「光、幸せそうに眠っていたわね」
屋敷からの帰り道、並んで歩きながら、美里が優しく笑みを浮かべる。
「おう」
空になった鞄を適当にぶらつかせて蓬莱寺が答えた。
去年の桜の季節には、再び兄とこの景色を見ることは無いだろうと、覚悟を決めて送り出したのだという、朋恵は、まるで母親のような眼差しで光を見詰めていた。
剣と守姫の絆は深い。
そして、今、剣を繋ぎとめている楔は、去年光自身が全てを賭して取り戻した壬生との絆に他ならない。
人生というのは、皮肉と奇跡で出来ているかのようだ。
らしくもなく哲学的なことを考えて、直後に蓬莱寺は笑う。
「まあ、全部丸く収まって、良かったじゃねえか」
「そうね」
春風が美里の黒髪をなびかせていた。
壬生も、昨日拳武館高校を卒業して、同時に暗殺家業からも手を引いたらしい。
光が目覚めるまで、当面は守人の役目のみに専念するといっていたけれど、目覚めた後は何か考えている事があるらしく、しかしそれに関しては微笑みで誤魔化されて詳しい事は教えてもらえなかった。
そして、壬生もまた、拳武館館長の鳴滝に頼み込んで、影生のための卒業証書を用意していたらしい。
「光の分は、きっと君たちが届けれくれるだろうと思っていたから」
壬生は、壬生なりに、けじめをつけようとしたのだろう。
朋恵が建てた影生の墓に、花と一緒に卒業証書を手向けたのだと聞いた。
墓所は、御剣の墓に近いところに設えたそうだ。
「たとえ、造られた仮初の姿であったとしても、剣は剣、守姫の私が弔うのが道理でしょう」
そう話す朋恵も、この一年で随分変わったと思う。
皆変わりゆくのだ。
それは、人が、人たる何よりの証。
光は―――目覚めたら歳をとらなくなるそうだけれど、それでも。
「変わらないものなんて、何一つ無いんだもんな」
「急にどうしたの、京一君」
「いやなに―――なあ、美里」
「なあに?」
紫布に包まれた木刀が、蓬莱寺の肩でトントンと揺れている。
「お前、大学に進学するんだよな」
「ええ」
「卒業したら、どうするんだ?」
風が乱す髪を片手で押さえながら、美里はウフフと微笑を浮かべる。
「随分気の早い話ね、そうね、でも、実はもう決めているの」
「何だよ」
「学校の先生になるわ」
日差しに目を細めて、蓬莱寺は、へえ、似合ってるじゃないかと笑った。
「なんつうか、美里らしいよな」
「有難う」
「如月は、確か実家を継いだんだっけか」
「そんな事を言っていたわね、比良坂さんは鈴蘭看護学院に通い始めたそうよ」
「お前等連絡取り合ってるのか?仲いいなあ」
「ウフフ、なんだかね、不思議なくらい気が合うの、それで聞いたのだけど、高見沢さんって知っている?」
「ああ、桜ヶ丘の看護士のねえちゃんだろ?」
「そう、彼女に色々と指導してもらっているんですって、楽しそうだったわ」
「へへ、何か、そういうのいいな、怪我したら俺も―――うーん、看護士さんの指名ってできんのかな」
「もう、京一君ったら」
「アハハ、あー、そうだ、そういえば、村雨の事は聞いてるか?」
「え?」
「あいつ、卒業式直後にそのままベガスに飛んだんだぜ」
「ベガス?」
「ラスベガスだよ、カジノで一山当てて帰ってくるつもりなんだと、昨日の夜中いきなり国際電話かけてきやがった」
「まあ」
「ま、どういうつもりか知らねえが、こっちもらしいといえば、らしいよな」
「そうね」
光の邸宅から駅までは結構な距離がある。
徒歩で、比較的のんびり歩いていたはずなのに、気付けばもう目的地の手前までたどり着いてしまった。
そろそろ日暮れらしい。
オレンジかかった空に、鴉が二羽三羽、飛んでいく。
「ねえ」
「ん?」
切符売り場の前で、振り返った美里が蓬莱寺を見上げた。
「京一君は?」
少し夜の気配を孕んだ風が間をすり抜けていく。
「京一君は、これからどうするの?」
美里の不思議な気配に、何となく気持ちを察して、蓬莱寺は肩の木刀を下ろしながら微笑んでいた。
「俺は、このままちょっと出かけてくるぜ」
「どこへ?」
「さて、どこだろうなあ」
振り返って西の空を見上げる横顔に、美里も同じように空を見上げて、また蓬莱寺の横顔を見詰める。
風が茶色の髪をあそばせる。
高校を卒業したばかりのはずなのに、姿は急に大人びて見えて、美里は少しだけ瞳を細めた。
「―――そう」
小さく呟いて、一人で切符を買って、そのまま一人で改札を抜けると、くるりと振り返る。
蓬莱寺が改札の向こう側で佇んでいた。
軽く片腕を上げる姿に、美里は笑顔で手を振り返す。
「じゃあ、またね」
「おう」
「頑張ってね、京一君、私も、頑張る」
「ああ、お前ならきっといい先生になれるぜ」
「ウフフ、有難う」
もう一度、またね、と告げて、後ろを向いた姿はもう振り返らない。
美里もまた、少女から大人の女性へ、羽化が始まっているようだった。
春風になびく髪が壁の向こうに見えなくなるまで見送って、蓬莱寺は背中を向ける。
漂う気配を胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくり一歩を踏み出す。
「また、逢おうぜ」
誰に言うとも無く呟いた一言を運ぶ手紙のように、蓬莱寺の肩に舞い降りた桜の一片が、再び風を受けて彼方へと飛んでいった。
空に、一番星が輝いている。
この便りはきっと、今はまだ眠ったままの、夢の中の光にまで届くだろう。
どれほど離れて、時が経ったとしても、きっとまた逢える。
蓬莱寺には確信があった。
決して根拠の無い思い込みなどではなく、過ぎ去った日々に築き上げた絆ゆえの強い思いが。
「それまでには、今よりずっと強くなって、お前の事驚かしてやらぁ」
軽い調子で嘯いて、肩に木刀を担ぎなおした。
歩き出す先に、夕陽が燃える。
明日という輝きを孕んで、世界は新しい始まりの予感を、誰の胸にも告げていた。
(東京魔人学園拳風帖・了)