃなかった。

話をするだけで、彼の笑顔を見るだけでも、例えようもなく幸せだった。

冷めていく体温は、まるで自分の死体を抱きしめているようだ。

怖くて、怖くて、腕に力を込める。魂まで抱きしめて引き止めるように、強く。

「貴方を絶対に死なせない・・・」

美里は決意を含んだ呟きを洩らす。

感情の昂ぶりに呼応するように、彼女の全身が蒼い光に包まれていった。

「貴方を守るのは、私たちみんなの願い・・・まだ、時は満ちていない」

何故そんな事を思うのか、自分でもよく分からない。

美里の意識よりもっと深い部分でこの感触を知っているものがいた。

それは心を、体を突き動かして、今すべき事を美里に教えてくれていた。

そう、私たちは一人じゃない。

私たちは皆、剣を守る義務がある。

どこからか、自分のものでない輝きが、彼女にさらなる力を与えてくれた。

私たちはつながっている。彼を守るのは、私達の願い。

「私たちはそのためにいるのよ、光・・・」

抱きしめる指先からひかりが伝わって光の全身を蒼く染める。

更に零れ落ちていく輝きは、辺り一体を同じ色に塗り替えていった。

シーツや床にこぼれた血液が、ひかりに触れるたびに見る間に霧のように消えていく。

重なり合った胸越しの鼓動が、徐々に規則正しさを取り戻していった。

頂点を迎えた蒼色はその後急速に範囲を狭めて、やがて細くなった光がすっかり消え去ると、あたりは何事もなかったような静寂を取り戻していた。

光はまだ気を失ったままであるけれど、美里にはもう大丈夫だという確信のようなものがあった。

規則正しい呼吸を繰り返す彼を、フラフラと立ち上がってベッドに横たえる。

そのまま目眩を起こして彼女も脇に座り込んでしまった。

向かい側のベッドにもたれると、満足げに光を見上げた。

「もう、大丈夫」

安堵と共に笑みが浮かぶ。

彼の命は救えた。外からでは見えないが、怪我も、もう心配要らないだろう。

(でも・・・)

美里は不意に表情を曇らせる。

体のキズは治せても、何か・・・彼の本質を蝕む、澱のようなものは消す事が出来なかった。

それは光自身の力を封じ込めている。

傷の治りが悪いのも全てはそれが原因だと、本能的に悟っていた。

光を傷つけて、力を奪って、こんなに酷い仕打ちをするなんて。

(誰が、何をしたの?)

美里には分からなかった。

今はただ、自分の力の目覚めを受け止める事で精一杯だった。

不意に、廊下から猛然と駆けてくる足音が聞こえた。

それは保健室の前までやってくると、同時に階中に響き渡りそうな音を立てて扉を跳ね飛ばしていた。

「姫!」

蓬莱寺が凄い剣幕で駆け込んできた。

まずベッドに横たわる光を見つけて、その後で近くに座り込んでいる美里に気付く。

「美里?」

途端、蓬莱寺は困惑気に表情を歪めた。

「京一君」

美里がフラフラしながら立ち上がろうとすると、蓬莱寺は慌てて駆け寄って彼女の体を支えた。

「こりゃ、一体・・・?」

「光なら大丈夫よ、心配要らないわ」

状況の飲み込めていない彼とは逆に、美里は安心させるようにゆったりと微笑みを浮かべる。

「光の怪我は、全部私たちが治しました、だから大丈夫」

「何・・・」

「封印までは、消せなかったけど」

蓬莱寺ははっとしたように一瞬振り返って、ひとまず美里を隣のベッドに座らせた。

それから慌てて光に駆け寄り、まだ目覚めない彼の体のあちこちに触れて何かを確認してまわる。

「・・・クソッ」

肩が震えていた。

光のシャツを握り締めて、何かを必死に堪えている。

「俺は、また・・・姫を守れなかったっ・・・」

彼から湧き起こっているものは怒りだろうか?それとも後悔?

見詰めている美里も悲しくて、ふらりと蓬莱寺に歩み寄っていた。

「京一君の、せいじゃないわ」

背中にそっと触れる。

何の慰めにならないとわかっていても、何か言わずにいられないような姿だった。

「俺がもっと早く気付いてたら、そしたら姫は」

「過ぎた事を悔やんでも仕方ない」

「けど!」

振り返った蓬莱寺が叫ぶ。

愛するものを守れなかった悔しさが、彼の全身から滲み出している。

そうして美里はその姿に悟っていた。

(光の事、好きなのね・・・)

たぶん、友達としてじゃなく。彼を愛しているのだと思う。

それと同時に彼の想いは決して報われないことも悟っていた。

時折物思いに耽っていた彼の、向こうに見え隠れする誰かの影に気付かないはずがない。

美里も、彼を見ていたから。だから知っている。光はその人を想っている。

今の蓬莱寺を見ているのは辛かった。

悲しみが直接伝わってきたから、気付いたら無意識に伸ばした腕で彼を抱きしめていた。

「みっ・・・」

驚く蓬莱寺に囁きかける。

「光は、きっと大丈夫」

私達の思いは届かないかもしれないけれど・・・

「私も、あなたと一緒に守るから・・・だから大丈夫、大丈夫よ」

繰り返す言葉は自分に向けても言っていた。

詳しい事情はまだ知らない。けれど、血の目覚めが教えてくれた。

私がすべき事、守るべき人。辛い思いをするかもしれないけれど、それでもあなたのために頑張りたい。

「美里、お前・・・」

蓬莱寺はしばらくして、美里の肩をそっと掴んで引き離した。

「心配すんなよ」

そう言って笑う。

「俺は、平気だ、こんなことでいちいちへこんだりしねえ」

「京一君」

「それになあ、真神のマドンナに抱きつかれたとあっちゃあ、ショボイこと言ってらんねえだろ」

最後は冗談めかした言葉で、美里もつい笑っていた。

屈んでいた身を起こして、蓬莱寺はじっと光を見詰める。

「次は、させねえ」

低く呟く声は、ここにいない誰かに向けられていた。

「姫のこと、二度と勝手にさせねえ・・・絶対に」

片手に持っている深紫の袋をギュッと握り締めている。

背中が痛ましくて、そして、横たわる光が今にも消えてしまいそうで、美里はそっと視線を逸らしていた。

窓から差し込む夏の日差しが、この場にそぐわない鮮烈な命の輝きを彼らの足元に投げかけるのだった。

 

(暗海・