勢いよく開いた扉の先では、光と拳武館の教員が眼を丸くしてこちらを見ていた。

「君、一体どうしたんだ」

教員の言葉に耳も貸さず、蓬莱寺は光をじっと見据える。

困惑した表情を浮かべて、聞きなれた声がどうした京一と耳に響いた。

その途端、蓬莱寺の中からストンと何かが抜け落ちていた。

「あ、あれ?」

今の今まであれほど切迫していたはずなのに、まるで憑き物が落ちたような気分で急にそわそわと視線をさまよわせる。

「や、その」

「―――トイレはちゃんと見つかったか?」

問われて、ああそういうことになっているのかとすぐ了解して頷いた。

「お、オウ、ちょっと迷っちまったけどさ、何とか見つけたぜ」

「それはよかった」

教員がほっと一息ついていた。

どうやら校内を他校の生徒が歩き回るのが大分不安であったらしい。こちらもなんとなく察した。

「いや、待たせたかなーと心配で、つい」

「その様子からして走ったのだね?」

蓬莱寺はバツが悪そうにすいませんと頭を下げる。

普段はそんな態度をとったこともないが、ここはこうしておいたほうがいいだろう。

郷に入っては何とやらで、むやみに波風立てる必要は無い。

案の定素直な態度を見て教員はあっさり許したようだった。

様子を見計らったようにして、不意に光が席から立った。

「それでは僕らは失礼させていただきます」

「ああ、そうかそうか」

応える初老の教員は好々爺然としている。どうやらこの短時間の間に光はすっかり気に入られたようだ。

こうなると彼の人付き合いの上手さは殆ど名人芸の粋だと思う。

そして、その事実がまた蓬莱寺を少し不安にさせた。

光は人の心をつかむのがとても上手い。

狙ってやっているのか、天然なのか、判別はつかないが、真神にもあっという間に馴染んでしまった。

それは彼の持つ大きな魅力の一つであり、また強力な武器でもある。

だからこそ、この思いの向かう先にあるものが何であるのか、勘違いなどではないと信じたい。

けれど。

「先生にもお手間を取らせてしまい、申し訳ありません」

「いいんだよ、君さえよければまた来なさい、手が空いていたら話をしよう」

「ありがとうございます」

素直に頷く光を見て、教員はうんうんと繰り返し首を上下させていた。

あんなことまで言われている。

蓬莱寺は僅かにイラついた。

教員は昇降口まで見送りのためについていくと言った。もっとも、それは建前半分、本音半分のことだろう。拳武の教員としての義務と、光を名残惜しむ感情からの行為に他ならない。

昇降口まで来ると、ガラス扉の向こうから顔色の悪い男がちょうど入ってきたところだった。

そちら方面に詳しくない蓬莱寺でも一目で分かるような仕立てのいいスーツを着込み、額の汗をぬぐいながらせわしない足取りでこちらに向かってくる。

「うん?」

目が合うと、小ずるそうな印象が漂った。

「お前たちは何だ、その制服は真神か?」

「副館長」

初老の教員が前に出た。

「こちらは館長のお弟子さんと、その友人だそうです」

「鳴瀧の弟子だと?」

男の野卑な眼差しが蓬莱寺を見て、光を見る。そしてフンと鼻を鳴らして光だけを睨み付けた。

「そうか、お前か」

鳴瀧は無手の技を得意とする格闘家であるから、帯刀していた蓬莱寺は違うと判断されたのだろう。

けれど、なぜか以前から光の事を知っていたような、そんな妙な印象を二人は受けた。

「鳴瀧の子飼いだという話だが、壬生以外にも手駒がいたとはな」

隣で光の気配がピリリと強くなる。男の無礼な物言いに蓬莱寺もムッと表情を歪めた。

副館長は無遠慮に光の姿を見回すと、下卑た笑いを薄い唇に乗せる。

「しかし―――館長殿も随分趣味がよろしいようだ、ひょっとしてお稚児さん趣味がおありなのか?」

「副館長」

教員の強い呼びかけに、副館長は急につまらなそうに表情をゆがめた。

「まあいい、君たちが何をしに来たのかは知らないが、鳴瀧なら今は米国に出張中だ、とっとと帰りたまえ」

「えっ」

蓬莱寺は慌てて光を振り返る。彼にとってはすでに聞いた話らしく、横顔が小さく頷き返した。

「失礼しました」

副館長に礼儀正しく頭を下げて、それから教員にも一礼すると、光は来賓用の靴箱から靴を取り出してさっさと履き替え始める。蓬莱寺も慌ててそれに続いた。

なんとも気まずい気配を背中に感じながら、二人は足早に拳武館の校舎を後にした。

正面通路から続く正門を抜けたところで、蓬莱寺が腹立たしそうに振り返って昇降口の方を睨み付ける。

「なんだありゃ、あんなやつが拳武の副官やってんのか?」

隣で光もううんと唸り声を洩らしていた。

「鳴瀧さんは凄くいい人なんだけど―――あれもやっぱりあの人が選んだ、んだろうなぁ」

「案外そいつも食わせ者なのかも知れねえぞ」

途端、光は厳しい表情で蓬莱寺を睨み付ける。

「違う、それだけは絶対にない」

「何で言い切れんだ」

「鳴瀧さんは死んだ父さんの守人だった人だ、それだけは絶対にない」

蓬莱寺はあっと声を上げた。そして急に申し訳なさそうにしゅんと頭を垂れる。

「わ、悪ィ、俺、バカなこと言ったな」

光が強く否定して当然だ。父親の守人であった人間を貶すということは、その者を選んだ父親自体を貶すという行為に他ならない。知らなかったとはいえ、考え無しの下世話な発言を蓬莱寺は心から詫びた。

「いいよ」

光はどこか寂しげに視線を逸らす。蓬莱寺はいよいよ自分を責めたくなった。

「そ、そうだ、姫、お前、あのセンセーからなんか聞けたのかよ」

精一杯の話題転換のつもりで問いかける。

「ああ、それなりに成果はあった、と思う」

そっかと頷くと、京一は?と逆に光に聞き返された。

「俺もそこそこ、あいつのダチとか言うやつに話し聞けてさ」

言いながら、さっきまでの不安定な気分がよみがえりつつあった。

いくら光の頼みとはいえ、俺は何をしているんだ?

