「紅葉、紅葉ってば」

呼ばれる声で目が覚めた。

隣に人影を探して、そうしてわずかに顔をしかめる。

ここは、どこだ?

随分と暗い。

「紅葉、ようやく起きたね?」

何度か瞬いて、視界に影生の姿を確認すると、彼が日陰を作り出しているのだと気が付いた。

「こんなところで寝ると風邪ひくよ」

傾きかけた西日差し込むベランダに置いた椅子に掛けたままで、膝に読みかけの文庫本を伏せるように置きながら、壬生は転寝をしていたようだった。

寝起きでかすむ目を擦っていると、桟にもたれかかった影生が見詰めている。

「随分幸せそうな寝顔だったけど、君のあんな顔、久し振りに見た気がするよ」

壬生は答えないままで膝の本を取り上げる。

「ねえ、夢を見ていたんじゃないのかい?」

「どうしてそう思う」

「そんな気がした、前にも、そんな顔を見た事があったから」

影生はうっすらとほの暗い笑みを浮かべた。

「御剣光と再会した日も、今見たいな顔をしていたよ」

壬生の動きがわずかに止まった。

直後に何事もなかったように本をたたむと、立ち上がりながら影生を振り返る。

「それより君はいつの間に来たんだ、依頼のこともある、直前にアポを取ってから」

「友達に会いに来るのに、アポなんか必要ないだろう?」

目の前で合鍵をちらつかせる影生に、紅葉は少しだけ顔をしかめる。

「僕が、君に会いに来るのに、何の障害もないはずだよ」

夏場だというのに手首まで隠れる黒のシャツを着込んだ腕がすっと伸びた。

「だって僕らは、親友なんだから」

壬生の腕を捕まえる指は病的なほど白い。その、筋の浮かび上がった腕がするりと巻きついて、体を抱いた。

「約束してくれたじゃないか、僕を助けてくれるって」

壬生は影生を見詰めていた。

「御剣光を殺すことは、僕ら二人にとって必要なことなんだよ?僕らは、彼が生きていると苦しいばかりで、永遠に闇の底から出ては来れないんだから」

「ああ」

暮れゆく日差しに響く声は冷たかった。

光を失ったとき、本気で狂うかと思った。

辛くて、苦しくて、悲しくて、そして、ひどく憎らしくて。

何故こんな目に合わなければならないのか。僕と光が何をしたというんだ、僕らはただ愛し合っていただけだ、こんな無情な仕打ちを受けるいわれがどこにあるという。

忘れろ、といわれて、忘れられるような想いを紡いできたわけじゃない。

理不尽な現実を受け入れられるほど、物分りのいい人間のフリなど出来ない。

光が愛する事を許されない身であるのなら、彼が何者にも心を奪われてはならないものだというのならば。

 

(そんなくだらない鎖、僕が全て断ち切ってやる・・・!)

 

あの春の日から、そのことだけが頭にあった。

やがてそれは身の内に潜む暗い一点となって、じわじわと心を侵食していった。

愛する気持ちは今でも変わらない、けれどその形は歪み、ねじれてしまった。

壬生は愛しいと思うだけ、光を殺してやりたいと願っていた。

文字通り、全てを奪い去ってしまいたい。

けれど御剣の守りは硬く、死に物狂いで鍛錬を続けたおかげでそれなりの力を手に入れることはできたが、果たしてどこまで通用するか想像もつかなかった。

混沌とした思いを抱いたまま、無為に過ぎていく日々の中で。

壬生紅葉は、影生依人と出会った。

今思えばそれが全ての始まりだった。

教えられたことは無いが、様々な根回しの末に、副館長経由で正式に拳武の依頼が降りて、壬生は願いを現実にするための行動を開始した。

数年ぶりに再会した光は、あの頃と少しも変わっていなかった。

姿を認めた瞬間、愛しさで胸が張り裂けそうだった。

これから彼を永遠に手に入れるために、少しずつワナを張り巡らせて行く。

執念と偏愛の織り成す糸は彼のしなやかな肢体をじわじわと縛り上げて、最後には何もかも、奪われたその全てを取り返す。

その瞬間を思うと、全身が歓喜で震えるようだった。

迷いなどない。僕はもう手段を選ばない。

光を捕らえるために。

多少の痛みは甘んじて受けてもらおう。それ以上の苦しみを、僕は味わったのだから。

その姿と同じように変わらない想いを彼の中に確認したとき、壬生から一切のためらいは消えた。

 

その、気持ちに変わりは無いと、思う。

―――今も。

光の涙を見るたび、この胸に沸き起こる痛みなど些細なものだ。

苦しみなど、取るに足らないことだ。

傷つけているんだ、僕が、光を。

(僕が―――)

 

春からこちら、胸の傷は癒えることなく血を流し続けている。

それを振り切ってなお、手を伸ばす僕は一体なんだ。

本当は、何が欲しいんだ。

 

依人の言うとおり、光を壊さない限りこの闇から抜け出すことはできない。

光は、僕の世界を形作る全て。

それが失われた今では、守るべきものも、失うものもない。

ただ壊すだけ。

壊して、全て無くして、一つの大地に返るだけ。

それが定めというなら、奪って、誰の手にも届かない場所へ隠してしまうだけ。

けれど。

 

「紅葉」

伸びてきた影生の手が、頬をするりと撫でた。

壬生は少し乱暴に腕を払いのけて、サッシを開くと彼を視線で促した。

影生はしばらく壬生を見詰めていたが、含みのある笑みを洩らすとおとなしく室内へと戻っていった。

後に残った壬生は、ベランダ越しに見える沈みかけの太陽を眩しく見上げる。

赤い、血のような天空に、消えていく陽はまるで誰かの血潮のようだ。

感慨無く眺めていたつもりだったのに、記憶の底から呼びかける声が聞こえる。

 

「夕日って綺麗だよな、夜を越えて、明日になればまた金色の光が見えてくるんだ」

 

まるで不死鳥のように。

蘇る翼の色は、赤く、美しく。黄金に燃える命の炎。

その輝きの向こうに愛しい姿を見つけたような気がして、壬生は視線を背けていた。

掛け値なしの想いは今もこの身に宿ったままだ。それは彼も同じであると、何度も態度で示された。

あの頃と、今と、何が違うというのだろう。

愛する人を傷つけて、奪って、本当に願うことは一体なんだ。

僕は何がしたいのだろう

 

「もう・・・よく、分からない」

 

振り返るとサッシに手をかけて、壬生は暗い室内に戻っていった。

中で影生が明かりもつけずに立っている。

笑う口元はまるで上弦の月のようだ。解けない枷が幾重にも体中に絡み付いている。

いつの間にこうなってしまったのだろう。

思い出すことすらできない。

今、この身に宿るものは、光へ向かう強い想いと、彼が欲しいという激しい欲求だけ。

闇から伸びてきた腕がそっと壬生を捕まえた。

「約束、やぶらないでくれよ、紅葉・・・」

影生がこの頃よく繰り返す言葉だった。

壬生は、振り返って最後の陽の一筋が、夜に飲み込まれて消えていくさまを見ていた。

それはなぜか、ひどく物悲しい匂いが、した。

 

(陽炎・