それから光とは一言も口をきいていない。
近づくこともためらわれて、蓬莱寺は傍にいることすらできなかった。
(こんなことしてる場合じゃねえってのに)
苛立ちばかりがつのってくる。
夕食のあと、思い余って、一人きりで風呂に行こうとする光を引き止めていた。
「おい、今晩付き合え、消灯済んでから外行くぞ」
光は何も言わず、小さく頷いただけだった。
同室の男共に頼み込んで、真神に戻ってから一週間昼食の面倒を見るということで何とか手を打ってもらった。部屋の一番端の窓の鍵を外しておく事を約束して、蓬莱寺と光の布団には余った枕を詰め込み、旅館を抜け出す。
こっそり持ってきておいた私服が役に立った。
雨どいを伝って下に降り、靴を履いてとりあえず歩き始める。
人のいない場所へ行きたかった。
繁華街と逆のほうに歩いていくので、光は不思議に思ったようだった。
五分ほど歩いて、小さな公園を見つけ出す。
ブランコと砂場しかない敷地内の、蓬莱寺は片方のブランコに腰を下ろした。光はその隣のブランコにためらいがちに腰掛けた。
キイ、と鎖がきしむ音がする。
「なあ、姫よぉ」
蓬莱寺はなんとなしに夜空を見上げる。
京都は星がきれいだろうと勝手に想像していたのだが、街中ではやはりどこもそう変わらないようだった。
ただ、都心より排ガスの量は少ないようで、新宿の夜よりここは空気が澄んでいる気がする。
「昼に言ったこと、あれ、本気か?」
少し間を置いて、ああ、と低い声が答えた。
「そっか」
蓬莱寺は少しだけブランコをこいだ。
「俺さ、お前にちゃんとまだ言ってなかったよな」
「え?」
両足を砂の上に滑らせて、静止しながら光を振り返る。
「光」
名前で呼ばれたのはしばらくぶりだ。
光はなぜだか、ドキリとした。
「俺」
蓬莱寺の鳶色の瞳が揺れている。
夜風がそっと頬をなでて抜けた。
「お前のことが好きだ」
「京一」
「ダチとか、そんなんじゃねえ、あのバカみたいにお前のことが好きだ」
あのバカというのは、壬生のことだろう。
光はこくんと息を呑む。見つめてくる眼差しは、嘘偽りを含まない。
深い思慕の輝きだけが、その奥に溢れている。
「お前にゃ、多分迷惑なことなんだと思う」
違う、と蓬莱寺のために言いたかった。
けれどそれを口にすることはできなかった。
「お前が何考えてるのか、いちいち言わなくても知ってるよ、それくらいは俺にだってわかる」
蓬莱寺はまた正面を向いてブランコをこいだ。
「でも俺も好きなんだ」
鎖が音を立ててゆれる。
「好きになっちまったんだ、お前のこと」
「京一」
光はなんと答えればいいのか分からなかった。
彼自身が言うとおり、その思いを受け入れることはできない。
光の中の壬生の影を消せないことは、誰より光自身が一番よく理解していた。
それでも、と思う。
この気のいい友人を悲しませたくない。苦しめたくない。
嫌われたくないと、強く思う。
自分に関わることが無ければ、きっとそんな思いを抱くことも無かった。
こんな風に傷つけることも無かったはずだ。
(俺が、全部悪い)
どうしてもっと早くに彼の介入を拒めなかったのだろう。
これほど深く御剣に関係する前に、いくらでも取れる措置はあったはずなのに。
きっと自分は蓬莱寺に甘えていた。
この気のいい、腕も立つ親切な男を利用しようとしていた。
一人きりで全てに決別してきたつもりが聞いて呆れる。俺は、何一つ変わってはいない。
壬生がいるころはあいつに頼り、それからは朋恵に頼り、それすら無くなったら、都合よく目の前に現れた蓬莱寺に頼った。
何が剣だ、何が御剣だ、俺は、俺という男は。
(最低の、人間だ)
光は俯いて、足元の砂を蹴った。
わずかに巻き起こった土煙がつま先を汚す。
「なぁ、姫」
頭上から蓬莱寺の声が降ってくる。
「俺もな、本当言うと、お前の事自分でどんな風に思ってんのか、いまいちよく分かってなかった」
ブランコは大分揺れているようだった。振動がこちらにまで伝わってくる。
「けどな、俺は俺なりに考えて、ちゃんと答えを出したつもりだ」
光はまだ下を向いている。
眼下で影が揺れていた。
「俺はお前が好きだ、同情とか、好奇心とか、そんなつまんねえもんじゃねえ、お前っていう人間に惚れたんだ」
蓬莱寺の声が夜風を抜いた。降り注いでくる、暖かな想い。
光は少しだけ顔を上げる。
「だから、俺はやめないぜ」
「え」
「お前がイヤだって言っても、そんなことは知らねェ、これは俺の勝手だ」
よっと声がして、がしゃんと鎖が大きな音を立てる。
視線を向けると、少し前の地面に蓬莱寺がきれいに着地を決めていた。
「俺は、お前を守る」
くるりと振り向いた、その姿を月明かりが照らす。
「誰に頼まれてやるわけじゃねえ、これは俺が、したいからするんだ」
「けど俺は」
「黙れ、お前のことは知らねえ、今言ったはずだぜ」
光は困り果てて眉を寄せた。
その様子を見つめて、蓬莱寺が優しく笑った。
「お前が気にすることじゃないって、そう言ってんだ」
「京一」
「俺はお前が好きだ、けど、お前が俺を好きになる必要はねえ、それと、俺がお前を守るのに、お前は何の関係も無い」
けれど、それでは蓬莱寺の思いはどこへ向けばいい?