「それで?」

「あ?ああ、えーとな、俺が聞いた話は」

覚えていることをかいつまんで話す。その間中、光はどこか嬉しそうに見えた。

話しながら蓬莱寺の中で何かが激しく沸騰を始めていた。

「そっか」

すべて聞いた後、小声でつぶやく光の姿はどこか納得したような、満足げな素振りに見える。

ひどく悔しかった。

その対象が何であるのか見極められないまま、蓬莱寺はぐっと掌を握り締めていた。

「京一、ありがとう、やっぱり一緒に来てもらってよかった」

無神経にそんなことを言われて、どうして俺が黙っていられると思う?

俺は、俺の思いは、お前はどう思ってるんだ、俺のこと、一体なんだと。

腹の奥で、どす黒い感情がいまやぐらぐらと煮え滾っていた。

「京一?」

顔を覗かれた途端、体中の血がカッと逆流したように錯覚する

気づけば光の両肩をつかみ、拳武館の正門脇の壁に強く押し付けていた。

ドン度言う音と衝撃に、一瞬我に返った蓬莱寺を光が驚いた顔で見詰め返した。

「きょ、京一?」

怯えも疑惑も孕まないその表情。

どうしてそんな顔ができる、この状況で、俺が何もしないとでも思ってるのか?

「俺ってそんなに―――安全パイなのかよ」

「え」

きょとんとしていた金茶の瞳に困惑の色が浮かび上がった。

どうして、なんでという疑問だけが見て取れる。それ以外は何も、何も無い。

「もう、限界だ」

俺はそんなにお人よしじゃない。

無意識に声に出してつぶやいていた。

光の心はここにも、どこにも無い。今目の前にいても、こいつが強く想っているのはあの殺し屋ただ一人だけ。俺が入り込む余地なんてどこにも無い。

そしてそれだけでなく。

俺のこの想いは、まさかこいつに対しての同情や、哀れみから来る勘違いだとでも言うのか。

「違う」

蓬莱寺は呻く。

腹の底から呻く。

「京一、どうしたんだ」

「違う」

「何が違うんだ、一体」

「違う、俺は、そんなはず無い、俺は!」

目の前に愛しい姿があった。

「俺は!」

自分で何をしているのかよく分からない。

感情が理性を完全に圧倒していた。

あれだけ押し殺して、伝わらないように、細心の注意を払ってきたはずだったのに。

ああ、と蓬莱寺は思う。

終わった。

これで、何もかもダメになる。

俺はこいつを守らなくちゃならないのに、朋恵ちゃんとも約束したのに。

なにより、もう二度とこいつの傍で笑うことは許されないだろう。

俺は、おれは―――

 

光に、口付けていた。

 

キスの瞬間わけも分からず硬直していた光は、間を置いてようやく現状を理解すると抵抗を試みた。

だが、六門封神で本来の力を奪われている彼が、懇親の力をこめている蓬莱寺に腕力で勝てる道理もない。

強引に唇をむさぼられて、時折開いた隙間から淡い声が漏れる。

蓬莱寺は唇をただ重ねるだけでなく、深く合わせ、表面を何度も吸い上げてくる。

彼のずっとひた隠しにしてきた想いを象徴するような、熱烈なキスだった。

光は制服の胸元をつかみ、何度か叩いて、否定の意思を弱々しく伝え続けた。

その腕を絡めとり、校門に強く押し付ける。

幸い辺りに人影は無かったが、もし誰かいたとしてもそのときの蓬莱寺は意に介さなかっただろう。

どれほど長く唇を合わせていただろうか。

ようやく、濡れた音と共に引き剥がされて、二人は乱れた息を鼻先をつけるようにして繰り返した。

「きょ、京一?」

呼ばれた途端、蓬莱寺の全身がビクリと跳ねた。

無意識に震えながら、怯えた表情をそろそろと光のほうへ向ける。

「ひ、姫、俺」

許しを請うような眼差しから、光は思わず視線を背けていた。

その途端、蓬莱寺は激しい後悔と絶望を全面にありありと映し出して、そうしてゆっくりと顔を俯けた。

「その、悪ィ」

ぱっと手が離れて、直後に背中を向けている。

今にも逃げ出してしまいたいような、おぼつかない足元を引きとどめているのは彼に託された願いゆえだろう。

そのまま数十秒、硬直していた空気を打ち破ったのは、光だった。

「―――帰ろう、京一」

ふらふらとした足取りで、ゆっくり蓬莱寺を追い越していく。

頼りない後姿を僅かに逡巡して蓬莱寺も直ぐ後から追ってきた。

お互い言葉を交わすことも無く、またそんなことができる状況でもなかった。

正午の光に照らされた駅までの道のりは、白々しく永遠に続いているような錯覚を覚えさせた。

 

(秘事・