御剣邸の庭園は、四季折々にまるで違う景観を織り成す。

春には咲き誇る数多の種類の桜。

夏は青葉茂る涼景と、その合間を鮮やかに彩る花。

冬の様子は侘び寂の心を趣深く醸し出し、けれどそこに銀雪が降り積もれば、景色はたちまち打って変わって、常世の如き幻想的な雰囲気を纏う。

この庭が好きだと、わざわざ面した一室を自室に指定した御剣家裏当主、御剣光のために、家人たちは丹精込めて庭を整えていた。

―――それは今も変わらない。

秋、赤や黄に染まった見事な紅葉を、壬生紅葉は感慨深く眺めていた。

抱き起こして隣に寄り添わせた、未だ目覚めの日を迎えない、想い人の体を腕でしっかりと支えながら。

 

「君の名は、紅葉というのか」

その人はそう言った。

幼くして両親を亡くし、施設に引き取られる事が決まった翌日。

紅葉はまだ幼くて、一人の力では満足に生きていく事も叶わない、そんな状況だった。

その人の名前は鳴瀧冬悟、父の古い知り合いだと自己紹介をしてくれた。

「私と一緒に来るかい、紅葉君?」

自分に選択権は無い。

ただ、頷き返しただけなのに、繰り返し頭を撫でられて、鳴瀧は嬉しそうに笑ったのだった。

「行こう、紅葉君、いや、紅葉、今日から私が、君の家族だ」

小さな手に重ねられた、大きな手。

繋いで歩き出した。

景色の事しか覚えていない。

空は、どこまでも青く、それ以外は一面の紅葉が生い茂っていたのだった。

 

鳴瀧と暮らすためには、いくつか約束しなくてはならないことがあって、紅葉はその条件を全て飲んだ。

ただ、生きるため。

他には何もなかった、小さな紅葉には、それ以上の望みなど生まれようも無かった。

(今にして思えば、素養があったことが救いになったんだろうな)

体を動かす事は元から好きだったし、知識を詰め込む事も、それと同じくらい好きだった。

好んで取り掛かり、自主的に行動している内に、気付けば自分と手合わせのできる者は、世話役の青山と鳴瀧だけになっていた。

青山からは時折まぐれで一本取れる事もあったけれど、鳴瀧にだけはいつまで経っても、勝機を見込むことすら難しいようだった。

今は、どうなのだろうと思わずにいられない。

今の紅葉は苦笑をもらす。

彼等から指導を受けて、自己鍛錬に努める日々は、なんとも心地よく、満ち足りていた。

紅葉自身が自分の実力に関してある程度の周囲の評価と認識を持ち始めた頃、鳴瀧から『組織』と『仕事』に関しての話を聞かされて、今後は君にも依頼を受けてもらうようになると言い渡された、ほぼ同時期に。

 

御剣の守人に関しての、話を聞かされた。

 

紅葉は光の髪を撫でる。

指どおりのいい滑らかな感触に、微かに笑ってそっと口付けをした。

「君が起きたら、ちゃんと謝っておかないといけない事がある―――僕はね、光、君と顔を合わせるまで、御剣なんてとんでもないと、そう思っていたんだよ?」

 

生きるための選択肢でしかなかった。

『仕事』をすることも。

『組織』に所属して、陰の道を歩む事も。

そして、御剣という名の古臭い体制の中で生きる、一個人の影となり生涯尽くす事も、全て。

 

「君の名は、まるで我々の身内になることを予見されて付けられたようだな」

ある時、鳴瀧に言われた言葉だ。

「葉、と言うのは、刃物の刃に置き換えて使われることがある、壬生の意味には、氏族の子を育てるというものもあるそうだ、剣のお傍で見護りあそばす影の忠臣、紅の刃、まったく、成るべくして物事は成るというわけか」

皮肉交じりの声色になどまるで気付かずに、紅葉は足元を埋め尽くす、汚らしく枯れた葉の一枚を眺める。

なら、これは、僕なのか。

秋に木々を染め上げるのは、終を知らせる末期の紅。

最後の生を悪足掻くかのように、一時に命を迸らせて、やがてはらはらと一枚ずつ死んでいく。

(僕も、命の限りを尽くして、やがては徐々に衰え、死んでいくのか)