受け止める対象の無い感情は、ただ路頭に迷うだけだ。
その結果傷つくかもしれない、哀しむかもしれない。それが分かっているのに、どうして。
「俺はな、姫」
光の心境を見越したように蓬莱寺は続けた。
「損か得か、いいか悪いか、そんな難しいことなんざ考えちゃいねえんだ、そんなに頭よくねえし」
けどな―――話す姿を、淡い月光が包み込んでいる。
「俺はお前を好きだし、尊敬してる、危ないようなら守ってやりたいとも思ってる、この気持ちだけは間違いなくほんまもんだ、嘘じゃねえ」
お前がどう言ったって、そんなことは知るか、これは俺のことなんだ。
「だからな、俺はこないだ拳武の前でしたことも謝らねえし、お前の守人もやめねえ、そんなことをお前にごちゃごちゃ言われる筋合いはこれっぽっちもねえんだ」
「京一」
だからお前も、と、蓬莱寺はいっそう穏やかに笑いかける。
「なーんも気にしねェで、俺にべったり頼ってりゃいいんだよ」
「けど」
「俺らダチだろ?」
光はハッとして蓬莱寺を見つめた。
「俺の、その、こっちの気持ちはダメでも、ダチだってのは間違いねえだろ?」
「―――ああ」
もちろんだと、深く頷き返した。蓬莱寺は嬉しそうに破顔一笑した。
「だったらダチがダチのために骨折るのなんざ当たり前だ、俺はお前のために、いくらだって骨折ってやれるぜ」
ダチとして。
蓬莱寺は言う。
「こっからもそのつもりで、俺達―――うまくやっていけねえかな?」
伺う瞳に返す言葉が見つけられない。
けど―――お前は、それで良いのか?
言外に含む視線を受けて蓬莱寺は苦笑した。
「姫が気にすることじゃねーよ」
「けどお前」
「姫はけどとでもが多すぎるぞ、面倒臭ェ、俺がそれでいいって言ってんだから素直に了解しやがれ」
それとも、やっぱり無理なのか?鳶色の瞳が急に力を失う。
「惚れてるとか抜かしやがる野郎と一緒にいんのは、やっぱちょっと重い、か?」
「そんなことはない!」
光は慌てて首を振る。
「京一が重荷だったり、嫌だったことなんて、一度だって無い!」
口付けされた後だって、戸惑っただけでマイナスの感情は微塵も芽生えなかった。
光にとって蓬莱寺はいつだって一番の友人だった。
そっかとつぶやいて、蓬莱寺はどこか嬉しそうにへへと笑った。
「なら、何も問題ねえだろ」
「でも、お前はそれで本当に」
「くどいぞ、男に二言は無いっ」
びしっと紫の包みを突きつけられて、光は始めて蓬莱寺が帯刀していたことに気がついた。
こんなときにまで忘れないだなんて。
思わず笑いそうになるが、それは武道家として当然のことなのだと、改めて思い直す。
いつも飄々としているので時折忘れそうになるが、こいつも自らの道を究めようとしている剣士だ。
自分にも覚えがある。強くなっていくときの、あの喜び。
新しい技を覚え、それを操り、昇華していくときのあの高揚感。
もしかしたら蓬莱寺は自分でも気づかないうちに、ほかの理由をこの戦いの日々の中に見出していたのかもしれない。
それは光の勝手な想像だった。
けれど、少しだけ気分が晴れたのもまた事実だった。
うん、と小さく頷いて、光もブランコから立ち上がる。
「わかった、それなら俺はもう何も言わない」
「おう」
蓬莱寺は頷いたが、本当の想いは多分願いだけで終わるのだろう。
(けど、それで姫が困るんなら、俺のことなんざ考えない方がいい)
光にはもう十分余計なものが幾重にも巻きついている。
重荷になるような想いなら、そんなものは忘れてくれて構わない。これ以上がんじがらめになる事は無い。
俺の手で、苦しめたりなどしたくない。
自分でも驚くほどにすがすがしい決断だった。そこに迷いは微塵もない。
蓬莱寺は、誰かを守ること、その真の意味を、改めて深く悟ったような、そんな気分だった。
「俺はお前を守るぜ、光」
微笑む姿は頼もしかった。
「だから、俺の背中はお前に預ける、いいな?」
ああ、と光は頷いた。
金茶の瞳は月の光を受けて、黄金に染まっていた。
一辺の曇りも無い、透き通った綺麗な眼差し。
そこに映る俺は、永久にお前の戦友だ。
そして俺にとってお前は、変わることなく憧れの対象であり続けるだろう。
月が、あたりを照らしていた。
天空の星々が二人を見ていた。
蓬莱寺は歩み寄り、光に片手を差し出した。
「改めて、よろしくな、親友!」
「ああ」
暖かい感触がしっかり結び合う。
このぬくもりを手放したくない、ずっと、お前の傍らを俺が守り続けたい。
蓬莱寺が笑いかけるのと同じように、光も笑い返してくれる。
生ぬるい夏の名残を乗せた風が、二人を包むように駆け抜けていった。
京都の夜が静かに満ちていた。
(月下・了)