影生は馴染んだ道を歩いていた。
遁甲術で現れた先は、いつもの住処に続いている。
そこは、どこでもなく、どこにもない場所だった。延々と続く竹林にそって進んでいくと、ここに入る事を許された僅かなもの達の一人が影生を待ち構えていた。
姿を認めた途端、影生の表情が僅かに和む。
「紅葉」
駆け寄ると、壬生は暗い顔をしてこちらを見詰めていた。
睨んでいた、といったほうが的確かもしれない。
「紅葉、迎えに来てくれたのか」
影生は構わず親しげに彼に腕を絡ませた。
「何故だ」
「え?」
見上げると、強ばった視線と眼が合う。
「何故、あんな真似をした」
「何のこと?」
「君が光に会う必要は無い」
影生は少し間を置いて、クスリと含みのある笑みを洩らした。
「見てたの?」
そんなはずはない、壬生の気配はあの時感じなかったのだから。
けれど、彼は今でも守人としての役を背負ったままでいる。
姫が望まずとも、龍の望みであれば契約は消えることなどないのだから。
だから、壬生は光の動向がわかる。
大方気の流れで感じ取ったのだろう。今宵、影生が何をしてきたのかも。
「紅葉に覗き趣味があっただなんて、知らなかったなあ」
くすくす笑っていると、急に腕を振り払われた。
跳ね飛ばされるような形になった影生はそのまま乱暴だなあと小さく呟いた。
「いつもの君ならもっと優しかっただろう?御剣光のことになると、君も平常でいられなくなるのかな」
壬生は無言だった。
「けどね、紅葉」
影生はふらりと傍らに寄る。
「忘れてもらっちゃ、困るよ」
伸びてきた両腕が、胴の脇に差し込まれる。
どこを見るでもなく、暗闇に目を奪われている紅葉にするりと抱きついてくる。
「君は約束してくれたんだ、僕を救ってくれるって」
声は、ここにいる影生のものであるはずなのに、はるか久遠の彼方から響いてくるようだった。
黒一色で染められた、その姿は本当に影のように見える。
「拳武の人間は私闘を禁じられている、だから依頼主として正式に依頼もした、君が僕の願いをかなえることは、正当な仕事でもあるんだ」
「そんなことは―――知っている」
「そうだよね、当然だものね」
真夏であるはずなのに、影生の体は氷のように冷えていた。
病的なまでに白く、痩せぎすで、けれど骨のような指先がおおよそ尋常でない強さで制服の背中を強く握り締める。
「紅葉、約束を破ったりするなよ」
闇が囁いた。
「絶対破るなよ、君は、もう後戻りなんて出来ないんだからね」
壬生はそっと瞳を閉じていた。
瞼の裏側に一瞬だけよぎる、あの幻のような日々。柔らかな彼の笑顔。
それはもう二度と戻らない儚い残像。
5年前から開いたままの空洞が、鈍い痛みを伴いながら出血している。それは、この身の内にある。
(いつか―――)
思いのままに、あのしなやかな手足を、穢れのない心を、僕は残忍に屠るのだろうか。
闇はその奥から爛々と瞳を輝かせながら、いまだ戸惑う壬生の姿を窺っているようだった。
「僕を、裏切るなよ」
最後に聞こえた一言が、枷の鎖をまた一つ増やす。
闇の褥は、ぬるい大気満たされて、重苦しく澱んでいた。
(胎動・了)