食いつぶすのは運命という名の抗いがたい飼い主だろう。

紅葉が生きていくための手段。

それこそが、壬生紅葉という固体の存在期間をどんどん削り取っていく。

足元の枯葉を踏み潰して、刹那、胸の内に、漆黒の虚無が産み落とされたような気がした。

 

それから間もなくして、紅葉は形ばかりの誓約と考えていた、生涯仕えるべき『主』と対面する―――

 

「紅葉って、きれいな名前だね」

よく通る優しい声。

季節はまだ春。

庭の木々は生命の喜びを謳歌し、咲き乱れる満開の桜の花びらが、風に散って幾つも飛んでいく。

「どうして?」

光はコクンと首を横に傾げるような仕草をする。

黒髪がさらりと流れて、紅葉は無意識に艶やかな表面を指先で梳っていた。

「だって、秋には色鮮やかな衣に着替えて、銀杏や楓は本当にきれいじゃないか」

「あれは葉の中に含まれる成分が化学反応を起こしているだけだよ、それに、紅葉は冬眠過程にある樹木が起こす一種の生理現象だ、落ち葉はどれも枯れて、死んでいる」

「でも、紅葉を女神様の着物に例えたりするよ?」

「平城京の西、秋に位置する竜田山に住まう神の逸話だね、君はそんな事も知っているのか」

「うん、紅葉も物知りだね」

笑う光の髪に、薄紅の一片が舞い落ちる。

その様子を網膜に焼き付けるように、紅葉はただ見惚れていた。

彼がいるから、彼が笑ってくれるから、こうして、優しい声で、温かな言葉を紡いでくれるから。

「俺、思うんだけどさ」

「うん?」

光の双眸が一瞬だけ、キラリと金の輝きを放つ。

「木の葉が秋になって紅葉するのは、誰かの思い出に残ろうとしているんじゃないかな」

風が黒髪を揺らした。

「そうすれば、冬が来ても、いつでも綺麗な姿を思い出すことができるから、だから、紅葉の名前も、そういう意味を込めて、ご両親がつけてくれたんだよ、きっと」

「えッ」

「つまりね、あの、えっとね」

僅かに俯いて、照れ臭そうに、両手を組んだり解いたりしながら。

「きれいな秋の紅葉みたいに、誰からも愛されて、心に残るような人に育って欲しいって、そういう気持ちで付けられたんじゃないのかなって」

不意に見上げた漆黒の双眸が、まっすぐ紅葉を見詰め返した。

「俺は、秋の紅葉が、大好きだから」

ずっと、ここにあるから。

そうして自身の胸の辺りを軽く叩いた、白い掌。

紅葉は一瞬目を瞠り、息を呑んで、そのまま、光を思い切り抱きしめていた。

「君の」

思い出に、残る事ができるのなら―――

 

「真相は、多分永久に明らかにならないだろうけれど」

紅葉はぼんやり呟きながら、瞼を閉じたままの光の頬をそっと撫でた。

今も、季節は秋。

あれから随分時が過ぎて、けれど御剣邸の庭園は、今年も紅や黄の葉で美しく彩られている。

「君とこうして眺める紅葉は、ちゃんと僕の胸にも刻まれているよ」

滑らかな表面に唇を寄せる。

「だから―――早く一緒に見よう、光」

君にも覚えておいて欲しい。

刹那な中にも鮮やかに命を燃やす、色とりどりの木々の姿を。

「君の言葉が、僕の名前の由来であるように」

紅の刃はもう一人の自分、けれど、その姿をもう二度と現す事は無い。

「ここから見える一片一片、全ての紅葉が、君に捧げる僕からの想いだ」

やがて訪れる侘しい季節を予感させるような涼風が、一筋肌を撫でて抜けていった。

紅葉は、寒くないように、もう少し光を傍に抱き寄せながら、髪に口付けを落として、眼前に広がる景色に瞳を細くした。

過ぎ去った日々の一片一片、その色や形を再び確かめるように、遠く想いを馳せながら。